希代の落語家・立川談志さんの命日は11月21日。2021年は没後10年目であった。亡くなってから長い月日はたったものの、談志さんはいまだわれわれに強い影響を与え続けている。
昨年はさまざまな形でありし日を偲ばれた。『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)は“家族との日々”に焦点を当てた談志さんのドキュメンタリーを放送。TOKYO MXは特番『~立川談志没後10年~復活!言いたい放だい2021』を組み、2005年に談志さんが披露して今も伝説とされる演目「芝浜」をノーカットで放送した。
談志さんの『芝浜』に母娘がダメ出し!
談志さんが“人生の師”と慕う紀伊國屋書店創業者・田辺茂一を綴った『酔人・田辺茂一伝』(中央公論新社)も文庫化された。談志さんが17歳のころにつけていた日記が『談志の日記1953 17歳の青春』(dZERO)として書籍化された。この一連の動きについて、談志さんの娘である松岡ゆみこさんが興味深い事実を教えてくれた。
「『ザ・ノンフィクション』を演出したのは、30代で女性ディレクターの久保田暁さんです。うちのママ(則子夫人)は徹底してテレビ出演NGの人でしたが、彼女の熱意にほだされて今回は了承してくれたため、ママの姿がたくさん使われています。
ナレーションは満島ひかりさんがやってくださり、娘である私の目線から見た語りになっています。立川談志を掘り下げたドキュメントとして、実は初の女性目線の作品だったんです。
田辺先生の本も、若い女性編集者さんから『ぜひ、文庫化したい』というお手紙をいただいて動きだした仕事だし、『17歳の青春』を作ったのも女性編集者の方です。没後10年目の立川談志のいろんな作品は、ほとんど女性たちが作ってくれたものなんです」(ゆみこさん、以下同)
ちなみに、ノーカット放送された伝説の「芝浜」を見て、ゆみこさんと妻の則子さんはこんな感想を抱いたそうだ。
「『芝浜』って夫婦の情愛を描く噺じゃないですか? あれを見て、私とママは『うちのパパは女が下手』って言ってましたね(笑)。唯一うまいのはおばあさんかな? でも、あのときの『芝浜』では奥さんをいろんなタイプに変え、はすっぱな女にしてみたり、最後に『ミューズが降りた』と言われたときは、鉄火な女房にしてみたり、パパもチャレンジしていたのだと思います」
生前、「女に落語はできない」と公言していた談志さん。だが、一方で「男にできて女にできないものなんて、ない。男が勝手につくってダメになったのが今の世の中なんだから、女が変えていくしかないだろう」という発言も残していた。実は、フェミニストの視点を持つ人でもあったのだ。
ゆみこさんが父について一貫して口にするのは「家にいるときもずっと立川談志のままだった」という事実だ。とはいえ、家族でしか語れない談志像もあるはずだ。
「『ザ・ノンフィクション』を見てママと私が思ったのは『私たち2人はわりとつっけんどんで、パパがいちばん家族を愛していたね』ということでした」
「立川談志の娘」は嫌だった
ゆみこさんが東京・銀座でクラブを経営していたころ、談志さんもしばしば店を訪れた。そういうときはすべてのテーブルを律義に回り、お客さんを楽しませ、マイクを握って小噺を披露することさえあったという。
「お店からお客さんに出す周年のDMは、死ぬまでずっとパパが書いてくれていました。それを今読んだら泣けちゃう。『馬鹿な娘を持った親父は大変です』『こんな高い店に来てくれてありがとう。御礼を申し上げます。父、立川談志』って」
談志さんの父としての顔が最も色濃く表れたのは、ゆみこさんが20歳のころのエピソードだ。彼女は知人の芸能事務所社長のすすめでラジオ番組のオーディションを受け、合格する。芸能界デビューを果たすものの、まだ若かった彼女は、既婚男性と恋に落ち、駆け落ちしてしまった。仕事をすっぽかしたゆみこさんを庇いきれなくなった所属事務所は、本人に無断で引退を発表した。
「私の引退を報じるスポーツ新聞を読んだら自分が犯罪者になったみたいな気がして、パパに電話したんです。『ごめんなさい、大変なことになってしまったようです』って。すごい怒られると思ったら『何も心配するな。おまえの代わりに俺が戦ってやる!』って。
その後、本当に1人で私の引退記者会見を開いて『うちの娘は頭がいいから、芸能界のウソを見抜いたんだよ』って言って。そんな変な親います!? あのときは『ありがとう、なんていいお父さんなんだろう!』って思いましたけど(笑)」
自身の経歴を質問された際、ゆみこさんは必ず「立川談志の娘」という肩書を名乗る。
「若いころは嫌で、隠していたんです。お父さんが高倉健さんだったら、子どものころから『私の父は~』って言ってたかもしれないけど(笑)。自分から『談志の子です』って言うようになったのは、特にパパが亡くなってからだと思いますね。『立川談志という人がいて、こんなに面白い落語家だったんだ』ということを継承者として世に伝えていきたいという思いがすごくあるから」
それほどの気持ちがあるのなら、ゆみこさんが談志さんの跡を継ぎ落語家になる道もあったと思うのだが……。
「ないよお! 悪いけど落語の面白さは今だってあまりわからないですもん(笑)。私たちは自分で選んだわけじゃなく、たまたま立川談志の子として生まれたわけじゃないですか? でも、お弟子さんたちは自分で師匠を選んだ。だから、立川談志への思いはお弟子さんたちのほうが強いんじゃないかな」
1000時間分の映像を見直して
事実、立川流には事あるごとに「私に談志が降りてきた」と口にする立川志らくがいる。直系の弟子以外では、爆笑問題の太田光が談志さんを意識するかのような“言い捨て”を見せることがしばしばだ。こういった芸人たちを“談志になりたい病”と称する人もいる。
「私、太田くんに『とはいっても、談志が死んでホッとしてるでしょ?』って聞いたことがあるんです。苦笑いしてましたけどね(笑)。言っていいかわからないけど、それを強く感じる人は実際に何人かいます。志らくさんだってそうだと思うんですよ。だって、談志がいなくなってからみんな売れたじゃないですか?
頭の上の重しがなくなったから。いなくなったことによる寂しさはもちろんあるけど、パパが生きていたらそこまで弾けられていないだろうなって。太田くんに言った『ホッとした』、つまり“楽になった”という言葉は、本人にすごく通じていると思いますよ」
逆に言えば、死してなお強烈な談志さんの存在感だ。それは、実の娘であるゆみこさんにとっても同様だった。
「没後10年に際していろいろなことをやったけど、パパは『それでいいんだ』って労ってくれていると思います。弟(談志さんの事務所で社長を務める松岡慎太郎さん)は『ザ・ノンフィクション』を作るために1000時間分の映像を見直したし、私はパパとの思い出を書くエッセイの連載を始めました。
幼いころからのことを思い出しながら作業して、書いている間じゅうはパパのことにずっと取り憑かれていました。『これは天国にいるパパに“させられてる”な』と感じることが多かったです。でも、こうした作業を投げ出さないのは愛があるからだと思う。やっぱり、私はパパのことが好きなんだと思います」
没後久しくなっても、世間にも、家族にも愛され続けている立川談志さん。人生の可笑しさ哀しさやるせなさを体現した、まさに落語のように魅力的な存在だったのだ─。
ゆみこさんが選ぶ談志さんの言葉
「銭湯は裏切らない」
「行って裏切られることはまずないじゃないですか。あと、パパはお弟子さんに『清潔でいろ』といつも言っていて。談春さんは『300円しかなかったら、牛丼を食べられたとしても叱られるから銭湯を選んだ』って」(ゆみこさん、以下同)
「嫌なことはしないほうがいい」
「人生を楽にしてくれる言葉だけど、よく考えたら逆に大変ですよね。仕事は納得いくものを選ばないとダメだし、生き方のハードルが高くなる。『妥協するな』『自分を貫けるよう頑張れ』という意味も含まれています」
「こんなに腹が立つのは俺にそっくりだからだ」
高校時代、夜遊びに夢中だったゆみこさん。談志さんは娘を更生させようと、馬乗りになって娘をボコボコにした。「『なんでこんなに腹が立つ?』と考えたパパの結論が『俺にそっくりだから』だもん。殴る前に気づいてよ(笑)」
松岡ゆみこ
1963年、立川談志さんの長女として東京都に生まれる。「松岡まこと」の名で1年間だけ芸能活動をしていたことも。著書に談志が息を引き取るまでの9か月間を記録した『ザッツ・ア・プレンティー』(亜紀書房)がある。現在、東京日本橋・お江戸日本橋亭でほぼ隔月開催される「ゆみちゃん寄席」を主催。
〈取材・文/寺西ジャジューカ〉