綿引勝彦さんが75歳で亡くなったのは、'20年12月のこと。それから約1年後の'21年11月8日、妻の樫山文枝が『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に出演し、涙ながらに悲しみを語っていた。
改めて、亡き夫への思いを樫山に聞いた。
亡くなる1か月前までお酒を
「人様にお聞かせする話じゃないんです。もう1年がたちますし、これからのほうが寂しいって、みなさんはおっしゃいますものね。そりゃ精神的にはすごい喪失感だけれど……大丈夫ですよ。自宅も彼の面影だらけですが……」
穏やかな表情で言葉を紡ぐ樫山だが、時折その目線はどこか遠くを見て、悲しみに耐えているようにも見えた。
─亡くなったのは結婚記念日の翌日でしたね。
「どうして私ひとりだけを置いて逝っちゃったのか……。でも、考えてもしょうがないのよね。仕事ができることと、劇団の仲間がいることとが支えになっていますよ」
─綿引さんは最後までがんを隠し続けたそうですね。
「16年ほど前に、舞台の上で解離性動脈瘤が破裂しかかって騒ぎになったことがあり、それからは自分の病気で誰にも迷惑をかけたくないという思いがあったんだと思います。3年間くらい平気なフリをして、顔色が悪いのもバレないように野球帽を深くかぶったり。
“がんなんて2人に1人かかるんだから、公表してもいいんじゃない”って言っても、かたくなでした。細やかに気を遣う人でしたから、逆に気を遣われたくなかったんでしょうね」
亡くなる少し前までは、元気に生活していたという。
「がんは膵臓から肺に転移して、余命宣告も受けていました。でも、お酒は好きだったから亡くなる1か月前まで飲んでいましたね。後輩たちにどんどん食べなさい、飲みなさいってやっていたし……。そういう意味ではいい人生だったのかな」
極秘で闘病生活を送りながらも、身の回りのことは自分でこなしていた。
「自力での呼吸が困難になると、酸素吸入器を病院から借りました。機器から鼻につなぐチューブは、自宅の2階まで届くほど長くしていたけど、着替えるのも大変だったと思いますよ。でも、きちんと畳むところまでひとりでやっていました。
病状が悪化して入院しましたが、初日は高濃度の酸素がいっぱいもらえたからか、すごく元気になって。6時間くらい話していましたよ。それから5日間は思い出話がたくさんできて、かけがえのない時間となりました。徐々に弱ってきて、眠るような最期でしたね」
銀座で弾き語りした時代も
ふたりが結婚したのは'74年12月。樫山が4歳年上の姉さん女房だった。当時の樫山は劇団民藝のスター女優で、NHK朝ドラ『おはなはん』のヒロインを務めて国民的人気があった。劇団の後輩だった綿引さんとは今で言う“格差婚”と呼ばれたことも。
─そのころの樫山さんは、自分は“生涯独身”と思っていたそうですね。
「女優さんって大変な仕事だから、結婚なんてできないんじゃないか、自分にはそんなキャパがないんじゃないかと思っていたんです。彼は年下だけど、何があっても食べさせるって言ってくれました。とにかく自分とまったく違う人だったからおもしろかった。いいことも悪いことも強烈でね。結婚って我慢比べでもありますから。
あんまり強烈なことを言われて我慢の限界までいっちゃって、もうダメと思うことはありましたが、なんだか不思議な魅力がある人だったんです。私も感情の起伏が激しいのですが、彼はその倍で(笑)」
お互いに仕事に打ち込んでいたこともあり、子づくりには積極的ではなかった。
「お互いの“個”が確立しているっていう感じでしたから。ただ、それは若気の至りだったかな。人生って長くって、こんなに続くと知らなかったし、そんなに思いつめなくてもよかったかも。子どもがいてもよかったのかなと思ったりとか、いろいろな反省をしています。でも私が彼を見送ることができて、私の面倒を見ずにすんでよかったと思います」
子どもがいないこともあり、綿引さんは多趣味だった。
「私と出会ったころは、まだ役者だけでは食べていけなかったので、銀座で弾き語りをしていました。ギターも歌もうまかったんですよ。病気になってからは、彼を元気づけるものは、将棋と別荘のある軽井沢の木々でしたね。
自宅にもシクラメンの花を3鉢、買ってきて。今は“あなたの花がこんなにキレイよ”って毎日、水をやりながら話しかけています。本当に丈夫で、健康な人だったから、私が置いてけぼりになるとは思わなかったけど……」
38年前、綿引さんは雑誌で“浮気をしたことがある”と告白している。
「アラ、そんな記事もあったんですか。私には見せないようにしていたんでしょうね。でも隠しごとはすぐわかった。あの人のことは何でもわかっちゃうのよ(笑)」
すべて、お見通しだったのだ。軽やかに笑う樫山の表情は、『おはなはん』のころと変わっていない。
「客席に彼がいるような気がして」
綿引さんは'85年に民藝を退団し、ドラマや映画で主に悪役として活躍。'91年に始まったドラマ『天までとどけ』(TBS系)では岡江久美子さんとの夫婦役でイメージを一新。“国民の父親”として人気になった。
「家族役の方々とは、年に1度みんなで会えるのを楽しみにしていましてね。綿引が声をかけて集まって飲んだり食べたりしていたんですよ」
『天までとどけ』の“丸山家”は、'99年に番組が終わってからも“家族関係”を続けていた。しかし'20年4月、“お母さん”の岡江さんが新型コロナによる肺炎で死去してしまう。
「岡江さんが亡くなったとき、私は2階にいて、綿引は1階のリビングでテレビを見ていて、“ママが死んじゃったよ!”って大声で叫んだのが聞こえてきました。すごく衝撃を受けたみたいでした」
その後、綿引さんは静養のために軽井沢へ。樫山は舞台の仕事が入っていたので、離れて暮らすことに。
「公演が終わり、彼の11月23日の誕生日は、軽井沢で過ごしました。亡くなる1か月前ですね。その直前には、福島県いわき市にある両親の墓参りに行っているんです。後に綿引もそこに入ることになったのですね。
まだ亡くなったという実感はありません。先日出演した芝居でも、客席のどこかに彼がいるような気がして。毎回、初日を見て、私にダメ出しをしてくれていたんです」
樫山は80歳になった今も精力的に活動中。ドラマでは『群青領域』(NHK)に出演。毎年、劇団民藝の新作舞台に出演し、昨年末の舞台『集金旅行』では主演を務めたばかり。今年も朗読や舞台の出演が決まっている。
「彼は、私の芝居を認めてくれて、そのほかのことは我慢してくれていたんだと思います。だから、あと5年くらいは私も頑張れるように身体を鍛えて、寂しくても元気で。劇団があるし仲間もいるから、少しずつ、無理せずにやっていきます」
綿引さんは、天国から樫山の演技を見て優しく“ダメ出し”をしているだろうか。