「お笑いは、師匠のもとで修業を積むイメージがあったので、劇団でお芝居の勉強をしている私たちには無理ですと、最初は断ったんです」
竹内都子と'86年にピンクの電話を結成し、東京発の女性コンビのパイオニアとして活躍した清水よし子。コンビ名の由来は、稽古場に置いてあった10円玉を入れて通話ができる、ピンク色の電話を見た渡辺正行が命名したもの。
「女優になりたくて大阪から上京して、今の事務所の社長が主宰する『劇団七曜日』に入ったんです。ある日社長に、このまま俳優を続けていても、テレビや映画でセリフをもらうのは大変だと思うけど、コントでテレビに出れば、その何分間かは主役でいられる。大阪出身の3人で組んだらどうかと提案されたんです。私と都子ちゃんは乗り気ではなかったのですが、もう1人の女の子に“来年、大阪に帰る予定だから思い出づくりにやってみたい”と言われ、トリオを結成することに」
芝居の稽古と並行してコントづくりを開始。
「当時、同じ事務所に所属していた先輩のコント赤信号の新作コント発表会で、衣装チェンジの間のつなぎで出演させていただきました。それが奇跡的に大ウケして、笑ってもらえたことがすごくうれしかった。“いい思い出ができた”と、いちばん積極的だったメンバーは大阪に帰って結婚し、私と都子ちゃん2人で活動することになったんです。特徴的な声もあって、芝居でも笑わせる部分を担当することが多かったので、短いお芝居をするつもりでコント作りを始めました。ボケとツッコミが明確じゃないのも、お芝居の延長線で始めたからだと思います」
会社勤めとお笑いで過酷な日々
お笑いの新人がなかなか東京でライブをする場がなかった1987年、渡辺正行が主宰する『ラ・ママ新人コント大会』がスタート。同年代の芸人と切磋琢磨するようになる。
「初めのころは、同じ劇団員で結成した磯野貴理子ちゃんがいたチャイルズと、渋谷の街でライブのチケットをタダで配って見てもらっている状況でした。でも、口コミで話題になってあっという間に行列ができるようになって。ウッチャンナンチャンさんや爆笑問題さんも出ていました。そのうち、出演者の組数も増えていきましたね」
渡辺正行が出演者全組のネタ見せ(オーディション)を担当。人気になるにつれ、稽古場がいっぱいになるほど、多くの芸人が出演するように。
「ほかの芸人のネタを見てダメ出しを聞くことが、すごく勉強になりました。自分たちの出番直前までドキドキしていて、いわゆる戦闘態勢。みんな職人のような鋭い目つきでしたね。リーダー(渡辺)の厳しいダメ出しに、私は“ここで泣いたら恥ずかしいし空気が悪くなる”とこらえていたのですが、ウワッって泣いてしまったこともあります」
ネタ見せの結果で、1本ネタが出来る組と、コーラスラインと呼ばれる新人発掘コーナーに振り分けられることに。
「ネタ見せは売れている、いないは関係なし。すでにテレビに出ていたウッチャンナンチャンさんもネタ見せに参加していました。コーラスラインは、ネタがつまらないと思ったお客さんが5人手を上げると強制終了させられるんです。毎月1本新ネタを作りながら劇団のお芝居もしていて、生活のために会社勤めもしていたので、過酷な毎日でしたが夢中で頑張りました」
そのかいあって、ライブを卒業するまで1本ネタの座を守りきった2人。同ライブは、くりぃむしちゅーやバナナマンなど多くの売れっ子芸人を輩出しているが、
「南原(清隆)さんが、当時から“爆笑問題は絶対、大化けする”と言っていたんです。南原さんの洞察力には驚きましたね」
ラ・ママのライブに出始めて10か月がたったころ、テレビ朝日系で放送されていた『ザ・テレビ演芸』という勝ち抜き新人オーディションコーナーの出演が決まる。
ダウンタウンとの差を痛感
「月に1本ネタを作っていて10本たまったから、事務所に提案されたんです。残念ながら10週目で負けてしまったのですが、毎週出ていたことで存在を知っていただけて、その時期お芝居を見にきてくださっていたフジテレビのプロデューサーに声をかけられて『オレたちひょうきん族』に出られることになったんです」
ビートたけしや明石家さんまなどお笑い界のトップですら、セリフがひと言というコントも珍しくなかった同番組。
「みなさん、カメラリハーサルでは手の内を明かさないんです。それがいきなり本番になると、5分のシーンが1時間くらいの収録になったりする。目を見開きながら、壮絶な駆け引きの笑いのバトルを目の当たりにして、すごい世界に来たんだと足がすくみましたし、笑うのを我慢するのが大変でした」
1989年には、東京に進出したダウンタウンのゴールデン初MC番組『全員出席!笑うんだってば』(日本テレビ系)にもレギュラー出演。
「ダウンタウンさんのトークは、当時からすごく面白かったです。私たちは台本のあるコントは割と得意ですが、おしゃべりのトレーニング不足もあって、その差を痛感させられました。ほかにも当時、舞台を中心に活動していた岸谷五朗さんと寺脇康文さんも『SET隊』というコントユニットで出演していたのですが、アクションもすごいし、ハンサムで華もあるので、共演者なのに話すたびに緊張していました」
ピンクの電話は“お笑い第3世代”に括られるが、当時は同世代を意識したことはなかったという。2人もものまね番組やロケのレポーターの仕事が中心になっていく。
「フジテレビで放送されていた『なるほど!ザ・ワールド』では月に2回のペースで海外ロケに行っていました。飛行機での移動はカメラマンさんと音声さん、ディレクターさん、そして私たち2人の5人ですることが多く、バブル期で航空会社のタイアップもあったので、全員がビジネスクラスでした」
臨月でも仕事をこなす日々
打ち合わせで苦手なものを聞かれた際、竹内が「虫ですかね」と答えると……。
「苦手なことをはずしてくれるのかと思ったら、その逆。派手なリアクションが撮れるのでやたらと虫のロケが多かったです。私は結婚・妊娠してからは、すでに決まっている海外ロケは行ってましたが、迷惑をかけるといけないので徐々に行かなくなりました」
しかし、国内での仕事は臨月までこなしていたという。
「早朝の新幹線に乗って大阪の生放送番組に出演する予定だったのが、家を出る直前に破水してしまいすぐに入院することに。テレビ欄には“臨月お笑いタレント生出演”と書かれていたのでどうしようかと思ったのですが、ちょうど臨月だった大阪在住のハイヒールモモコちゃんが代わりに出てくれて、事なきを得ました」
相方「竹内都子」の“見た目イジリ”で心がけていたこととは
ネタとはいえ、昨今は見た目イジリがたびたび物議を醸している。『ピンクの電話』のコントでは、竹内を“デブ”と形容することもあったが、当時はどう思っていたのか?
「今、当時の写真を見ると都子ちゃんってそんなに太っていないんですよね。丸顔で隣にやせている私がいたから、太っているイメージだったのかも。でも私たちも直接的ではなかったです。例えば都子ちゃんが“ハイレグの水着買ったの”と言ったあと、私が羨ましがって“私太っているから、早くハイレグ着て見せて”と言うと、都子ちゃんが“そんなふうに言われたら私、着られないじゃない……”という感じでした」
今の女性芸人は、プロ根性がすごいと絶賛する。
「私たちの時代も“笑われる”ではなく“笑わせる”ことを意識していましたが、今はよりプロ意識が高い方が増えているなと思います。3時のヒロインさんが早朝の生中継番組に出演する直前に起こされて、そのまま現場に向かわされる……というドッキリ番組を見たのですが、時間がないと知るとすっぴんで汗だくになって寝巻きのまま現場に向かって猛ダッシュしていたんです。そして“すいません、遅刻してしまいました”と、汗だくで正直に言っている姿を見て涙が出ました。私なら眉毛だけでも描かせてって言っちゃうかな(笑)」
何歳になっても人は成長できる
現在はそれぞれ、ソロでの活動が中心のピンクの電話。清水は2月19日の舞台NPO法人劇団はーとふるはんどの『母ちゃん、またね!』が控えている。
「以前も出演させていただいた手話劇団の公演なのですが、音が聞こえない中でダンスをしたりお芝居したり、盲導犬と一緒に演技される全盲の女優さんもいらっしゃいます。座長で演歌歌手の山辺ユリコさんはすごく情熱を注いでいらっしゃいます。お芝居は手話の通訳も字幕スーパーも入ります」
舞台の監修を務める石井ふく子氏から学ぶことも。
「今年で95歳になられ、すごい経験値があるのに、今でも稽古に顔を出してくださいます。石井先生を見ていると、年を重ねることが誇らしいと思えるようになりました」
清水自身もさらなる成長を求め、仕事の合間に日本舞踊とシャンソン、フランス語のレッスンを続けている。日本舞踊は地唄舞の山村流愛ふみ派の名取りで、3月13日に大阪国立文楽劇場で長唄の『俄獅子』を披露する。
「以前勉強していた新劇の劇団の演出家に“特技があればそれだけで役をもらえるチャンスが広がる”と言われて以来、いろいろなことに挑戦しています。1人の人間としても楽しみや生きがいを持っていたほうが、豊かな人生になると思うんです。何歳になっても人は成長することができると思うので、“もう年だから……”とやりたいことを諦めるのはもったいないですよね」
最後に、相方の竹内について改めて聞くとこう答えた。「私とは全然タイプが違うから、都子ちゃんの活躍には刺激を受けています。私自身も舞台やお仕事が好きなので、死ぬ直前までお仕事ができたらいいなって思います」