北京五輪、2月8日のSPに挑む羽生結弦(JMPA代表撮影)

 北京冬季五輪が開幕するまで、フィギュアスケートの羽生結弦選手が中国でこれほど人気だと知っていた人は多くなかっただろう。

 10日に男子フリーを控える羽生選手。8日のSPでは8位に沈み、五輪3連覇は厳しい情勢になったが、現地のファンは「ホームだと思って伸び伸び滑ってほしい」「美しさでは世界一」と声援を送っている。

 羽生選手が愛される理由はいろいろ紹介されている。最近ファンになった人々は、五輪2連覇という偉業を達成、舞っている姿の美しさやビジュアル、超一流アスリートが中国を理解してくれている、という3点で好きになることが多いようだ。だが古参ファンは、羽生選手を好きになった理由はそれだけではない、と語る。

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 吉林省の公務員女性(28)は2014年のソチ五輪で、羽生選手を知った。「大学で日本語を勉強していたので、日本人のメダル候補がいるフィギュアをチェックしていた。正直に言うと、年齢の近さや衣装の美しさといった競技以外のことで、羽生選手を好きになった」。

 同年11月に上海で行われたGPシリーズで、フリーの直前練習中に中国選手と衝突した羽生選手は、流血したにもかかわらず試合に出場し、何度も転倒しながら最後まで滑り切った。学校の勉強がうまくいかず思い悩んでいた彼女は、羽生選手の諦めない姿に感銘を受け、スランプから脱したという。その後、学内の選考を突破して日本への留学を実現した。

「大学時代に出場した日本語スピーチ大会では、『尊敬する人』というテーマで羽生選手のことを語りました。彼はフィギュアファンの間ではすでに人気者でしたが、(2014年当時は)一般国民には浸透していなかったです。彼の人気が高まるのは嬉しいですが、私から見たら今追っかけている人たちは“にわか”ですね」と彼女は話した。

中国選手との仲睦まじさで親近感

 中国での羽生選手人気はすさまじい。ボランティアの防護服にはマジックで「YUZU」と書かれ、開会式では「日本選手団の旗手」ではないだけで、現地メディアが「悲報」と報じた。

「2017年3月の世界選手権の表彰式で、銅メダルの中国人選手の金博洋(ボーヤン・ジン)が手にした国旗が裏返っているのを、羽生選手が気付いて直すのを手伝ってあげた」というエピソードは、ほとんどの中国人が知っている。

 同大会で取材を受けていた羽生選手がボーヤン選手に「天天(ボーヤンのニックネーム)加油(頑張れの意味)」と中国語で声をかける場面も、“萌えシーン”として非常に有名だ。

 ただ、これらのエピソードはリアルタイムでバズったわけではない。

 羽生選手のボーヤン選手への“神対応”が広く知られるようになったのは、2018年の平昌五輪で羽生選手が2連覇、ボーヤン選手が中国選手として過去最高の4位入賞を果たした後だ。

 中国でボーヤン選手への注目が高まり、同選手が11歳、羽生選手が14歳の頃に撮影したツーショット写真が発掘されたり、2017年の世界選手権での仲睦まじい2人の動画が次々とSNSにアップされた。

 アイスダンスのリュウ・キンウ選手が羽生選手を抱きかかえる“お姫様抱っこ”も、国営メディアの新華社通信が「2016年のNHK杯以降5回確認されている」と真面目に報じる名物行事だ。

 今大会のフィギュア団体戦の練習時に、「今大会でも羽生選手を抱っこするのか」とメディアに聞かれた柳選手は、「感染対策のためできない。日本チームも許してくれないだろう」と残念そうに答えた。

 北京が冬季五輪の開催地に決まり、中国でウインタースポーツへの注目度が高まったことと、フィギュア男子でメダルを狙える新星が現れ、羽生選手と仲良く切磋琢磨している様子がたびたび発信されることで、中国の国民は羽生選手に敬意だけでなく親しみを感じるようになった。

羽生選手を応援するのも愛国心

 8日のSPでは鍵山優真選手が2位、宇野昌磨選手が3位と力を発揮した一方、羽生選手は8位にとどまった。河北省で小学校教師として働く女性(27)は、「それでも彼が一番美しかった」と強調した。彼女は「競技のことは詳しくないが、私は彼の中国への態度が好き」と語る。

 またTikTok中国版「抖音(Douyin)」を開くと、「羽生結弦選手が中国人に愛される理由」というテーマの短い動画が大量にある。数分に編集された動画では、同選手の輝かしい実績、2014年の転倒事件、中国人選手との友情が紹介され、さらに「中国は好きですか?」とインタビュアーに質問され「I love China」と返答する様子、「感謝中国」と手書きした紙を持つ姿が映し出されている。

 五輪を「国の威信をかけた場」と捉える考えは中国で根強く、自国の人気選手が出る競技で海外選手を応援するのははばかられる雰囲気もある。しかし羽生選手に限っては異なるようだ。ファンは「スポーツに国境はない」と主張する。

 中国国営放送のアナウンサーが羽生選手を絶賛し、外務省の華春瑩報道官も昨秋に「羽生選手の応援は任せて」とツイート。「中国に友好的な羽生選手を応援するのは愛国と矛盾しない」という解釈も成り立っている。

 ウインタースポーツが強化の途上にあり、自国開催なのに中国のスター選手が少ないことが、羽生選手への人気一極集中につながっているとの指摘もある。平昌五輪では、日本が金メダルを4つ獲得したのに対し、中国の金メダルは1つだった。

 今大会では米国人の父と中国人の母を持つフリースタイルスキーの谷愛凌選手の人気が高く、8日に金メダルを獲得したときは祝福コメントが殺到してウェイボが一時ダウンした。モデルとしても活躍する谷選手は世界トップレベルの選手だった2019年に中国籍を取得した。圧倒的な実績と美しさを兼ね備え、中国に友好的な選手がSNSをテコに社会現象的な人気を得るという構図は、羽生選手と共通する。

笑顔でやりきることを願う中国のファン

 8日は羽生選手のSPの得点が伸びず、ネーサン・チェン選手が世界最高点をたたき出した。だが全選手が滑り終わった後も、中国のSNSウェイボでは「羽生結弦」がトレンド1位を維持した。不運を嘆く声も少なくないが、それ以上に「順位はどうでもいいから悔いなく滑ってほしい」「SPで悪運は使い切ったから、あとはいいことしかない」と自分のマインドを切り替えようとする投稿が圧倒的だった。

 新型コロナウイルスで有力選手が次々と出場できなくなる異例の大会において、中国のファンは、羽生選手が10日も笑顔でやり切ってくれることを何よりも願っているようだ。

※当記事は2月10日の午前、羽生選手のフリー出場前に配信されたものです。


浦上 早苗(うらがみ さなえ)Sanae Uragami
◎経済ジャーナリスト 早稲田大学政治経済学部卒。西日本新聞社を経て、中国・大連に国費博士留学および少数民族向けの大学で講師。2016年夏以降東京で、執筆、翻訳、教育など。中国メディアとの関わりが多いので、複数媒体で経済ニュースを翻訳、執筆。法政大学MBA兼任講師(コミュニケーション・マネジメント)。新書に『新型コロナVS中国14億人』(小学館新書)。
Twitter: @sanadi37