「松之助N・Y」代表 平野顕子さん 撮影/伊藤和幸

 お見合い結婚で歯科医の夫と結婚。医師の妻として、母として、目立たぬように求められた「役割」を全うした20年―。だが、40代で離婚を決意。一度は諦めた夢、留学に再挑戦する。多くの「縁」がつながり、たどり着いた第二の人生が「ケーキ職人」だった。「人生はシナリオどおりにいかない」と語る平野さんのパワフルな開拓ライフに迫る。

人生シナリオどおりにはいかない

 甘酸っぱい紅玉(こうぎょく)がたっぷり入ったビッグアップルパイにサワークリームアップルパイ、自家製カスタードが入ったカスタードアップルパイにメープルアップルパイ……。甘い香りに包まれたここは、アップルパイを中心にアメリカンベーキングのパイやケーキを販売する『MATSUNOSUKE N.Y.』。

撮影/伊藤和幸

 東京代官山にある店内にはカフェも併設され、材料を厳選し、りんごをひとつひとつ人の手でカットしたこだわりのアップルパイをいただくことができる。食のセレクトショップ『ディーン&デルーカ』でも販売され、殿堂入りした人気商品だ。

 オーナーの平野顕子さん(73)は、45歳で離婚したのを機に一念発起。アメリカの大学へ留学し、現地で出会ったお菓子を今後の生きる糧にしようと決意。帰国後、お菓子教室からスタートした『松之助』を一代でここまでにした人物だ。

撮影/伊藤和幸

 プライベートでは、60代でひとまわり年下のウクライナ出身の男性と再婚。よく通る声で朗らかに話す平野さんからは、陽のオーラがあふれ出ている。

「よくこんな人生を歩んできたなと思います。ひとつ言えるのは、人生はシナリオどおりにはいかないということ」

 現在、ニューヨークと日本を行き来する2拠点生活を謳歌する平野さんだが、20代~40代までの約20年間は絵に描いたような専業主婦だった。

45歳のときに離婚

 母親の強いすすめで歯科医の男性とお見合い結婚。福井県に嫁ぎ、嫁として、一男一女の母として、求められた役割を忠実にこなしてきた。京都の本店と西陣のパンケーキハウス、代官山店の3店舗をどれも人気店に育て上げた今の平野さんからは想像できない過去だ。

「小さな田舎町だったので、とにかく目立たぬように、目立たぬように過ごしていました。娘と息子が1歳半しか離れていなかったので、神経が子育てにいってしまったこともあります。子どもの教育をし、食事の用意をするのが私の務めだと考えていました。今考えると結構、教育ママだったと思います(笑)」

 夫は歯科医としては優秀だが、ワンマンなタイプだった。姑(しゅうとめ)も舅(しゅうと)に仕えるタイプの人で、それは当時の地方都市では当たり前の光景だった。

母方の祖父は田園調布で歯科医院を開業していた

 結婚3年目のある日、平野さんの心にしこりを残す出来事が起きた。友人が初めて2、3歳の男の子を連れて自宅に遊びに来たときのこと。その年ごろの男児はやんちゃ盛りで、食事中もぽろぽろと食べ物を床に落としてしまう。

「それを見た元夫が友人に向かって、“あなたね。人の家に来て、子どもが落としたものの始末ぐらいしたらどうです?”と言うんです。彼女は謝っていましたが、泊まる予定だったところをその日のうちに帰っていきました。

 後から“ああいったことは、後でやるものだから”と言っても、“そんなことはない。すぐに拾うのがあたりまえ”と、こうなんです。人の気持ちには配慮しないタイプだったのかなと思います」

 子どもの進学先をめぐり、大きく意見が食い違ったこともある。日々のすれ違いが積み重なり、子どもたちが巣立った後、夫とふたりきりで残りの人生を過ごすことが少しずつ想像できなくなっていった。娘の裕季子さん(47)は当時をこう振り返る。

「もし私が母の立場だったら、もっと早くに離婚していたんじゃないかと思います。今はモラハラだ、パワハラだといった言葉もありますし、社会もそういうことに対してわりと厳しい時代じゃないですか。

 けれど、当時は“俺が稼いでやっているんだから、おまえは文句なんか言える立場じゃない”というスタンスの男性が多かったように思います。母も自分のためというより、家族のために生きているような印象でした」

 ひとりで生きる人生を選んだのは45歳のとき。2人の子どもが大学生になり、子育てにひと区切りがついたタイミングで離婚を切り出した。

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 家を出て転がり込んだのは、東京の大学に進学してひとり暮らしをしていた長女のマンション。それまで働いた経験は一度もなかったが、やっかいになり続けるわけにもいかない。そこで、平野さんは個人宅を一軒一軒回り、地図と住所を照合する地道なアルバイトを始めた。

「新聞の求人欄を見ても、今まで働いたことがない40代の女性ができる仕事はビラ配りとかレジ打ちのようなものしかなかったんです。これで残りの人生がすべて終わってしまうのはいささかつらいな、どうしよう……と思っているときに、志半ばで諦めたアメリカ留学が頭をよぎりました」

『松之助』のリボンに印字された「ロビン・ウッド」は、親友の名前。アメリカに憧れたきっかけをくれた大事な友人だ

 最初にアメリカに憧れを抱いたのは、子ども時代のある出会いにあった。幼稚園で、アメリカから客員教授として来日していた父を持つ女の子と出会い、親友になったのだ。

「ロビン・ウッドという名前でね。当時の日本は食品を貯蔵するのに氷で冷やす“氷冷蔵庫”を使っていたんやけど、ロビンちゃんの家には見たこともない大きな冷蔵庫があるし、最新式の家電がそろっている。アメリカってすごい!どんな国でどんな生活をしてはるんやろ?一度見てみたいというのはそのころからありました」

 20歳になった平野さんが、留学を計画し始めた矢先、40代の若さで父が夭折(ようせつ)。アメリカ行きは夢に終わってしまう。

「うちの母というのが女学校に行くにもお手伝いさんがついてくるような田園調布のお嬢様。父と舅から“これをやってください”と言われたら、“はい”と従う人で、とにかく主体性がない人やった。時代もあったやろうし、母もそういうものやと思って受け入れていたのかもしれません。

 母はもともと留学に反対していたこともあって、“私を残して行くの?”と言うんです。一家の大黒柱を失って経済的な余裕もなくなるでしょうし、そんな母を振り切ってアメリカに行く気にはなれませんでした」

 幻に終わったアメリカ留学。息子を後取りに、娘を嫁がせるのが仕事と思っていた母にお見合いをすすめられたとき、こんな言葉をかけられた。

「“馬には乗ってみよ、人には添うてみよというでしょ。まずは結婚して、それから相手のことを知ればいいじゃない?”って。私に断る選択肢はありませんでした」

 専業主婦をしていた20余年、英語嫌いの夫の前で英語を使う機会はなかった。

 晴れて自由の身になったとき、アメリカへの思いが再燃したのだ。

40代、米国留学に再挑戦!

 早速調べたところ、私立は無理でも州立の学費なら贅沢をしなければ貯金で何とかなりそうだとわかった。四季があるエリアがよいと東海岸の州立大学をピックアップしていく。入学には各大学が独自に設けているTOEFLの基準点を満たす必要がある。そこで、神田外語学院に通い、いくつかの大学に願書を送った。

「そのとき、いちばん最初に“受け入れます”と、お返事をいただいたのがコネチカット大学だったんです。これもご縁だと思って、コネチカット大学に決めました」

 生計を立てる算段より、まずは果たせなかった夢を追う選択をした平野さん。帰国後、どうやって生活費を稼ぐかを考えないわけではなかったが、生来の能天気さで、「まあ、なんとかなるでしょう」と前向きに捉えた。この時点では、自分がケーキ職人になるとは夢にも思っていなかった。

 アメリカに行く前に、平野さんがどうしても了承を取っておきたかった人物がいる。2人の子どもと母親だ。

「息子は堅実で、“留学に800万円もかかるの?そんな無謀なことはやめて僕に投資すればいいのに”と言っていましたが、自分の思いを話したら“それだけの決心があるならしょうがないね”と納得してくれました。娘は“行ってらっしゃい。卒業できたら快挙じゃない。卒業できたらね”と賛成してくれて。

 
意外なことに、母は離婚も反対しなかったし、留学の話をしたときも渋々賛成してくれたんです。母も元夫の態度を見たり、いろいろ経験したりで、思うところがあったんでしょう」

 念願のアメリカの地を踏んだ平野さんは、キャンパスライフにも慣れ、充実した日々を送っていた。そんな矢先、悲しい出来事が起きた。同じ寮内で暮らす25歳の中国人留学生の女性が急死したのだ。

ケーキ作りと学業を両立し、無事に米国の大学を卒業

「最初はただの腹痛だと思って我慢していたみたいです。けれど、その後も痛みが続き、大学の診療所に行ったときはもう手遅れでした。

 大学側の処置の仕方によっては助かったんじゃないか……と、留学生対大学の大論争に発展したんです。

 彼女は英語もペラペラで、とても優秀な子だったんですけどね。

 やりきれないし、アメリカという国は大げさに物事を伝えないと応えてくれないんだと思いました。と同時に、誰も頼る人がいなかったこともあって、初めて強烈な孤独を感じたんです」

 孤独だったこの期間、これから自分はどうやって生きていきたいのかを深く見つめ直したことが、その後の縁を引き寄せる大きな契機になった。

 最初の出会いはジャック・ケルアックをはじめとするビート文学に通じ、英文学の基礎クラスを持っていたアナ・チャーターズ先生だ。18、19歳ばかりの学生の中でひとり40代だった平野さんはアナ先生と年が近く、すぐに親しくなった。それまでは大学の寮に住んでいたが、「ウチに来ない?」と声をかけられ一時的に下宿していたほどだ。

「料理もお上手な方で、たまに食事をご一緒すると食後は毎回手作りのケーキが出てくるんです。特にポピーシードケーキが何ともいえないプチプチとした食感で、ものすごく美味しくて。

 あるとき、“帰国後は英語で食べていこうと思っていましたが、勉強すればするほど自分程度の英語力では無理だと思うんです”と相談したら、“ニューイングランド地方のデザートを勉強したら?”とおっしゃって。

 しかも、“アメリカンケーキと謳っても日本では流行らないだろうけど、ニューイングランドとはイギリスの迫害を逃れた清教徒が移り住んだアメリカ北東部6州のことで、移民たちは自生していたりんごでアップルパイを焼いていて……ってストーリーを語ることができるじゃない?”と言うんです。賢い人は考えることが違いますわ」

 アメリカには“As American as apple pie” という表現がある。「アップルパイの如くアメリカ的」という意味だ。これほどアメリカを象徴し、親しまれている食べ物もないだろう。「これだ!」と思った平野さんは、すぐに先生を探し始めた。

この道と決めたケーキ修業時代

 最初に師事した先生は、キャンパス内でアップルパイやパンを販売しており、生徒たちの間でも「美味しい」と評判だった。

「その人に師事しようと工房を訪ねてみたら、“あなたに捧げる時間はないわ”と言われたんです。『三国志』の三顧の礼じゃないですけど、3度、4度と訪ねてみたら、ものすごく雪深い地域だったこともあって、“雪の間は構内での販売ができないから、その間の3か月なら毎日あなたに1時間半取ってあげられるわ”と言っていただいて。

 アップルパイとそのほかのケーキを少し習ったんですけど、結局1か月ぐらいだったかな。短いし、それだとディプロマ(卒業認定)も取れないわと思って」

 次に見つけた先生の教室は料理が主体で、ケーキもヨーロッパのものが多かった。目論見がはずれた平野さんは、ほかの生徒に「ニューイングランド地方のケーキを教えてくれる先生、誰か知らない?」と聞いて回り、ひとりの生徒から有力情報を得た。

「そこで出会ったのがシャロル・ジーン先生です。“あなたは日本に帰ったら、ケーキのお店をやるのね。私の夢はB&B(小規模の食事付き宿泊施設)をやることなの”とおっしゃって。かわいい教会を買って、彼女の旦那さんがそれをリノベーションしている最中だったんです。

 オープンしていたら私に時間を割くことはできなかったでしょうし、タイミングもよかった。すごく素敵な先生で、今もレシピを習い続けています。師匠であり、親友です」

留学中、車で旅に出たこともある。「あるお店に入った途端、一斉に視線が集まって。周りを見たら白人しかいない。田舎だったので“こんな場所に日本人が?”という驚きもあったんでしょうね」 撮影/伊藤和幸

 授業がない日は高速で片道1時間半の距離を車で飛ばし、朝から夕方までレッスンを受けた。

 その後、少し早めに卒業できそうなこと、先生の家により近いことからイースタンコネチカット州立大学に転校。先生の手が空いたときに飛んでいって教えを乞うことができるようになった。

 プライベートをほぼケーキの習得に費やした9か月の集中授業で、アメリカンベーキングの基礎はもちろん、お菓子教室での会話の仕方や間の取り方まで学ぶことができた。気がつけば、更年期の症状も消えていた。

帰国しても何の後ろ盾もないし、これを習得したからといって何の保証もありません。だけど、これで暮らしを立てていくと決めた以上、できることはやろうと思いました。

 
シャロル先生は、材料や準備をきちーっとする人で、“オーブンを休ませないこと”も教わりました。ケーキにはオーブンでしばらく休ませたほうがよいものと、すぐに取り出したほうがよいものがあります。

 “あれが何分後に焼き上がるから、次はこれの準備をして……”と効率を考えるようになり、自分でお店を始めたときに役立ちました。今の仕事があるのは彼女のおかげだと思います」

ひとりで生きると決めた猪突猛進の50代

 アカデミックガウンを着て、角帽を投げる─。まるで、映画のような卒業式を終えた平野さんは日本に戻り、お菓子教室を開いた。場所は実家のキッチン。ひとりでいることが嫌いな母も、多くの生徒が出入りすることを気持ちよく了承してくれた。

「ニューイングランドのケーキなんだから、開拓時代の格好をして教えては?」

 アナ先生からアドバイスを受け、レッスンは金髪のウイッグをつけて行った。

今もレシピを習っているという恩師・シャロルさんと

 開業当初の生徒は2、3人だけ。しかし、家の外に看板を出しておいたところ、京都新聞の記者が面白がり、紙面で大きく取り上げてくれた。

 その効果は絶大で、一気に150人もの生徒が押し寄せた。ひとりでも生きていけると手ごたえを感じたのはこのころだ。

 一方で、母のキッチンを借り続けるわけにはいかないという思いもあった。1クラスで6人、1日3クラスで週に5日教えており、多くの生徒から「こんな美味しいケーキだったらお店をやりはったら」という声も上がっていた。

「それで、その気になって、京都に教室兼店舗のお店を出すことにしたんです」

 京都の中心地・高倉御池に出した『Cafe&Pantry松之助』は町家を改装したもの。大好きだったニューヨークの『ディーン&デルーカ』にならい、白、黒、グレーを基調にしたモダンなデザインにした。

 京都の店が安定したのを機に、母が生まれた東京に店を持つ夢をかなえるべく上京。目黒のアパートで住居兼教室をスタートさせた。そのころの生徒のひとりが、現在、平野さんの右腕として「平野顕子ベーキングサロン」で講師を務める三並知子さん(52)だ。

「新聞の見出しが、“おかし(菓子)な英会話教室”で、アメリカンケーキを作りながら英語を学べるというものだったんです。興味をそそられ、すぐに予約を取りました。

 先生の教え方はとにかくテンポがいいし、美味しいケーキを作ってほしい!魅力を伝えたい!という熱量がハンパなく強いんです。生徒さんの手元、ボウルの中の状態を瞬時に見て、どんなに離れた場所からも檄が飛んでくる。先生の観察力はすごいです」

「英会話も学べるお菓子教室」と新聞で紹介され、話題に

 お菓子作りの道具を車に積み込み、片道8時間かけて東京・京都間を往復する日々が何年も続いた。

 小売店としては、横浜のアウトレットモールに出店。昼間はお菓子教室をこなし、夜にケーキを焼いて、朝売り場に持っていくハードスケジュールをこなした。店名はまだ『松之助』ではなく、『ミセスコネチカットケーキハウス』だった。

「ニューイングランドのケーキだから店名は横文字だろうと思っていたら、弟が『じいさんの名前をつけたらどうや』と言うんです。インパクトがあるし、誰にでも覚えてもらえるやろって。これには感謝ですね」

 その後、知人3人と赤坂に共同経営の店を出すが、意見が合わず、袂を分かつことになった。そして巡り合ったのが、今の東京店がある代官山の空き物件だ。申し分ない物件だったが、その家賃は分不相応に思われた。

「開高健さんってもともとサントリーの社員だったじゃないですか。そのエッセイに、サントリー創業者・鳥井信治郎さんの“やってみなはれ、やらなわかりまへんで”という言葉があって、印象に残っていたんです。

 鳥井さんは大阪の方ですから、京都出身の私が言うなら、もう少し柔らかい響きの“やってみはったら”。この言葉が浮かび、一昼夜考えてその物件を借りることにしました」

 新しい店舗は、いつか大好きなニューヨークに店を持ちたいという願いを込めて、『MATSUNOSUKE N.Y.』と名づけられた。

ニューヨークに拠点を移し、再婚

 60歳になった平野さんは、さらに大きな夢への一歩を踏み出すことにした。

「それまで直感というか肌感覚を信じてやってきたので、このときも“いよいよNYにお店を出そう”と物件を探しはじめたんです。と同時にアパートも借りて(笑)」

代官山の店舗で仕込みをしていたスタッフを労う声かけも欠かさない平野さん 撮影/伊藤和幸

 自分らしく、本音でいられるニューヨークが最も自分に合っていると語る平野さん。幸い、ニューヨーク大学の近くにこぢんまりしたよい物件を見つけてそこに決めた。しかし、賃料月80万円と高額なわりに人通りが多いわけではない。貯金を崩しながら補填するも、毎月、100万円近い赤字が積み上がっていく。

「“石の上にも3年”ってことわざもありますし、3年は続けたいと思っていたんですけど、仕事をするうえで“撤退の時期は間違えない”と決めていたので、2年でお店を閉めました。

 もっとリサーチしておけばとか、あのときのお金があったらこんなこともできたなとか後悔がないと言えばウソになります。けれど、過ぎ去ったことを考えても仕方がないし、今では挑戦してよかったと思っています。考えてみたら、バカですよね。日本人がアメリカでアメリカのケーキのお店をやろうやなんて。えらい高い授業料になりました(笑)

 仕事に没頭し、夢を追いかけた45歳から20年近い独身時代。これからはひとりで生きていくと決めていた平野さんは、ゆっくり朝風呂を楽しみ、大好きな洋画を見るなど暮らしの中に楽しみを見いだしながら日々を過ごしていた。当時を知る編集者の本村のり子さんは次のように語る。

「もともと『松之助』のアップルパイの大ファンで、初めてレシピ本のお仕事をご一緒させていただいてから15年のお付き合いになります。

昨年、パワフルに年齢を重ねる秘訣を綴った自著『「松之助」オーナー・平野顕子のやってみはったら!』を上梓。アップルパイのレシピのほか、家庭料理のレシピも紹介している 撮影/伊藤和幸

 ニューヨークにお店を出す直前あたりで日本に戻られたときにお会いしたんですけど、法律について書かれた昔の電話帳ぐらい分厚い書類を読んでいらして。

 ものすごく集中されているのも、念願だったんだなということも伝わってきました。うらやましいぐらいキラキラされていて、こんな60代を過ごせたらステキだなと思いました」

 ニューヨーク暮らしを始めてしばらくたったころ、友人宅の庭でホットドッグを食べる小さな集まりがあった。そこで出会ったのは、ウクライナ出身のイーゴ・キャプションさん。

 住まいが近く、スーパーマーケットなどでたびたび顔を合わせる機会があった。連絡先を交換し、お互いの家族のことや近況を報告しあううち、ひと回り以上年下のイーゴさんとの交際が始まった。

「年齢はただの数字。それより相性のほうが大事」と語るイーゴさんから見た平野さんの第一印象はこうだ。

「チャーミングで、芯のある女性だなと思いました。英語で言うならdecisiveな女性(決断力のある女性)。その印象は今も変わりません。バイタリティーあふれる彼女ですが、穏やかな面や出すぎない控えめな面もあると思います」

 あるとき、こんなことがあった。気分が悪くなった平野さんが嘔吐すると、イーゴさんが「洗えばすむこと」と両手で受けとめたのだ。ひとりで走り続けてきた平野さんが、弱みをさらけ出しても大丈夫な人がいると感じたその出来事は、結婚を意識する要因のひとつになった。

 娘の裕季子さんは交際中の2人をこんなふうに見ていた。

「結婚する前に一度、イーゴさんと日本に来てくれたことがあるんです。日本にまで来てくれるんだから誠実な人だなと思いました。母は結婚したそうでしたけど、相手から言ってもらうのを待っていたのかな?こんなことを言うと、余計なことをバラすなと怒られそうですけど(笑)」

 出会いから5年後にふたりは結婚。20年余りの結婚生活と20年近い独身生活を経て、60歳を過ぎてからのニューヨーク再婚生活が始まった。

「程よい距離」が長続きの秘訣

「とにかく売り上げを伸ばさんと」

 再婚するまでの平野さんは、必死で数字を追いかけていた。スタッフ個々に生活があり、その生計を担っているのだからという思いもあった。しかし、起業家が書いた本を読むうち、ある女性経営者の「数値化できないものも大事」という記述がふと目に飛び込んできた。

「接客の上手さや、ケーキをキレイにカットする技術は数字に表れません。だけど、その子たちがいるから、お客様にとってまた来たいと思えるお店になっているわけで。やっぱり人が大事なんやと改めて気づいてからは、前よりみんなに声をかける機会が多くなったかな」

 人が財産というだけあり、『松之助』にはもともとお菓子教室に通っていた生徒だったという長い付き合いのスタッフが多い。代官山店に勤めて7年目という小田桐道代さん(49)も、そのひとり。

「先生のレッスンを受けていたころ、うまくできなくてみんなの前で檄を飛ばされていたAさんという方がいたんですね。

 それが何度か続いて、ある日先生が“私はよかれと思って言っているけれど、あなたを傷つけているのであればこれ以上何も言いません。あなたはどうしたいですか?”と質問されたんです。私は先生のその熱意と優しさと正直さが大好きで」

 何をするにしても手を抜かず、失敗しても引きずらない。そんな平野さんを慕うスタッフは多い。

 娘の裕季子さんは言う。

「生徒さんは母からエネルギーをもらっているのかもしれませんが、母も“若い世代の方からパワーをもらっているのよね”と言っていました」

スキーや釣りなど、夫婦で過ごす趣味の時間も大切にしている

 前述の編集者である本村さんも同じく、平野さんからパワーをもらっているという。

「レシピ本の撮影のときなども、ご自分の手が空いたら率先して洗い物をして、私が立っていたら椅子をすすめてくださって、常に周りに気を配ってらっしゃる。『松之助』のスタッフのみなさんもそんな方ばかり。

 先生の一歩踏み込む力もすごいですよ。気になる人がいたら有名・無名にかかわらずすぐにお手紙やインスタのDMからご連絡するんです。そして、どんなに相手が有名な方でも“私なんて……”と卑下することなく堂々としている。それが気持ちいいんです」

 気遣い上手で、好奇心に忠実。バイタリティーの塊のような平野さんだが、ニューヨークでは、イーゴさんの好きな釣りやスキーを共に楽しむ穏やかな日々だという。

「主人は釣りに行って大物が釣れると、満面の笑みを浮かべて持って帰ってくるんです。そのときの感触や手ごたえについて事細かに話してくれるので、こちらまで感動が伝わってくる。それを捌いて、3日ぐらいかけて食べるんです。些細なことなんですけど、1匹の魚で何日も幸せが続く。そういう感性が芽生えたのは彼のおかげです」

 実は、平野さんは能装束の織元の家の生まれ。高価なものにはそれだけの意味と価値があると考える平野さんと物質的な欲が薄いイーゴさん。異なる価値観から議論になることも多いが、それでも関係をうまく続けていけるコツがあるという。

いたわり合い、寄り添いながら、今度の結婚はまっとうしたい」と平野さん

「私は靴が大好きなのですが、主人は900円のスニーカーでいい人。高いものは縫製がいいでしょ?と言っても、高いものが必ずしもいいものではないでしょ?と返ってきたりするんです。

 まあ、人の価値観も幸せも人それぞれ。それでケンカしても意味がないから、そんなときは『チェンジ、サブジェクトしましょう』と言っています。それも、関係を構築していくうえで大切なことかなと思いますね」

 実り多き2拠点生活を送る今、この先も元気で年を重ねていくことが希望だという平野さん。

「先日、テレビで70代の方の事件を取り上げていて、見出しに“高齢者”と書いてあったんですよ。70代は世間では高齢者なのか……と、もうびっくり!初めて認識しました。でも、主治医の先生は“年齢は見た目ですからね”とおっしゃっていましたし、私は、60歳から年齢を数えないことにしています。

 年々歳々、どこもかしこもガタがきてしまって、もうグラビテーション(重力)には逆らえませんけどね(笑)」

 取材後、人数分のコーヒーカップをサッと下げ、「これで大丈夫かな?では、私は先に失礼させていただきますね」と去っていった平野さんの足取りは、重力を振り切ったかのように軽やかだった。

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〈取材・文/山脇麻生〉

 やまわき・まお ●ライター、編集者。漫画誌編集長を経て'01 年よりフリー。『朝日新聞』『日経エンタテインメント!』などでコミック評を執筆。また、各紙誌にて文化人・著名人のインタビューや食・酒・地域創生に関する記事を執筆。