「娘の死は、旅先で知りました。頭が真っ白になって。ショックで涙も出ませんでした。八戸へ帰って納骨して、そこで初めて大声で泣きました。死なせなくてもいいじゃないですか。娘をここに連れてきてほしい」
松山地方裁判所第41号法廷。パーテーションで囲われた証言台からは、娘を失った母の悲痛な思いがあふれていた。
令和2年2月、松山市内のマンションで同居する女性を抑えつけて死亡させたとして、傷害致死容疑で起訴されていたのは平豊輔被告(38歳)。その裁判が今月2日から始まった。
被害者は曾我道子さん(当時33歳)で、平被告が経営していた飲食店にママとして勤務していたことで知り合った。
当時、平被告には妻子がいたが、事情があって別居しており、その間に曾我さんとは不倫関係に発展していた。
そのうち曾我さんから離婚を求められた平被告は、紆余曲折あったものの離婚し、曾我さんとの将来を考えるようになっていた。ただ、ふたりはしょっちゅう口論から大げんかを繰り返すことがあり、警察が出動する騒ぎを起こしたことも複数回あったという。
当時100キロ近くあったという平被告に小柄だった曾我さんは太刀打ちできるはずもなく、曾我さんはケンカの際に物を投げたり、大声でわめいたりすることがあった。
事件が起きたその夜も、きっかけは些細なことだった。そして、揉みあううちに平被告は曾我さんをベッドにうつ伏せに抑え込むと、上半身に布団をかぶせ、そのまま彼女が静まるのを待ったのだが、おとなしくなった曾我さんはすでに意識を失っており、その後、死亡した。
まさかの「無罪主張」、そのワケは
これまでの裁判では検察が傷害致死を主張したのに対し、弁護側はまさかの無罪主張だった。
実は曾我さんには心臓に“気になる点”があったという。循環器内科への通院歴があったのだ。弁護側は、曾我さんは心臓の病気(冠攣縮性狭心症)で死亡した可能性を否定できないとし、法廷には検察、弁護側双方の証人として実際に曾我さんを診察した医師がふたりと、解剖を担当した医師が出廷した。
医師らによれば、確かに心電図を見れば、曾我さんの心臓には気になる点があったという。しかし、それが重篤なものであったかどうかは「可能性」の話に終始した。
曾我さんを最初に診察したかかりつけ医は、「冠攣縮性狭心症(からの致死性の心臓トラブル)の疑いは否定できない」とする一方で、かかりつけ医からの紹介で診察した総合病院の医師は、「可能性はあるが限りなく低い」と証言。そして、それが死亡の要因になったかということについては、解剖した医師がその解剖結果から否定した。
一方で、なぜ平被告が曾我さんをそこまで抑え込んだのかについては、2人の体格差を考えれば「やりすぎではないのか」という印象はあったし、検察も曾我さんの母親も、「そこまでする必要性があったのか」ということを問うていた。
あの日、本当は何があったのか。
被告人質問では、あの日の出来事のみならず、それまでの「壮絶な日々」が平被告から語られた。
明らかになったDV被害
被告によると、曾我さんは、酒を飲むと豹変することがあった。
仕事柄、飲酒をしないというわけにもいかず、平被告は店のマネージャーらに飲ませすぎないようにと注意していた。仕事モードのときの曾我さんは、ところ構わず暴れることはなかったが、仕事から解放されて平被告がそばにいるときに限って、豹変したのだという。
しかも何が気に入らないのか、何で怒っているのか、スイッチがいつ入るのかもわからないため、平被告は酔っている曾我さんと接する際は言葉にも気を付けていた。
しかし、いったんスイッチが入ると、走行中の車内から平被告の私物を投げ捨てる、車から飛び降りようとする、ハンドルにつかみかかるなど命の危険すらいとわない行為に及んだ。実際に危険を感じた通行人に110番されたこともあった。
また、自宅の壁という壁は曾我さんが暴れた際にできた穴が無数にあり、気に入らないことがあるとベランダから大声で叫ぶ、飛び降りるそぶりをする、挙句には室内に放火をするなど、その行為は常軌を逸していた。
3度目の通報で駆けつけた警察官から、平被告がDV被害者に当たるとの指摘を受けたこともあった。
平被告はとにかく抑えつけなければ何が起こるかわからないという「恐怖」を感じ、曾我さんが暴れるたびに抑えつけては、暴れ疲れて眠ってくれるのをひたすら待っていたという。
あの夜、曾我さんは被告にスマホを見せてきた。出勤前の和服姿を見せたかったようで、「これ見て」といってスマホを平被告に渡した。しかしそのカメラロールの中に、元カレの写真があるのを被告が見つけてしまう。日付は、ふたりが同居し始めたよりもあとのものだった。
説明を求める平被告に対し、表情を一変させた曾我さんはスマホを返せとわめくと、包丁を握った。そして、平被告の左胸下部にぐいっと突き付けたという。それまでにも刃物を持ち出されたことはあったというが、突き付けられたのはこの夜が初めてだった。平被告はこのとき、「実際に刺されたと思った」と証言した。
「ケータイ(スマホ)返せ! ぶっ殺すぞ!」
平被告がスマホを返すと、いったんは落ち着いたように見えた曾我さんだったが、ブツブツと何か言いながら室内をウロウロと歩き回り始めた。
「テーブルの上にハサミがあって……。これまでも興奮するとハサミやボールペンを振りかざすことがあった」
思いついたように曾我さんがテーブルへと走ったのを見た平被告は、慌てて彼女を捕まえるとそのまま寝室のベッドへと引きずりこむ。ベッドに引きずったのは、フローリングだと倒れ込んだ際に二人ともがケガをするかもしれないと思ったからだという。
布団に抑えつけられてもなお、「ぶっ殺す!」とわめく曾我さんの両足を挟み込み、両手も手首をつかんで抑えつけた。
5~10分経過しただろうか、おとなしくなったのを確認して、平被告はいったんその場を離れた。口の中が切れていた。
「なんでこんなケンカせないかんの」
そう言いながらベッドルームへ戻ると、曾我さんは起き上がり、すぐにまた興奮し始め、今度は窓に手を伸ばした。平被告は以前曾我さんが飛び降りようとしたことを思い出し、再び彼女を抑え込んだのだった。
しかし、しばらくして彼女の異変に気付く。平被告は119番して救急隊からの指示のもと救命措置を施したが、曾我さんが息を吹き返すことはなかったという。
大切な人だった。だから別れなかった
検察は平被告の行為を、「殴ったり蹴ったりするより命の危険性が高く悪質」とし、曾我さんの非をあげつらうような主張を繰り返していて反省していないと非難、むしろ“死人に口なし”で都合のいいところだけを話すことも可能だとした。
そして、2回目の抑え込みの際に曾我さんは凶器も持っていなかったのだから抑え込む必要などなかったとして懲役7年を求刑した。
弁護側はあくまで病死の可能性が否定できない以上、因果関係が成立しないとして無罪を主張。また、解剖を担当した医師に正確な情報が伝わっていなかった可能性も指摘し、曾我さんの平被告へのDVについても裏付けがあるとした。
すでに保釈され、実母と暮らしている平被告は終始冷静な態度で裁判に臨んでいたが、事件当日の曾我さんの和服姿を見せられると証言台で号泣した。
「裁判では曾我さんが暴れていた場面を説明するために、酔っていた時の曾我さんばかりを思い出していたが、本当に心に残るのは笑顔の曾我さん。(別れろと周囲から言われたが)大切な人だった。だから別れなかった。」
青森で生まれ育った曽我さんは、両親にとって流産を繰り返した上に生まれた宝物だった。松山へ来てからも、一人で暮らす母親に月15万円を仕送りしていた。
平被告はすでに支払った700万円の慰謝料のほかに、曾我さんがしていた仕送りと同額を受け取ってもらえるならば今後も仕送りし続けたいと話した。
「私、このままだと(平被告に)殺されるかも」
生前、母にそう話していたという曾我さん。DVに走る一方で、心療内科へ自ら通院もしていたという。「殺されるかも」という言葉の本当の意味は、どうしようもない衝動を曾我さん自身が悩んでいたがゆえに出た言葉だったのかもしれない。
殺されてしまった以上、その真相が明らかになることは二度とない。「死なせなくてもいいじゃないですかーー」。曾我さんの母親の悲痛な叫びを、被告はどう受け止めたのだろう。
令和4年2月18日、松山地方裁判所は平被告に対し、懲役6年の実刑判決を言い渡した。
事件備忘録@中の人
昭和から平成にかけて起きた事件を「備忘録」として独自に取材。裁判資料や当時の報道などから、事件が起きた経緯やそこに見える人間関係、その人物が過ごしてきた人生に迫る。現在進行形の事件の裁判傍聴も。
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