セイン・カミュの「イングリッシュ・プリーズ!」というフレーズが人気となったのは、TBS系『さんまのSUPERからくりTV』内の『ファニエストイングリッシュ』というコーナーだった。
「最初は英単語を書いたボードを持って街を歩き、僕はまったく日本語がわからないという設定でした。何回かやった後、ディレクターに“ちょっとは日本語がわかることにしませんか”って提案。そうして“イングリッシュ・プリーズ!”が生まれたんです」
当初は出会った日本人に英語を話してもらう企画だったが、ネタが尽きて……。
「街角でおじちゃんに“日本人は英語がしゃべれないってバカにしてるけど、外国人だって日本語をしゃべれないやつが多いだろ”って言われまして。それでディレクターに“外国人版はどうですか?”って話したら即採用。“外国人に日本語を聞こう”ということでできたのが『ファニエストジャパニーズ』です」
ボビーとアドゴニーとエリックが参加して珍回答を連発。その後、セイン率いるメンバーに日本の職場体験をしてもらう『ファニエスト外語学院』が始まると人気は頂点となり、セインはいわゆる“外タレ枠”の中心的存在に。特に、ボケ役のボビーとは、セインが鋭くツッコミを入れる名コンビになった。
「けっこう強くひっぱたいてましたけど“見ていて嫌悪感がない”って言われました。外国人同士でやっているから、安心して見られるって。日本人相手だと、バカにしているように見えたようですね」
相性がいいように見えたが、衝突もあったという。
ボビー・オロゴンに「コイツだけは辞めさせてください!」
「ボビーは初め、すごく嫌いでした。ふざけてばっかりで。ボク、こう見えて根がまじめだから(笑)。ボビーが面白かったのは耳で聞こえたのを、そのまま言ってることだったんだけど、彼は頭がいいから、だんだん“こう言うと面白い”ってわかってくる。それでボクを怒らせようと、ワザとふざけたことを言うからディレクターに“コイツだけは辞めさせてください!”って言うくらい、やりづらくって。すごく苦手でした」
しかし、司会の明石家さんまは面白がり、視聴者からも支持される。
「さんまさんが“セイン、そんなに怒らんでもええんちゃうの~”って言っていて。オンエアを見て衝撃を受けました。“そうか、バラエティーなんだし、すごく怒っている自分、ヒドいな。みんなを楽しませなきゃ”って。さんまさんのひと言のおかげで、ちょっとずつ修正していって。イライラはするんですけど、少しずつ少しずつ……そうしたら気づいたんです。ボビーはボクを怒らせることによって、面白さが引き出されている。コイツはそれを狙ってやっていたのか!って」
噛み合わない2人のやりとりが面白がられていたのだ。
「“カッチーン!”とくるけれど、その裏では“ありがとね”って気持ちがありました。お互いのよいところを引き出しているのかなって。そこまでに2、3年はかかりましたよ。それで家族ぐるみで仲よくなりました。あと、アドゴニーとエリックもいてくれたのは助かった。ボビーだけだったら、きつかったから(笑)」
『からくりTV』からは多くのことを学び、その後の芸能生活に生かすことができた。もともと、セインは日本のタレントになりたかったわけではない。
「日本で育ち、ハリウッドを目指して入ったニューヨークの大学は演劇専攻。休学して日本に戻ってきたときに友達が働いていた芸能事務所に遊びに行ったら“マネージャーやらない?”って誘われました。裏方をしながら自分もタレントとして出るっていう、一石二鳥的な形。通訳もいらないことになりますから、すごく使いやすい人ですよね(笑)」
セイン・カミュ、念願のハリウッドデビュー
'02年の朝ドラ『さくら』で、当時14歳の長澤まさみと共演したことも。
「僕はヒロインさくらのフィアンセ役でした。最後は僕が裏切られちゃうんだけど、視聴者のおばちゃんには“見てるわよ! なんで、さくらちゃんを追いかけないの!”って怒られて。“あれは架空の世界で”なんて言うと夢を壊しちゃうから“すいません”って謝ったりして(笑)。『西郷どん』で大河ドラマにも出ましたよ。一応、ハリウッドデビューもしましたし、念願はかないました」
CMにも多数出演し、芸能活動は順調に見えた。しかし、'04年に所属事務所と出演料をめぐって対立し、争いが法廷に持ち込まれる。
「'09年に裁判は勝訴して、和解しました。ボクは30年の間には浮き沈みがあった。ブラックなところも見たし、騒動はあったけれど、逆によかったのかもしれない。何もないままだったら、どこかで落ちていたかも」
マネージャーをしていたことがあるから、裏方の気持ちもわかるのが強みだ。
「失敗というのは“学ぶための1つの大きな教材”だと思うんです。そこから何かを学べる。大事なレッスンだと思いますよ。
英語だって同じです。完璧な英語を話そうとする日本人もいるけど、いっぱい失敗した人ほど、うまくなっていくんです。大いに失敗しましょう。じゃないと何が正解かわからないから」
名字でわかるように、セインは小説『異邦人』で知られる作家アルベール・カミュを大叔父に持つ。しかし、中学生になるまで知らなかった。
「中学の授業でカミュが出てきて、先生に“つながりがあるの?”と言われました。それで家に帰って母親に聞いたら“うん、そうだよ”って。“なんで言ってくれなかったの?”って聞いたら“彼は彼、あなたはあなたでしょ。もし言ってたら、あなたは何か変わっていたの?”って逆に聞き返されました。“ああ、そっか”って納得しましたね」
ニューヨークで生まれ、親の仕事の都合で世界各国を転々としながら育った。
「レバノン、エジプト、ギリシャとか行って、牛の乳搾りをしたり、馬に乗って遊んだり。その後はエジプトに戻って、日本、シンガポール、また日本で横浜のインターナショナルスクールに入りました。ちっちゃいころからいろいろな文化を見てきたのでよかったですよね。差別的なものも見えたし、真逆なところも見てきましたし」
いつもスタジオにいる明石家さんまと会えるのは…
少年時代を過ごしたのは、神奈川県の湘南地区だった。中居正広の先輩にあたる。
「小学4年生のときに引っ越したのですが、彼は同じ小学校の2つ下の学年だったはず。唯一いばれるのは“僕は中居クンの先輩です”ってこと(笑)」
ずっと都内で暮らしていたが、3年前に実家のある茅ヶ崎に戻った。19歳と16歳の息子、13歳の娘のお父さんである。
「僕が英語も日本語もしゃべれるから、子どもたちもそうするべきだろうと思っています。できるだけ国際的になってほしい。実験的に長男の育児では英語を中心で話していたら、日本語がおろそかになってしまって。次男のときは“もうちょっと日本語を集中的にやってみよう”としたら、英語が少し苦手に。一時期、上の子が英語で話して、下の子が日本語で答えているみたいなこともありました(笑)」
家の中が“ファニエスト外語学院状態”に。
本家の仲間たちとは、今も交流がある。ボビーやエリックとは一緒にYouTubeに出演することも。さんまとは、当時からなかなか会う機会がない。
「年に1度の忘年会くらい。僕はロケで、彼はスタジオにいるのでね。たまに会ったら“セイン元気? 頑張ってるね”って話しかけてくれて。新幹線に乗ったときは2時間しゃべりっぱなし(笑)」
『からくりTV』で得た絆と友情が、今も心の支えになっている。