「わかるかなぁ、わっかんねぇだろうなぁ〜」のセリフで知られた、漫談家の松鶴家千とせさんが2月17日、心不全で亡くなった。享年84。1月28日に風邪をこじらせて入院後、一時は仕事の話ができるまでに回復したものの、容体が急変。そのまま帰らぬ人となったという。
実は、週刊女性PRIMEで昨年11月に紹介後、ネット上で話題騒然となった歌手・恵中瞳さんは、千とせ師匠の“最後の弟子”だった。しかも、1月26日に千とせ師匠とのデュエットのシングルCDをリリースしたばかり。2月27日には、浅草・木馬亭にてCD発売後初のお披露目デュエットを予定していたものの、1月16日の木馬亭公演が最後の共演となってしまった。
「あまりにも急すぎて、心の整理がまったくつきません」と語る恵中さん。『月曜から夜ふかし』(日本テレビ系)の2月21日深夜放送回にも出演する彼女に、師匠との思い出を聞いた――。
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君の経験をもとに歌を作るから
「千とせ師匠と初めてお会いしたのは、7年ほど前のこと。師匠がパーソナリティをしていらしたインターネット番組に出演させていただいたのがきっかけです。2回ほど出演させていただきました。その後、今から3年ほど前にお仕事で再会したのですが、師匠は当時のことを全く覚えていらっしゃいませんでした」(恵中さん・以下同)
7年前の恵中さんは、歌手デビューしたばかり。まだ、自分の“売り”に気づいていないころでもあった。
「私のことをすっかり忘れていらした師匠は、非常に恐縮されていました。改めて私が作詞・作曲した当時の新曲『銀座であんぱん 渋谷でピンポン』(2019)を聞いてもらったら、“君は本当に歌がうまいね”ととても気に入ってくださって、私の曲をプロデュースしたいとおっしゃってくださったんです」
こうしてできあがったのが、『ふるさとのお母さん』(2021)だ。
「師匠と再会したころの私は、ちょうど、ネットの誹謗中傷に悩まされていました。ついには声がうまく出せなくなってしまったんです。事務所の社長のサポートもあり、なんとかライブの舞台に立てるようになったものの、心は不安定なまま。
そんなとき、師匠が『君の経験を元に歌を作るから』とおっしゃってくださり、師匠に生い立ちを聞いていただきました。
師匠は私が話す私の母のエピソードに興味を持ってくれて、私の声が出なくなったときにとても励ましてくれたことや、成人式の振り袖を自分で縫ってくれたことなどを織り込んで、詞を作ってくださいました。できあがった曲を、母が喜んでくれたことが、なにより嬉しかったですね。母は以前から、千とせ師匠のファンだったので」
「僕が瞳ちゃんについていくから!」
恵中さんが千とせ師匠の“弟子”となったのは2021年の9月ごろ。
「ちょうど『アウト・デラックス』(フジテレビ系)に出演したころのことです。松鶴家一門の定例公演に出演した際、『今日から君を弟子にする!』と。師匠にはそんな感じで決めたお弟子さんが200名以上いるそうで、基本的には“松鶴家”の名字をいただくんですね。
でも私の場合『松鶴家瞳はなんかおかしいし、もうその名前で売れているから、瞳ちゃんは“恵中瞳”のまんまでいいや』と。
そして、『もう一度、なんとかブレイクしたいんだよね。でも瞳ちゃんの方が売れているから、僕が瞳ちゃんについていくから!』ともおっしゃっていました。私には荷が重すぎる言葉でした……」
とはいえ、二人は強力なタッグを実現させる。前述のようにデュエット曲シングル『CH列車で行こう!』『キャンユーアンダースタンド?』をリリース。“期待のデュオ”として、各メディアに取り上げられた。
「千とせ師匠はとても楽しそうでした。『紅白、目指そうね』って。でも、取材を受けた際、すごく心のこもった声で記者さんたちに“瞳を、これからよろしくお願いしますよ”とおっしゃっていて。それを、今になって思うと……」
師匠の遺志を汲み、2月27日の舞台に出演する予定だという恵中さん。
「亡くなる直前、病室の師匠は松鶴家千代八さんをそばに呼び、“27日の舞台であのデュエット曲を絶対やってくれ”とおっしゃったそうです。師匠がそんなに肩入れしてくれていたなんて……。私がこれからも歌い続けることが、師匠の弟子としての務めだと思います」
恵中さんがこれからも話題を振りまくことこそが、師匠への一番の手向けだろう。
【プロフィール】
恵中瞳 えなか・ひとみ 宮城県出身。歌手、モデル。2013年にデビュー、現在の事務所である南雲堂に移籍後、2015年に『おとこはアリャリャ』でCDデビュー。ライブや動画配信番組などで活躍中。Twitterアカウント: @t75147828
(取材・文/木原みぎわ)