西郷輝彦さん

「好きなんだけど 離れてるのさ~」

 2月24日、都内のセレモニーホール前で大勢の女性たちが涙ながらに『星のフラメンコ』を合唱していた。4日前に前立腺がんで亡くなった西郷輝彦さんの葬儀が行われ、ファンたちが彼の代表曲で別れを惜しんでいたのだ。

「辺見えみりさんやご家族の厚意で、告別式の日の午前中にファンクラブの会員向けにお別れの機会を設けてくれました。'20年3月に予定されていたデビュー55周年記念コンサートがコロナで延期され、'21年2月の振り替え公演も中止に。最後にお会いするのがこんな形だなんて残念でなりません……」(参列した女性ファン)

7歳年上のマネージャーを“ちゃん付け”で

 前日の通夜には、所属事務所のサンミュージック最高顧問を務める森田健作や、歌手の橋幸夫も弔問に訪れている。

「西郷さんは16歳のとき、サンミュージックプロダクションの創業者である相澤秀禎さんにスカウトされ芸能界入り。'64年にデビュー曲『君だけを』が大ヒットして、アイドルの先駆けともいえる存在となりました。

 同じく'60年代に活躍した橋幸夫さん、舟木一夫さんの3人は“御三家”と称され、同じく相澤さんにスカウトされた森田健作さんも“西郷さんを超える”ことを目標にしていました。西郷輝彦という人は、昭和の芸能界を語るうえで欠かせない存在なんですよ」(レコード会社関係者)

 デビュー間もないころに付き人を務めたAさんは、今でも彼の温かさを覚えている。

「西郷さんの運転手に応募して面接を受けたら、本人から“付き人をやってほしい”と言われたんです。歌手志望の若者より芸能界と無縁の私のほうが信用できるということでした。人気絶頂だったので仕事はハード。彼の家に住み込みで働いていました。7歳年上の私を“ちゃん”付けで呼び、信頼してくれましたね」

 いちばんの思い出は、地方公演へ行ったときのこと。

「地方のイベンターが私を“ボーヤ”と乱暴に呼んだんです。そしたら西郷さんが“彼にはちゃんと名前があるんだからそんなふうに呼ばないでください”って毅然と言ってくれて……。スターなのに付き人も尊重してくれるんだと感動しましたよ」(Aさん)

 西郷さんの分け隔てない姿勢は、生涯変わらなかったようだ。晩年まで交流があった放送作家の須田泰成氏も、彼との有意義な時間を懐かしむ。

がん治療のために総額1000万円

「酒場で若い人たちに人生相談をされていましたね。どんな人ともフラットに接していて、自分の話より人の話を聞く時間が長いんです。西郷さんのアドバイスを受けてから、仕事が来るようになり、今や会社の経営者になった人もいます。決めゼリフは“楽しんでやればOK!”と、右手でサムアップのポーズをするのがカッコよかった」

 ボランティア精神も強かったようだ。

「私は'11年に発生した東日本大震災の支援活動をしていたのですが、西郷さんも協力してくれて、東北道が復旧した翌日に支援物資を持ってきてくれました。その後も、ことあるごとに被災地の避難所へ足りないものを提供してくれたんです」(須田氏)

'11年の東日本大震災の被災地に支援物資を準備する西郷輝彦さん

 そんな性格だったからか、家族にも愛されていた。

「'72年に辺見マリさんと電撃結婚。女優のえみりさんら2人のお子さんに恵まれました。'81年に離婚後、'90年には19歳年下の一般女性と再婚し、三姉妹が誕生しています。籍が分かれてもマリさんやえみりさんとの仲は良好でした」(スポーツ紙記者)

 充実した晩年を迎えるはずだったが、'11年に前立腺がんが判明。全摘出手術を行い快方に向かうも、'17年に再発。完治を目指し'21年5月にはオーストラリアに渡り、日本で未承認の“PSMA治療”を受けることになった。

 聞き慣れない治療法だが、どのようなものなのか。『くぼたクリニック松戸五香』院長の窪田徹矢氏に話を聞くと、

「'17年にドイツで確立されたばかりの治療法です。点滴でがん細胞のみに効果がある放射性物質を投与します。一般的な抗がん剤治療で起きるような副作用がなく、治療は15分間ほど。点滴を打った後は入院せず帰宅できますが、劇的な効果が期待できるわけではありません。そして、1回の点滴で150万から200万円がかかります。滞在費やコーディネート代と合わせると、総額1000万円はかかったでしょう」(窪田氏)

亡くなる前夜にかかってきた電話

 オーストラリアでの治療の様子をYouTubeに投稿していた西郷さんは、昨年8月末に『がんが消えた編』という動画を公開。がんは消えていたものの、進行度を示す数値PSA(前立腺特異抗原)は上がっていることを伝えていた。

「PSAが上がっているのにがんがなくなったというのは臨床上考えづらいので、がん自体は残っていたのだと思います。もしかしたら、視聴者を安心させたかったのかもしれませんね」(窪田氏)

 その後9月に帰国し、国内の病院に入院して治療を続けていた西郷さん。45年来の友人であり、陶芸教室『まだん陶房』を営む岩田康則氏は亡くなる直前まで連絡を取り合っていた。

「私が以前、経営していた飲食店にお客として来てくれたことから交流が始まりました。それから一緒にゴルフをしたり、お酒を酌み交わしたり……。'96年に私が開いた陶芸教室の会員第1号も彼でした」(岩田氏、以下同)

『まだん陶房』の一角には西郷輝彦さんが作った器が展示されている

 再起を信じていた岩田氏には、忘れられないメールがあるという。

「彼は俳句を嗜んでいて、自作や句会で選句をした詩をよくメールで送ってくれたんですよ。闘病中も精力的だったので、きっとまた元気に戻ってくると思っていました。でも、あるとき急に奥さんが代わりにメールを打ってくるようになりまして……。好きだった俳句が打てなくなるほど、体調が思わしくないのかなと心配していました」

 西郷さんが亡くなる前日の深夜には、岩田氏の携帯電話に着信があった。

「気づいたのがその日の早朝だったので、悪いと思い折り返しませんでした。そうしたらあとになって亡くなったと連絡が入り……。別れの挨拶だったのか、今となってはわかりませんが、最後の最後に本人から連絡が来たことはうれしかったですよ」

 命が消える直前まで、周囲を気遣っていた─。