結成から25年。日米国際コンビの元祖、パックンマックンが単独ライブを開催する。それもなんと、15年ぶりだ。パックン51歳、マックン48歳。アラフィフの2人がなぜ今、単独ライブをやるのか。これまでの歴史と現在、そして今後を語る。
15年ぶりの単独ライブが決まったきっかけ
マックン「僕がたまにニュースになったりテレビに出ると、“生存確認”と言われます!」
パックン「でもマックンは『ものスタ』(テレビ東京系)という通販の帯レギュラー番組を持っていて、テレビに出ている時間は僕より多いんですよ。生活も安定してるよね、商品をもらって帰れるし」
マックン「そう、それで食いつないで……ってバカやろう!」
情報番組のコメンテーターや大学の非常勤講師を務めるパックンことパトリック・ハーランと、通販番組のMCやぐんま観光大使を担う吉田眞のコンビ“パックンマックン”。そんな彼らが、15年ぶりに単独ライブを行う。まるで長い眠りから覚めたかのようだ。
マックン「いい表現ですね」
パックン「セミみたいだね!」
公演を決めたきっかけは、周囲から背中を押されたこと。
マックン「本当は、ずっと“やりません”と言っていました。でもすすめてくる人がどんどん増えて。“僕らのお笑いライブを誰か見たいのかな”とこぼしたら、主催のBSフジの局長さんが“見たいよ”と。その言葉が僕の胸に刺さったんです」
パックン「うちの事務所の社長より、局長さんの思いにマックンは押されましたね!」
ライブでは漫才やコント以外に、トークコーナーも予定。
マックン「25年も2人でやってると、珍事件も多いですから」
パックン「パックンマックン事件簿をお届けしようかと。例えば僕のお母さんは案外下ネタが好きだとか、マックンのお母さんは僕に裸を見せるとか」
マックン「ここで言っちゃダメでしょ!」
家族ぐるみで仲よし
この15年で、2人を取り巻く環境も大きく変わっている。
マックン「2人とも結婚したしね。パックンの子どもは、前回の僕らの単独ライブを知らないでしょ」
パックン「まだ生まれてないから、知らないね。ただ、ネタは見せたことあって。爆笑してくれてうれしかったけど、僕は校長先生に翌日呼び出されたよ。“息子さんがお友達に『洗剤でも飲めば?』と言ってるんですけど”って」
マックン「コントのオチだ!」
パックン「そう。過程を無視して、オチだけ友達に言っていたらしい」
マックン「それでウケると思ったんだろうね……。うちの長女は20歳なので、前回の単独ライブでは大きな声で笑ってくれていたよ」
家族ぐるみの付き合いで、一緒にホームパーティーも開く。
パックン「ホームパーティーは、よくやります。子ども同士も仲がいいよね」
マックン「パトさん家にトランペットとトロンボーンがあるので、ドラムをやっているうちの娘がそこら辺のものを叩いて、セッションしたりとか」
パックン「映画で見るようなホームパーティーを開くのが、僕の生きがいのひとつなんだよ!」
これだけ仲のいい2人だが、出会ったころはケンカもあった。
マックン「夫婦と一緒かな。結婚直後は奥さんとケンカしたように、パトさんとも結成直後はよくモメてた。でも怒りながらの発言は相手に伝わらないことがわかってきたから、今は奥さんともパトさんともケンカしない。怒りそうになったら、少し距離を取って心を落ち着けるようにしてます。
後日、いい関係のときに“この間のことなんだけど”と伝える。そのほうが相手の言うことを素直に吸収できるから。ただ舞台裏で口をきかないみたいな、険悪な仲になったことは一度もないよね」
パックン「うん、ない。楽屋を別にしてほしいと言ったこともないし。逆に先方が気を使って、分けちゃうことはあるけど」
マックン「それでも結局、一緒にお弁当を食べるもんね!」
東日本大震災で『パックンマックン寄贈』
かなり珍しいことに、最近のコンビ活動のメインは講演会。
マックン「パックンが出演していた『英語でしゃべらナイト』(NHK総合)のつながりで、英語に関する講演の依頼が最初はパックンだけに来たんです。でも当時のマネージャーが“マックンも英会話教室に通って、パックンと英語で漫才できるレベルになっています。
パックンマックンでやったほうが、絶対に面白い”とプッシュしてくれて。講演会というと堅いイメージだけど、僕らは笑いを入れながら話せることが強み。英語に関する講演をやっていくうちにどんどんジャンルが広がり、国際交流、おもてなし、インバウンド……」
パックン「金融やアクティブラーニングもね。僕らは専門にしていることがないから、入門編的な講演がほとんど。でもそこそこの玄人が聞きに来ても、勉強した気になれるような講演をしています」
マックン「玄人の人に“自分もこんな講演をやりたい”と言われたりするし」
パックン「玄人の前でやるときは、“ご存じの情報かもしれないけど、われわれの伝え方を参考にしてみてください”と伝えます。こうやって噛み砕いて聞かせると、一般の人は食いつきますよ、と。そう考えるとパックンマックンの専門分野は、コミュニケーションなのかも」
この15年の間、世の中でも大きな出来事が起きた。それらは2人に、どんな影響をもたらしたのだろうか。
マックン「僕は講演をきっかけに投資を知り、リーマンショックの直後に始めました」
パックン「マックンが投資を始めて以降、日経平均株価は4倍以上に膨らんでいるからね。一方、僕はもっと前からやっていて、リーマンショックのせいで紙切れになっちゃったから、アメリカに帰れなくなってしまいました!」
マックン「東日本大震災が起きたときは、しばらくやっていなかった歩行者天国でのライブを再開して、寄付用の投げ銭をいただくようになりました。また当時やっていた月1のライブでも募金を集めて」
パックン「そのお金で、気仙沼の幼稚園に遊具を寄付したね」
マックン「それでうれしかったのが、知り合いの役者さんから電話がかかってきて、“気仙沼で遊具を取り付けるボランティアをやってるんだけど、『パックンマックン寄贈』となってるよ”と言われたの。あれは鳥肌が立ったなぁ」
パックン「避難所に行って、漫才も披露したし。パックンマックンの中でも有意義な活動だったね。ほかは無意義だけど……。そして今も渦中の新型コロナウイルスは、2人とも感染しました。しかもマックンは、2回感染した」
マックン「1回目のときは、SNSを通して情報を発信したよ。どうしたらいいのか、まだよくわからない時期だったので」
パックン「僕は、隔離キットを用意しておくべきだと実感した。あとは近所の人と“お互い感染したら、支え合いましょう”と約束しておくことをオススメします。薬局への往復を頼める人が近所にいるかどうかで、全然違うから」
マックン「僕が最初にかかったときはYahoo!ニュースになったのもあり、近所の人から“何でも頼んで。置き配するから”と連絡が来てありがたかった」
パックン「マックンは、視聴者に不人気でも、近所では人気だからね!」
夢は叶って終わるものではなく、叶え続けるもの
お笑い史上において、初の日米国際コンビという歴史をつくった彼ら。ネタ番組や情報番組などで活躍した時期を経て、現在も知名度は高い。しかし今なお、「まだブレイクしていない」と語る。
マックン「別に第一線から退いたわけじゃなくて、2人の経験を講演会で話せるようになったので、仕事の方向性が変わったんです。ずっと形を変えて進化してるし、充実してます」
パックン「進化と同時に、開拓もしてる。僕は冒険したいと思って日本に来たし、“未知の世界に進む”という意味では、それをやってることは間違いない。道なき道を走り続けることは、めちゃくちゃ楽しいよね。今も冒険中だし、ブレイクするのはこれからです」
アラフィフになっても仲がよく、単独ライブを15年ぶりに打てる。そんなコンビ、なかなかいない。彼らが抱く、これからの夢は……。
パックン「26年目を迎えたいです」
マックン「そう、1年ごとが大事。あとは新たなステージを与えてくれる人がいたら、さらに大きくして返したいですね」
パックン「夢は叶って終わるものではなく、叶え続けるものだと思うんですよ。挑戦させていただけるだけでも、夢を生きてる。この生き方こそ冒険だし、僕の肩書は冒険家だと自負しています」
Q 春に食べたいものといえば?
マックン「母親の作るクリームコロッケが大好きで、試験に合格したり、お祝いごとがあると必ず作ってくれました。お笑い芸人を目指すと上京を決め、東京に行く前日、3月31日に母はクリームコロッケを作ってくれたんです。春になると、思い出す味です」
パックン「ピザだね、もしくはピッツァだね! ちゃんと考えると……、僕は第二の故郷がホタルイカで有名な北陸の福井県だから、それはやっぱり大好き。でもいちばんやりたいことは、メニューはおいといて会食です。仲のいい人と、花見をしたいですね」
《取材・文/篠崎美緒》