東京都千代田区の『国立劇場』大劇場。1600席を前にして白拍子として軽やかに舞い、静御前として鼓を打ち、踊る―。祖母が名乗り、市川猿翁の預かりとなっていた日本舞踊の名跡『藤間紫』の三代目として、無事に襲名披露を終えた彼女には舞台やテレビで活躍する女優・藤間爽子としての顔もある。長い歴史と描く未来。伝統の継承という運命を受け入れながらしなやかに自らの道を模索する、その視線の先にあるものは―。
劇場の舞台で難役に挑戦
屋根に打ちつける雨音と、やや遅れて響く雷鳴─。その日の空模様はぐずついており、日中から突発的な豪雨に見舞われていた。あいにくの悪天候が、寓話的な物語をよりイノセントに際立たせる。東京・下北沢の劇場『ザ・スズナリ』。木造アパートの2階部分を改装した同劇場は、多くの演劇人がその舞台に立つことを夢見る場所であり、目の肥えた演劇ファンが足しげく通う下北沢の象徴的存在でもある。
'21年3月、藤間爽子(ふじまさわこ)は舞台『いとしの儚』で、鬼によってつくられた絶世の美女・儚という難役に挑んでいた。
博打好きの鈴次郎は、鬼との勝負で儚を手に入れる。100日たたずに儚を抱くと、彼女は水となって消えてしまうという。儚とともに生きようと決心する鈴次郎。真の人間になりたいと願う儚。ふたりの愛がファンタジックに描かれ、儚の繊細な美しさとダイナミズムが、空間全体に広がっていた。
20年以上にわたってたびたび上演されてきた本作は、「スーパー歌舞伎」の劇作家としても知られる横内謙介による戯曲だ。祖父である二代目市川猿翁(当時・三代目市川猿之助)とタッグを組んで仕事を重ねてきた横内の代表作に、孫の爽子がヒロインとして出演した。
舞台のクライマックス。そんな瞬間の雨音と雷鳴。偶然がもたらした音響効果は、作品に付加価値を与えた。物語の悲恋に空も泣いたというのは、あまりに劇的な解釈だろうか……。
新型コロナウイルスの猛威は世界を一変させた。演劇界も大打撃を受け、公演中止や延期が相次いだ。上演そのものが危ぶまれるなか、『いとしの儚』はかろうじて中止をまぬがれた。
感染拡大によって、日常は蝕まれる。何げないことが、困難になった。映画館に行くことも、舞台を見ることも、あるいは外食や旅行に出かけることも、いちいちセーブするようになった。あらゆる行動に対して立ち止まり、いったん躊躇する習慣を私たちは身につけてしまった。
'22年を迎えた今も、同じ課題を抱えていることに茫然とする。
少しまばらな客席で、劇場の熱気に立ち会えたことは、記憶の中心部に今もしっかりと焼きついている。藤間爽子本人が振り返る。
「『いとしの儚』は、コロナ禍で先が見えないままの上演でした。
子どものころ、軽井沢にある祖母の別荘にいらしていた横内さんに遊んでもらった記憶があります。そのときはもう『スーパー歌舞伎』で祖父の猿翁さんに台本を書き下ろしていましたが、子どもの私はそんなことも知らず、遊んでもらっていました。
まさか、横内さんの作品に出演するなんて思ってもみなかったです」
7歳で初舞台、後継者に指名
'94年8月3日、東京都生まれ。梨園や狂言の世界と同様に、幼少のころからその将来が決定づけられていた。
祖母は初世・藤間紫(むらさき)。女優としても昭和芸能史に名を残した偉大な日本舞踊家だ。映画やストレートプレーにも多数出演し、主演舞台『西太后(せいたいごう)』は夫の猿之助が演出を手がけ、好評を得た。また、『ぼく東綺譚(とうきだん)』『父の詫び状』で第1回読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞している。
父は俳優として活動したのち、三代目猿之助が出演するスーパー歌舞伎のプロデュースなどを手掛けている藤間文彦(ふみひこ)。母はかつて劇団『昴(すばる)』に所属し、舞台や映像で活躍した元女優の島村佳江。日本舞踊家の兄・貴彦(たかひこ)はかつてジャニーズJr.の一員として、大学進学まで活動していた。まぶしくなるほどの芸能一家だ。
爽子は7歳で初舞台を踏む。会場は、高層ビルに生まれ変わる前の歌舞伎座。そのころから初世は爽子の舞踊センスを高く評価し、後継者に指名した。
昨年『三代目藤間紫』を襲名。日本舞踊『紫派藤間流』の家元を継いだ。一方、本名の藤間爽子名義で、女優業を続けている。
ドラマや舞台で、頭角を現す若手俳優のひとりだ。初世の夫である市川猿翁は、紫の死後、『二代目藤間紫』として家元となり、流派の存続に尽力した。三代目を爽子に譲ったのが、昨年2月のことだ。
幼いころから日本舞踊家としての素養を買われた爽子だが、周囲から絶賛され、将来を嘱望される愛孫に対して、初世は評価しつつも、「私が爽子と同じ年のころだったら、もっと上手に踊れたわ」と、ライバル心を隠さなかったという。
才能と才能は、しばしばぶつかり合い、その運動と摩擦が新たな着火剤となり、互いを刺激するようにできているのかもしれない。
もっとも、幼かった爽子にとっては、自身の才覚を認識することなどなかっただろう。
「祖母はやっぱり天才だったと思います。踊り手として、あくまでプレーヤーでいたい人。どちらかというと私もそういうタイプで、ずっと踊っていたいんです。
今後の流派のことを考えると、お弟子さんたちに稽古をつける仕事はとても大切ですが、私も自分の踊りを追求するほうに目がいきがちなんです。天才型の祖母は、教えるのは下手だったと聞いています。天才だから、うまく踊れない理由がわからないんでしょう」
『紫派藤間流』は、'87年5月に創立。宗家藤間流から分派した。初世・藤間紫の世界観を継承する歌舞伎舞踊の一流派だ。翌'88年1月に大阪新歌舞伎座、'89年3月に歌舞伎座で紫派藤間流主催による公演が開催された。
一方で女優・藤間紫として映画『極道の妻たち』や'95年の大河ドラマ『八代将軍吉宗』などの話題作にも出演し、お茶の間でも親しまれた。
初世が天賦の才に恵まれた日本舞踊家だったことは、論を俟たない。夫の猿翁は、初世の著書『修羅のはざまで』(婦人画報社)にこんな文章を寄せている。
《紫さんに、人間に対する鋭い洞察力、人の心を的確に読む力があるということは、紫さんの中にさまざまな人間の心や、人間というものに内在するあらゆる要素といったものがあり、それを己の心でしっかりとつかみとっているからに他ならない》
猿翁からも激しく称賛される天才を、幼い爽子は嫉妬させた。それが持って生まれた才能によるものか、環境と積み重ねによるものか、それは本人にもよくわからないらしい。従来のファンは、爽子に初世の遺伝子を感じるのだろう。しかし、初世の舞踊を知らない世代も、爽子の舞に心躍らせるはずだ。それはつまり、爽子本人が持つ魅力のひとつに違いない。
兄と二人三脚で流派を守る
初世が病に倒れ、帰らぬ人となったのは、'09年3月27日。爽子が訃報にふれたのは、中学3年への進級を目前に控えた、14歳のときのことだった。
「生前、祖母とふたりきりで会うことはあまりありませんでした。お弟子さんたちに囲まれていて、いつも大勢の人がいたことを覚えています。それでも、軽井沢の別荘で静養するときは、一緒にパンを作ったり、ご飯の準備をしたり、折り紙をしたり、兄と一緒に遊んだ時間もありました。稽古場にしても、とにかく人が多くて、祖母はみんなのためにご飯を作るんです。戦争を経験していることも影響しているのか“食べられるぶんはたくさん食べなさい”と言っていました。料理が好きで、いっぱいご飯を作ってくれました。
猿翁さんには、独特の雰囲気があります。舞台上で飛んだり跳ねたりして、空中を漂っているような感じがする不思議な人。兄とチャンバラごっこをすると、迫真の演技で負けてくれるような優しい人でもあります」
初世による直接指導を受ける機会は、さほどなかった。ベテランの弟子たちが初世からの教えを伝える。伝え聞いた紫の舞踊観を断片的に取り込んでいくことは、爽子にとって孤軍奮闘の作業だった。
「たった1人の師匠からのマンツーマン指導でなく、初世に学んだお弟子さんたちの捉え方をいろんな角度から教えてもらって、そこから初世の“紫像”を自分でイメージしながらできあがったような気がします」
爽子が三代目紫を受け継いだ際、兄の藤間貴彦も師範『初代・藤間翔』を襲名した。若い家元は、3歳上の兄の力を借りて二人三脚で流派を守っている。翔は、爽子にとって気を許せるもっとも身近な存在であり、仲間でありながらライバルでもあると語る。プライベートでも、時々食事に出かけるほど仲がいい。翔が言う。
「とはいえ、いろいろ言い合いになることはありますけど(笑)。ケンカになったとしても、たいてい妹が勝ちますね。もちろん、基本的に仲はいいと思います。踊りに関して言っても、やっぱり誰よりも息が合うのは妹です。
これから家元として背負うものは計り知れないくらい大きいと思いますが、僕は妹と流派を支える側として、盛り上げていきたい」
エスカレーター式から別の学校へ
総務省が発表した平成30年('18年)度版の『情報通信白書』によると、'08年をピークに日本国内は人口減少の一途をたどっている。
戦後の復興により中間層の生活水準が向上し、ピアノや書道の習い事が一般家庭に普及していく。華道や日本舞踊は明治以降から発展を遂げていたが、昨今の人口減少は大きな痛手だ。伝統的な文化資本の源流にとって、人口減少問題は対岸の火事ではない。さらには晩婚化や正規雇用率の低空飛行も追い打ちとなり、“踊り手”の獲得も、分母のあり方次第で存続の方法を変えていかなければならない。
令和の時代の家元は、きわめてアクチュアルな課題に直面している。
「日本舞踊は、プロとアマチュアの境界線が曖昧なんです。名取になってお名前をもらって、さらに師範になってからお弟子さんに教えることができるようになるんですけど、先生のお仕事と、上演して入場料をいただくプレーヤーとしてのお仕事は少し違いますよね。
お弟子さんにはさまざまな人がいます。別の仕事を持って、趣味として続ける人もいれば、師範になりたい人もいる。もちろん、流派にとって、運営を続けていくにはどちらも大切。“競技人口”を増やすのと、観客を増やすのは、別のテーマです。
今は、日本舞踊の面白さを知っていただけるように、見にきてくださる人を増やしたいという思いが強いです」
自身を「優等生タイプ」と分析する爽子。やわらかい人当たりも、何げなく他人の話に耳を傾けて会話を楽しむ姿も、常にナチュラルだ。どんな相手とでも仲よくできるのは、爽子の人徳によるものでもあるだろう。
それでいて、表現者としての芯の強さもあり、物事に対する柔軟性も持ち合わせている彼女は、周囲からすると「明るい人柄」として認められているし、実際に取材中も終始楽しげに語り、不愉快な態度を見せることはない。飾りけのない雰囲気が、場を和ませる。「しっかり者の優等生」という言葉がぴったりだ。
けれども、多感な年ごろを過ごした中高生時代は、思い悩むことも多々あったという。
「他人から見たら、明るくて普通の子だったと思います。悩んでいることをあまり外に見せないタイプかもしれません。無理をしているわけじゃないけど、だいたいのことは自分で解決しちゃう。
ただ、根が内弁慶なので、家族にはワーワーと言いたいことを言っています。優等生タイプでちゃんと勉強するんですけど、唐突な行動をとって周囲を驚かせてしまうんです」
爽子が通学していた都内の私立小中学校は、高校、大学までエスカレーターで進学可能な名門一貫校だった。成績も優秀だった彼女にとっては、そのまま高校に進むのが既定路線だったが、優等生はちょっとした“路線外の将来”を思い描く。別の高校への受験を決めたのだ。
家族の想像とは異なる道。初世紫が亡くなり、自分が後継者として位置づけられていたことも、少なからず関係している。
同級生たちが猛勉強している間、「自分はどのみち舞踊を続けるしかないんだ」という思いが頭をもたげ、人生のルートがすべて定められてしまったかのように思えた。すると、別の道を歩いてみたくなった。どうやら爽子は、敷かれたレールと異なる道筋の存在を知ると、そこに舵を切ってみたくなるようだ。
系列の高校でなく、都内の私立高校に入学した。
「中学から高校の間も日本舞踊は続けていました。だけど自分は、本当に舞踊が好きなのか、わからなくなった時期でしたね。
お弟子さんたちの中には、ほかの仕事をやりながら、踊りが大好きで習っている人もたくさんいました」
誰だって、今まで歩いた道とは別の人生を思い浮かべることがあるものだ。この両親のもとに生まれなかったら。きょうだいがいなかったら。別の国で育っていたら。性認識が異なっていたら……。
いずれにせよ、自分の意思では選べないことばかりで、思いどおりには運ばない。なのに、やたらと考える。キリがないことなのは承知しつつ、人はいたずらに想像をたくましくする。
恵まれた家庭環境も、本人の努力も、他人はそんな縦軸と横軸を無視して一方的に評価する。“第三者の座標軸”によって、自己評価がゆがむことだってある。だから、私たちは非現実的な想像を働かせ、できるだけ傷つかないよう、自身のコンプレックスをやわらげようとするのだ。
「私がもし、別の家に生まれていたら、こんなに日本舞踊を好きでいられるのか、悩んだことがありました。それでも、なんだかんだ舞踊は続けていたんですよね。本当に嫌いになったということではないと思います」
家元襲名は伏せて劇団に応募
大学進学においても、家族を驚かせた。
東京藝術大学には能楽や狂言、日本舞踊の家庭に生まれた子弟が通う『邦楽科・邦楽専攻』がある。しかし、爽子は別の進路に興味を抱く。
実技や実演を中心とした大学生活ではなく、芸術を体系的に学びたいと考えるようになった。青山学院大学・文学部比較芸術学科は、美術、音楽、映像・演劇の3領域の鑑賞や歴史的背景を学ぶというもの。新設されて間もない学科だったことも好奇心に火をつけた。
爽子が選んだ学問は、現在の仕事でプラスに働いている。単位取得が滞ることもなく、「優等生」らしく4年で大学を卒業した。
日ごろの環境とは異なる場所に身を置きたいという願望は、「自分とは何者か」という問いが出発点だった。家元として次世代を継ぐのは、自分のみの力ではない。
自分の力で何かを試してみたい─。
だんだんと、女優業への思いが胸の中に膨らんでいった。
兄の翔は、役者を志していることを事前に聞くことはなかったと話す。
「妹が女優になると言いだしたとき、家族は突然のことで驚きました。母も役者でしたから、まったく想像がつかないということはありませんでしたが、『阿佐ヶ谷スパイダース』の劇団員になると知ったときのほうが驚きでした。しかも、劇団のメンバーは錚々たる人ばかり。やっていけるか心配でした」
何かを始める際、周囲を驚かせるのは進学のときも同じだが、女優業への憧れは、少しずつ、彼女の心に積み重なる将来の夢だった。
大学を卒業後、NHK連続テレビ小説『ひよっこ』への出演はオーディションで勝ち取った。現在、爽子が所属する『阿佐ヶ谷スパイダース』も'18年の劇団員募集のオーディションで加入した。
阿佐ヶ谷スパイダースとは、長塚圭史が率いる劇団。長塚に加えて、中山祐一朗、伊達暁の3人による演劇プロデュースユニットとして、'96年に結成。現代劇からサスペンス、不条理劇などで人気を博し、'17年に劇団化した。
長塚は現在『KAAT神奈川芸術劇場』の芸術監督を務め、劇作家・演出家・俳優として日本の演劇シーンにおける重要人物のひとりだ。
劇団化によって、俳優だけでなく、スタッフや学生、主婦もメンバーに迎える阿佐ヶ谷スパイダースのスタンスに、爽子は強く惹かれた。
「最初は書類審査で、《匂いについて》という課題の作文を提出しました。父のタバコのにおいが嫌だなあ、みたいな内容。そこから何度か実技オーディションがあって、奇跡的に合格しました。そのころ芝居の仕事は、ほとんどしたことなかったですから」
舞台の稽古場では、時おり『シアターゲーム』が取り入れられる。互いの名前を呼びながらボール回しをする遊びのようなものだが、ヨーロッパの演劇の現場では、こういったゲームを用いて俳優同士のコミュニケーションを図ることが多々ある。主宰の長塚は英国での留学経験を活かし、そこで培った方法論を劇団でも応用している。
爽子はオーディションの場でカルチャーショックを覚えたという。
「このオーディション、落ちたとしても別にいいや。今がすごく楽しい!」
そんな思いで挑んだ結果、爽子は阿佐ヶ谷スパイダース入りを果たした。
『紫派藤間流』の家元を継ぐ予定であることは伏せたまま、劇団に応募書類を送った。長塚もオーディションの途中まで、爽子の履歴は詳しく把握していなかったようだ。
「日本舞踊をきちんとやっている人なのはわかりましたが、紫さんのお孫さんであることは、オーディションの最終局面まで知りませんでした。
だけど、やっぱり舞台に立って場数を踏んでいるのは、現場で伝わってきましたね。それなのに芝居は慣れておらず、あまり会ったことのないタイプ。未知数の魅力というか、原石のような光るものを感じました」
伝統的な日本舞踊と現代作家が主宰する小劇場の劇団。対照的な存在にとらえられがちだが、流派と劇団には共通点があった。みんなで席を囲み、食事をともにする。子どものころから門弟たちと文字どおり“同じ釜の飯”を食ってきたように、劇団でも稽古の休憩時は一緒に食事をとる。
劇団が白米を用意し、おのおのがおかずを持ち寄るといった具合だ。爽子が稽古場の炊事係を務めたこともあった。もっとも、現在は感染症対策によって稽古場での飲食はできなくなってしまった。
「紫派も“阿佐スパ”も、すごく家族的だなと感じるところが、とても似ているんです。けれども、それぞれは自立しています」
自宅にいるような居心地のよさと、ほどよい緊張感の共存する稽古場が、彼女の活動に相互的な刺激を与えているのだろう。
拍手が鳴りやまなかった襲名公演
三代目藤間紫を襲名し、1年越しの披露公演が実現したのは、'22年1月30日。東京メトロ『半蔵門』駅から地上に出て、白い息を吐きながら『国立劇場』へと急ぐ。前をゆく着物姿の女性たちが、横並びで談笑しながら、巨大な建物の中に吸い込まれていく。
歌舞伎公演や日本舞踊を催す大劇場は、2~3階を合わせると1600席以上を擁する国内屈指の大型ホールだ。皇居を囲む内堀通りに面し、真横には『最高裁判所』もそびえている。
爽子は、襲名前から『国立劇場』の舞台でたびたび踊ってきた。桁外れに間口の広いステージで堂々と舞踊を披露してきた彼女にとっても、襲名披露公演では特別な緊張感に包まれていた。
「本番が近づくにつれて、舞台の夢ばかり見るんです。前日は眠れなくて、初めて寝酒に手を出しました。家にあった梅酒を一気に飲んだけど、結局一睡もできず、目がバキバキのまま楽屋入りしました(笑)。本番が終わった夜、ようやく熟睡できました」
公演は昼夜2部制。1部のトリは『京鹿子娘道成寺』。爽子がメインで、ほぼ1人で45分間を演じる。女方舞踊の最高峰とされる本作は、「安珍・清姫」の悲恋物語をベースに、その後が描かれている。
白拍子の花子が鐘供養に訪れ、舞を次々と踊るうちに、清姫の怨霊である蛇体となってしまう。ケレン味ある衣装替えもさることながら、恋心の変化を見せていくところが醍醐味だ。
「道成寺物」の代表的作品でもある。可憐さと色気がまじり合う少女のうつろいに、客席の拍手は鳴りやまなかった。
「清姫の執念をいかに見え隠れさせるか、そのバランスを保つのがむずかしかった」
と、爽子は言うが、身体から発する磁力に引き込まれる。
『義経千本桜』の名シーンであり「吉野山」とも称される『道行初音旅』は第2部のトリ。翔との共演だ。静御前と家来の佐藤忠信の道行(旅の過程)で、忠信は狐の化身だとわかる。義経に思いを馳せる静御前、狐が化身して護衛する忠信の舞がスペクタクルに表現される演目だ。
流派の踊り手が総勢40人以上も出演するなか、コロナ感染者を出すことなく、無事に公演を敢行。大仕事を終えたばかりの爽子は、胸を撫で下ろしていた。
祖母の名を受け継いだ特別な公演であること、それを無事に開催すること。二重の不安がついてまわったという。
「上演中止のリスクもある時期に、本当に開催できるのか?踊りがきちんとできるのか?常に2つの課題がありました。劇場に足を運ぶことは、お客様にとっても不安要素ですよね。
いろんな壁にぶち当たって、私は天国の祖母を思って踊り切ることだけに集中するよう考えを切り替えました。幕が開いたときは涙が出そうになりました」
芸事とは無縁の友人を大切に
日本舞踊、劇団内外の舞台出演のほか、映像分野にも活躍の場が広がっている。
'21年7月期の日本テレビ系ドラマ『ボイスII 110緊急指令室』で初の連続ドラマレギュラー出演を果たす。元恋人からのDV被害にあっている警察官・小松知里役を演じた。
劇団公演としては3回目の参加となった『老いと建築』では、離れて暮らす父親の経営による飲食店でアルバイトをする26歳の喜子を演じた。
映像や舞台で等身大の役柄を担うことに対して「少し照れる」と本人は笑う。日本舞踊では人間を超えた存在を舞うことが多いだけに、現代人を演じるのは少々の戸惑いがある。
前出の長塚も爽子を「フィジカルな俳優」と評している。
「いわゆる会話劇的な作品で現代人を演じることには、本人も苦労したはずです。ただ、公演の稽古を重ねていくことで、踊りと異なるアプローチの仕方に発見があったんじゃないかと思いますね。
僕らの劇団は、あまりメンバー間でベタベタしないんです。創作のときには協力し合い、普段はそれぞれが自分の責任で取り組むので……。僕も代表として、劇団員に対してはほぼ放任主義です。
爽子は、劇団という集まりに、かなりクリアな視線を持っています。阿佐ヶ谷スパイダースという劇団が自分にとってなんなのか、彼女自身もはっきりと認識しているのでしょう」
集団への向き合い方は、紫派藤間流でたくさんの大人たちに囲まれて育ってきたことが影響しているかもしれない。集団の中に属することで、むしろ個人のあり方が問われることもある。だから、人間関係において率直に対峙し、きわめてフラットに振る舞うことができる。
プライベートの時間では、芸事の世界と無縁な友人たちとの交流が多い。映画も舞台も、日本舞踊も、それを楽しむのが一般人であれば、自分にも一般感覚が必要だと感じている。
「日本舞踊と芸能のお仕事だけだと、普通の生活の感覚がずれてしまう気がします。今、27歳で、まわりの子たちは結婚が現実的になっている。こういう世界だと結婚や出産をしない人もいるけど、普通の生活を営む人たちの存在は、私にとってすごく必要なのかもしれないです。お芝居をあまり見ない人には、藤間紫という名前を知らない人もたくさんいます」
爽子が関心事の領域を外に向けようすることは、長塚も劇団に招き入れた当初から察知していた。次のように指摘している。
「彼女は視界を広げたいんだと思います。日本舞踊の世界から、僕らの劇団に入ろうと志願することもそう。どんどん見えるものが増えていけば、すごく武器の多い俳優になれるんじゃないかと期待しています」
強く爽やかな人であってほしい
人生はまだまだ続く。「日本舞踊家として未完成」とたびたび口にする爽子だが、個人としての幸せを考えることは苦手だ。まだ将来を現実的にイメージできないからだという。
日本舞踊に関わるときの鋭敏な表情とは対照的に、着物を脱いだ爽子には気取ることのない20代の女性らしさがある。フレンチブルドッグの愛犬・晴男と過ごすのが日々の楽しみで、好物は台湾発祥のイチゴ飴。稽古終わりに、お気に入りの店に1人でまぜそばを食べに行くこともあるそうだ。
父・藤間文彦は、娘の将来について「完全に本人の自由意思」を尊重すると話す。
「息子にも言えることですが、とにかく本人が自由にできればいいと思います。結婚にしてもそう。責任を果たす大人として行動できれば、僕は何も言いません。そして、他人に優しい人間であってほしい。親として望むのは、それだけです」
当面、ダブルネームでの活動が続く。三代目紫と爽子。藤間紫の名で統一することも将来的には考えているものの、あまりにも大きい名前を背負うことにプレッシャーを感じている。
本名も気に入っている。劇団の先輩たちや俳優仲間の多くは、彼女のことを「爽子」と呼ぶ。母の佳江が命名したものだ。
「人に優しく接するためには、自分自身が常に変わらず強く爽やかな人でなければならない……。そんな思いも含まれています。僕の名前が『文彦』で、息子は『貴彦』。左右対称の文字を用いているので、娘の字も左右対称にしてもらえるよう、妻にリクエストしました」
門弟に稽古をつける家元としての日々。日本舞踊家としての自分。役者の活動。コーチとプレーヤーを並走させながら、頭の中は芸に関することでいっぱいだ。
生活のあらゆる場面が、芸につながる。日本舞踊のステージを終えるたびに、すぐに踊り始めたくなるという。
芸事を嫌いになりそうだった高校時代。悩みの多かった少女もあと2年半で30代に突入する。
思い描く将来は楽しみだが、どうにも具体的な予想がつかないらしい。
「自分でも自分がわからないんです(笑)。極端な人間ではないと思いますけど、電撃婚して“専業主婦になります!”と宣言するかもしれません。私、いつもやることが唐突ですから」
そう遠くないうちに、周囲をうんと驚かすような出来事が待ち受けているかもしれない。それはどんな報告だろうか。本人ですら予想がつかないのだから、聞かされる側はただドキドキしながら待つしかない。(敬称略)
〈取材・文/田中大介〉