社会起業家 加藤秀視さん 撮影/伊藤和幸

 父親からの虐待を機に施設で育ち、ヤクザの世界へ。元暴走族総長で、2回の逮捕歴がある。だが、24歳で更生を決意して以降、非行少年3500人以上の更生や被災地支援などを精力的に続けてきた。今やJR、コカ・コーラなど有名企業に招かれて人材育成を行う立場だ。誰かの活動を支持して見守るのではなく、おのおのが使命を見つけ、「その道のリーダーになれるはず」と熱弁する社会起業家・加藤秀視さんの原動力とは―。

子どもたちが通いやすい学校に

 立春前、北風の吹く東京・町田駅。いじめ問題に対する教育現場の隠蔽や不正撲滅を訴えて、憲法16条「請願権」の改正を求める署名を募る人たちがいた。その老若男女の輪の中心に、熱く語りかける男性の姿がある。

「大きな声を出してすいません!誰かを助けたいと思ったら、具体的に動かなければいけないんです!それが署名なんです。署名を100万人集めて、いじめを隠蔽しない仕組みを作りましょう!」

 黒いキャップを被ったちょっと怖そうな風貌のその人は、加藤秀視(しゅうし)さん(45)。元暴走族の総長で、現在は非行少年たちの更生を目的に開業した建設会社を営む社会起業家だ。数多くの更生・指導の実績が評価され、「文部科学大臣奨励賞」や「衆議院議長奨励賞」などを受賞している。

 加藤さんがいじめに関する署名活動を始めたきっかけは、北海道旭川市で昨年3月、中学2年の廣瀬爽彩(さあや)さん(当時14歳)が凍死体で発見され、市教委が事実確認を進めている問題にある。

「爽彩さんはネット上に拡散された自身の画像のことで悩んでいました。学校側がいじめを正式に認めずに、きちんと調査をしないでいるうちに悲劇は起きてしまったんです。全国で起きているいじめ問題は、学校や教育委員会の隠蔽体質と関係性が深いこともよくわかりました。この問題の真相究明といじめ防止対策推進法の徹底した遂行を断固として求めていきます」

 だが、学校関係者への誹謗中傷がネット上で広がっていることについては「全く意味がない」と言う。個人的な攻撃が目的ではないからだ。

「誰かを責めて誰かが潰れれば、Twitter上じゃOKなんでしょうけど、そんなこと繰り返していたって、何の解決にもならないんですよ。子どもたちが通いやすい学校にして、同じような犠牲者を出さない仕組みを作るために動こうって決めたんです」

 加藤さんに賛同するさまざまな立場の支援者が、全国各地で署名活動を展開している。この日、街頭演説に参加した社会派ユーチューバー・令和タケちゃんこと後藤武司さん(27)もその1人。加藤さんがこの問題の焦点を教育に当てるのに対し、後藤さんは政治に焦点を当てている。

「考え方の違いはあっても、目指すゴールは一緒であるため、協働している」と加藤さんは言う。ほかにも、中高生の親たちや20~30代の若者たちも署名を呼びかけていた。

 参加者の大寳(おおだから)直人さん(26)は、加藤さんのような起業家を目指しているという。

「ご自分が虐待を受けたりしたバックグラウンドがあるので、こうした問題にも本気で寄り添って、上っ面じゃないんですよ。署名活動の結果を報告するといつも“ありがとうございます、引き続きお願いします”と言ってくれます。われわれスタッフに対する尊敬の気持ちがすごくて、上から目線じゃないんです」

 街頭演説に加え、オンライン署名も行い、12万人ほどの署名が集まっている(3月15日現在)。歌手でEXILEのメンバー、ATSUSHI(41)も共感し、自ら加藤さんに連絡を取り、ユーチューブチャンネルで約4000人の署名を集めた。ATSUSHIは加藤さんとの対談の中で、「自分の影響力をこのような活動に使ってもらうことが本望」と語っている。

「街頭で声を枯らしても、正直、そんなに数は集まらないんです。本当は有名な方とユーチューブでコラボしたほうが、効率よく署名も集まりますし、チャンネル登録者数も伸びて、プラスになるんです。

 それでも街頭演説を続けるのは、無関心な通りすがりの人たちに誰かが何か騒いで訴えてるってことを感じてほしいから。多くの人を巻き込みたいという思いでやっています

 SNSを通じ、加藤さんのもとにはいじめの悩みを持つ子どもや母親たちからたくさんの相談が寄せられる。緊急性やリスクが高い場合は、現地に赴き問題解決に向けたサポートをすることもある。

 昨年10月、いじめを苦に自殺を図った中学1年生の娘を持つ母親のAさんが取材に応じてくれた。大阪在住のAさんは学校が自殺未遂といじめとの因果関係を認めず、調査や指導も行わないことに苦慮していた。

「自治体の相談窓口や支援団体にも相談に行きましたが、真剣に聞き入れてもらえなくて……。そんなとき、偶然、加藤さんのユーチューブを見てメッセージを送りました」

 2月末、加藤さんは学校との協議のため、正式にアポイントを取った。だが当日、学校側が弁護士以外の同席を認めず、校門前で足止めされる事態となる。加藤さんは「僕は中に入れなくていいので、絶対解決すると約束してほしい」と訴えた。

 Aさんと娘が校内に入り、話し合いは5時間に及んだ。

 結果、初めて同席した校長がいじめの調査を改めて行うことを誓ったという。

「校門前で私たちを待っていてくださった加藤さんは、娘に、“生きていてよかったと思える人生を送ってほしい”と話してくれました。それは本当に大切なことだなぁと。

 この先、たとえ学校に行けなかったとしても、きっと娘にはいろんな出会いがあって、あんなことがあったけど、生きててよかったと思ってくれたらいいなと思っています」

更生した非行少年の10年後

 加藤さんが暴走族の仲間とともに資金、人脈、社会経験すべてゼロで、ボロボロのスコップ1本から立ち上げた建設会社『新明建設』は、今年で創業22年を迎える。今では多くの有資格者を抱え、公共事業も受注する栃木県でも有数の企業となった。10代だった部下たちも幹部となり、後輩を育てている。

 起業した当初から、子育てに悩む親や非行少年少女、ひきこもりや自傷行為に苦しむ若者から多くの相談が寄せられていた。加藤さんは独自の教育メソッドで、これまで約3500人以上の更生に携わった。

「非行少年たちとの間に信頼関係を築きます。フレンドリーすぎるのはダメで、ちょっと怖いお兄さんという立ち位置ですね。働きながら、お客さんのことや同僚の仲間のことを日々考えさせて、価値観を変えていく。一緒に目的を持って協働して、目的を達成した感動を味わう。その繰り返しが大事なんです」

 少年たちの気持ちを理解するため、海外で心理学を学んだ時期もあったというが、途中でやめてしまったという。

「指導する先生に、僕のやり方が心理学的に気に入らないと言われたので、じゃあやめますと(笑)。先生は相談者の話を聞いてあげればよくて、僕みたいに問題解決に導くのは強制だとおっしゃるんです。でも僕からしたら更生が目的なんで、そんなクソみたいな心理学だったら要らないですねと。やっぱり直接人と向き合ってるほうが強いなと感じたんです」

 かつて通貨偽造で罰せられ、加藤さんのもとで更生プログラムを受けたレオナさん(33)は、母親に連れられて新明建設に来た日のことをこう振り返る。

演説後、自ら署名用紙を手に人々に声をかけていた加藤さん。中学生や高校生も足を止め、署名に応じていた 撮影/伊藤和幸

「なんでこんなところへ来なきゃいけないんだ!俺の人生なんだから勝手にさせてくれ!って啖呵切って、母親を泣かせていました。初めのうちは会社のルールも職場の人間関係もわからず、なかなか溶け込めずにいましたね」

 ところが次第に仕事のおもしろさがわかってくると、働くことの大変さやお金を稼ぐことの有り難みが感じられるようになった。

「携わった土木工事や舗装工事は地図に残る仕事でしたから、できあがったときの達成感も大きかったんです」

 レオナさんはアパートを借り、ある程度自由の利く生活を送ることができていた。しかし加藤さんとの間に、“昔の仲間との付き合いを断つ”という絶対的な決めごとがあった。その約束を守れず、勘当を突きつけられたこともある。

「悪の道からなかなか抜け出せなくて、突き放されそうになって……泣いて謝りました。でも、加藤さんが“俺は信じるから”って言ってくれたんです。加藤さん自身も、もともと悪い世界にいて更生した人なので、自分の若いころを思い出して、情熱を傾けてくれたんじゃないかと思います」

 自らが変わっていく中で、昔の仲間も離れていき、関わらずにいるうちに、興味がなくなっていったという。

「普通の生活のほうが楽しいなって。逆になんであんなことやってたんだろうって不思議に思うようになったんです」

 レオナさんは現在、6歳の息子を育てるシングルファーザーだ。大型トラックの運転手をして生計を立てている。週末、仕事を終え、実家の母親に預けた息子を迎えに行き、共に過ごすのが何より幸せな時間なのだと語る。

 実はレオナさん、10年前に正式な退職届を出さずに加藤さんのもとを飛び出したことをずっと悔やんでいた。

 今年2月初旬、レオナさんは遂に意を固め、息子を連れて加藤さんを訪ねたという。

「僕たちが来たことを喜んでくれて、僕の謝罪を受け入れてくれました。“お前、守るべきものができたんだろう?悪いことももうやってないんだろう?じゃあ更生したんじゃんかよ”って言ってもらえました。

 加藤さんは自分にとって、恩師であり兄貴みたいな存在で、更正するきっかけをくれた大事な人です。これからは自分も、過去のことがあってもやり直しがきくし、変われるんだよってことを若い子に伝えていきたいと思ってます」


 加藤さんは頼もしくなった弟分の言葉に目を細める。

「更生はキレイに終わるなんてことはなくて、キレイさは求めていないんですよ。大事なことは、本人がしっかりと自分の人生を歩んでいくことなんです」

施設で育ち、暴走族総長へ

 1976年10月6日、栃木県で2人兄弟の長男として生まれる。父は腕のいい板前だったが、酒を飲むと母親と加藤さんに暴力を振るい、放蕩の末、女性と借金を作った。

「小さいときは苦しい思い出しか記憶にないですね。母を殴る父親への憎しみが強かった。さぞかし母はつらかったろうと思います。その矛先が自分に向いて、少しでも母が助かればいいと思っていました」

 小学校に上がると、母親はホテルのフロントで日中働き、夜はホテルのクラブで働くようになった。忙しい母親に甘えることができず、愛情に飢えていたという。真夏の昼下がり、弟と母親をはさんで、寝そべっていたときの記憶が蘇る。

「寝息を立てている母に腕枕してほしい、抱っこしてほしいなと思った覚えがあります。近づきたいけど恥ずかしくてできなかった、そんな思いでした。こんな初老の俺が言うのもおかしいんですけどね」

 そうおどけながら、一瞬しんみりとした表情を覗かせた。

暴走族をしていた当時の加藤さん

 小学校2年生になると、母親と加藤さんに対する父親の暴力がますますひどくなり、養護施設に預けられた。はじめは弟も一緒に行く予定だったが、加藤さんは幼い弟が不憫で、「一緒に来たら邪魔だ」と言い張り、弟は祖母と家にいられるようにした。

 施設では消灯時間になると、布団が敷き詰められた広い和室のあちこちから、親の迎えを待つ子どものすすり泣く声が聞こえてきたという。

「夜の託児施設で一緒の仲間は、放課後の遊び仲間になりました。小2のころからタバコ屋でくすねたタバコを一緒に吸ったりしてましたね」

 中学に上がるころ、両親は離婚。たまり場でシンナーを吸い、毎晩夜遊びをするようになる。3年のときに先輩に誘われて暴走族に入った。その後、傷害、恐喝と非行をエスカレートさせていく。

 高校を4か月で中退後、北関東を中心とした暴走族の総長になった。同時に裏社会での駒を進めていく。パチンコの偽造カードで得た玉を換金し、シンナーを夜の街で売りさばいた。上納金として、暴力団に還元するためだ。

「育った環境が施設だったんで、周りを見たらヤクザしかいなかったんですね。家でも施設でも虐待されて褒められたことがなかったんで、悪いことをしてすごいねって褒められたとき、初めて認められた気がして、ここが自分の居場所だと思ってしまったんです。裏社会は上下関係が厳しくて、親分に対するコミットは凄まじいものでした。そういうのも自分の中で響いたんです」

 武闘派と呼ばれた親分を守るために、ボクシングや空手など格闘技はほとんど身に付けた。親分に仕え、暴力で権力をつかみ、ついてきた仲間たちといい生活を送ること、それが自分の目的で、その先にしか幸せはないと信じてしまったという。

 20歳を過ぎたころ、栃木県の地元だけでなく、歌舞伎町でも幅を利かせるようになっていた。覚醒剤と暴走族同士の抗争に明け暮れ、2回逮捕されている。

「21歳で2度目の留置所送りにされたとき、今のまま生きていたら、必ず刑務所を出たり入ったりするのを繰り返すことになるだろうと思いました。自分の仲間も同じ道を進んでしまう……そう思ったら、それまできちんと働いた経験はありませんでしたが、出所したら仲間と仕事を始めようと思ったんです」

頭を下げて謝り倒す屈辱

 24歳のとき、暴走族の後輩7人に声をかけ、新明建設を立ち上げた。土木業を選んだのは、スコップ1本で始められて、体力が活かせるからだった。

「建設現場に人を供給する仕事から始めました。最初は派遣した後輩たちの仕事ぶりが評価されなくて、“お前らカカシか?” “使えない”とクレーム処理に追われました。それまで人に謝ったことがなかったので、頭の下げ方から学びました。

 辞書を買ってビジネス用語を覚えたりもしましたね。くそみそに文句を言われるもんだから、“この野郎、ふざけんな!”って言いたくなるんですけど、それをやっちゃったら、その子たちの仕事がなくなって、またヤクザに戻っちゃうんで。堪えましたね」


「お願いします」「ぜひ使っていただけませんか」と交渉する営業のやり方も身に付けていった。非行少年たちが働ける受け皿をつくりたいという一心でやっていくうちに、大手会社との取引も舞い込むようになる。

「お客から、お前んとこ使いたいんだけど、有限会社じゃあ使えないよって言われて。資金も貯めて、2年後に株式会社にしたんです」

 仕事が順調にいく一方で、加藤さん自身は相変わらず裏社会とつながっていた。昼間は土木会社の営業をし、夜は裏社会の関係者と飲み歩く。

「会社の売り上げから自分の取り分を減らしても、親分に上納金を届けました。どちらの世界にも義理を尽くし、表と裏の顔を使い分ける自分の在りように酔っていたんですね」

 そんなある日、部下が飲酒運転で民家に突っ込み、即死する事故が起きた。自分と似た境遇で育ち、「社長のようになりたい」と信頼を寄せてくれていた仲間だった。加藤さんは指導する立場の自分の甘さを痛感し、自責の念に駆られる。時を同じくして、暴力団の組織が抗争事件を起こし、業界にいられなくなる事態も起きていた。

「それを機に親分がヤクザをやめたので、僕もやめました。親分に惚れてヤクザになったので、もう裏社会にいる理由がなくなったんですね。その方も身の安全は確保されているはずですよ。出家されてるんじゃないですか。

 親分は、裏社会の人でしたけど、人間味のある人でした。口癖のように言っていたのは、極道とは、“道を極める”ということだったんです」

 どんな世界でも、堅気の世界であっても、道を極める人間はプロで、尊敬に値するのだと。

「それから自分は表の世界で道を極めようと思いました。社員全員にどんな仕事でもこなせるような技術を身に付けさせて、人から求められるような人材に育てよう、そのために自分も社長として、人としてもっと成長しなければならないと決意したんですね」

 26歳で裏社会との付き合いを断ち切ると決めてから、完全に絶縁するまで、3年の年月がかかった。右翼から嫌がらせを受けたり、地域のチンピラにからまれたり、トラブルが絶えなかったのだ。そのたびにやり直したい、表社会で上を目指したいと自分を奮い立たせたと話す。同時に常習していた覚醒剤も断った。

「26歳のときに強いのを打ち込んじゃって、死ぬような思いをして、このままでは自分がダメになると、本気で思ってやめたんです」

 覚醒剤依存をやめるには、「生きたい」と思える動機を見いだすことが重要だとい
う。

「集団生活をしたりして環境や習慣を変えても、そこを出てしまえばまたやってしまう可能性があります。だから、薬物依存も更生も立ち直る中で、大事にしたい人や愛する人など、動機となる人間を見つけることが大事だと思っているんです。その信頼関係があれば、基本的に立ち直れます。

 でも人間関係が壊れると、どうでもいいってなっちゃうんですよ。孤独になると、ほとんどまた戻っちゃいますね。だから人間関係の力がとても大きいんです」

被災地支援で出会った子どもたち

 加藤さんの支援活動は、更生だけにとどまらず、震災被災地にも波及していく。東日本大震災では、震災2日後に現地入りし、炊き出し10万食以上、物資100トン以上の支援を行った。

「千葉の学校の講演会へ向かう途中、首都高の上で地震にあって、そのまま首都高で降りられなくなった人たちの手助けをしました。ニュースで仙台空港が流されている映像を見て、これは早く東北へ行かなきゃと、すぐに水を積んで向かったんですね」

 当初、現地は本格的に自衛隊が入る前で、壮絶な光景が広がっていた。あちらこちらに横たわる遺体の収容から始めたという。

 加藤さんのツイッター投稿に感化され、雑誌対談で面識のあったタレントの麻木久仁子が現地入りするなど、支援の連鎖も生んだ。

自分の家を探しながら、食べ物を集める子どもと出会い、支援に本腰を入れようと決意した

 本腰を入れて支援しようと思ったきっかけは、ごみ袋を持って、食べられる物を拾い集めていた2人の子どもを保護したことだと話す。

「子どもたちは家が流されてしまって、どこだかわからないので探していると言いました。そのとき、自分が養護施設を抜け出して、家に帰ったときのことを思い出したんですよ。

 
結局、中に入れずに、親父とおふくろと弟が話しているのを外から聞いてただけだったんですけど。大人になってから、どうして親父にあんなに殴られたのに、家に戻ったりしたんだろうって考えたんですが、やっぱり家に帰りたかったんだろうなと気づいて。その子どもたちも自分の家に帰りたいんだろうと思ったら、もう絶対見過ごすわけにいかないと思って、南三陸に入って活動することにしました」

 それから数か月後、『はまなす学習塾』を開き、学校を失った小中高生に学びの場を提供した。新明建設も東北に拠点を移し、被災者50人以上を採用し、5年間、土木工事や建設工事を行った。

 震災の日から行動を共にした前出のレオナさんが言う。

「地震があったとき、一緒に車に乗っていたんで、これから行くぞって有無も言わさず連れていかれる感じでした(笑)、でも、人を助ける側に回れたらいいなと思っていたので、迷うことなくついていきました」

現地の人と連携を取りながら状況を把握。避難所の人々にも積極的に声をかけて物資の配給や炊き出しを朝から晩まで続けた

 宮城県南三陸町に空き家を借りて、大人数で住み込みをしながら、支援活動を始めた。被災現場を目の前にして仕事をする中で、人々のつらさが身に沁みたという。

「被災者の方が、家とか形あるものは何もなくなっちゃったけど、生きているだけで幸せ、みたいなことを話していて、メンタルの強さを見習わなきゃいけないなと思いましたね」

 瓦礫を撤去していると、お年寄りに感謝され、“私たちもまだ頑張るから、君たちもまだ若くてこれからの人だから、頑張ってね”と言われたことが忘れられないと話す。

「加藤さんが非行少年たちをそうした現場に連れていって、いろんな人と関わらせたことにどんな意味があったのか、今となってはよくわかる気がします。そんな機会を与えてもらえたことに感謝しています」

 被災地は極限状態に置かれた人々の間でさまざまなトラブルが生じることもあった。時として、加藤さんはその調整役も担ったと話す。

最初に避難所の学校に入った人が先住民で、たまたま入れなかった人が部外者という扱いになってしまっていました。もうこれ以上入れないからと誰かが仕切って閉めてしまって、学校に入れないで潰れた家で寝ている人たちもいました。

 物資を渡しても、いっぺんにたくさん持っていっちゃう人もいて。そうならないように、僕らがちゃんとたくさん物資を持って来週も来ますからと約束をして、安心してもらうようにしたんです」

現地の人と連携を取りながら状況を把握。避難所の人々にも積極的に声をかけて物資の配給や炊き出しを朝から晩まで続けた

 被災者たちに乱暴に物資を放り投げるボランティアもいて、叱りつけたこともあった。

「ふざけんじゃねーぞ、この野郎と。優越感に浸ってちゃダメだよと。だんだんと大事にしなきゃいけないものが何なのかもわかってきて、東北の方たちともつながって、チームができあがっていきました」

 現場の声を吸い上げて、1000件以上のボランティアマッチングも行った。そうした活動が高く評価され、'12年5月に内閣府や国土交通省などが後援する社会貢献支援財団より、社会貢献者表彰を受賞している。

 '16年4月の熊本地震の際は、発生したその日に、34台の空っぽのトラックで現地へ向かった。

「今度は行く先々で物資を積み込んで、熊本に着くころにトラックがパンパンになるようにしました。自分たちで準備していると遅くなってしまうんで、3・11で学んだことを活かしたんですね。Facebookで呼びかけて、調達しながら行きました」

 熊本へ行くまでにたくさんの飲食物や生活用品が集まったという。

憎んでいた父親からの謝罪

 裏社会と訣別したころ、没交渉だった父親と再会した。父が働いていた料理店のオーナーから、父の容体が悪いと知らせを受けたのだ。その人は母をはじめ親戚筋に引き取ってもらえないかと頼んだようだが、すべて断られていた。

「父に会うまでは殺したいほどの憎しみが強かったんです。せっかく裏社会をやめたのに、今、親父を殺したらとんでもないことになるからと、一応自分が暴れたら止めてもらうように、信頼のおける社員2人についていってもらいました」

 ひとり暮らしをしているという木造のアパートを訪ねると、病気でやせ細った父がパイプ椅子に座っていた。

「まずその姿を見て衝撃を受けて、“親父何やってんだよ”って言ったら、親父は“ごめんな”と言ったんです」

 その言葉を聞いたとき、それまで持っていた怒りや憎しみが消え、「一緒に帰ろう」という言葉が出たという。

「あー俺はこのひと言が欲しかったんだって、そのときわかったんです。ずっとおふくろを痛めつけて、俺たちを苦しめて、何でこんなことするのかなってわからなかったんですけど、そのときに、この人、自分が悪いっていう認識があったんだなって知ったんです。俺も甘いですよね、そのひと言で許しちゃったんですから」

あれほど恨んだ父親のことを語るとき、涙をにじませた 撮影/伊藤和幸

 父のことはその後3年間介護して見送った。母も最後のころは見舞ってくれたという。父の身体を拭いてあげたとき、足の形まで似ていて、自分の身体を拭いているような気持ちになった。一緒に暮らした思い出は少ないが、やっぱり親子なのだと実感したという。

「僕も子どもが2人いるんですけど、離婚してるんですよ。奥さんを幸せにできなかったという点では、親父と一緒だなと思っています。大学生になった子どもたちとは交流があって、仲いいですよ。まじめで素直に育ってて、それは元妻に感謝しています」

 幼いころ、両親の愛情を感じることができなかった加藤さんだが、深い愛情を周囲に注ぐことができるのはなぜか。

「親から得られなかった分、やっぱり仲間の存在があったことが大きいですね。小さいころから一緒に寂しさや苦しさを紛らわす仲間がいたからこそ、やってこられたのかなと。中でも新明建設の仲間たちが自分を信頼してついてきてくれたことが大きいです。多くの人から愛をもらってきたことが、今、すべての活動の動機になっています」

 いじめに関する署名運動も、自分がやりたいと思ったことで、誰かに頼まれたことではない。人を救いたいと思うこと、形にしたいと思うことが大事なのだという。

 深く結びついた仲間たちと活動する中で、それまで目を背けてきた親との関係にも向き合えるようになった。

「おふくろは僕を養護施設に入れたことで、僕を捨てたと思っているみたいで、すまないという気持ちが拭いきれないようです。僕はおふくろにそんなこと気にしなくていいって思っていますし、この人が僕のことを産んで本当によかったって思ってもらえるように、まぁ頑張ろうという気持ちがあります」

「誰でもリーダーになれる」

 '17年、加藤さんは少年更生の経験を活かし、人財育成研修とチームビルディング支援のエキスパートカンパニー『マーヴェラスラボ』を設立。JRやコカ・コーラといった大手を含む500社以上の企業と、学校の人材育成支援を行ってきた。

 同社の事業部長で、管理者層の研修を手がける日高心陽さん(34)が語る。

「50代の経営幹部の方たちが相手だと、最初は腕組みして、どうせいつもの研修なんでしょって感じなんですよ。でも加藤が自分のことをさらけ出して、おひとりおひとりに“人は変われる”ということをお伝えすると、ふんぞり返っていた方たちも、次第にふんふんと聞いてくださるようになるんです」

 加藤さんは「人はいつからでもどこからでも変われる」と力強く唱えている。 

「僕みたいに育った環境も悪くて、特別に何かを持っているわけでもないクズが変われたわけですから、誰でも変われます。みなさんそういう環境にいないから、変われるということがわからないんですね」

安全な場所から綺麗事を言うのが大嫌いなのだとか。「世の中の悲しみを減らして、喜びを増やす」ことがビジョン。自らの壮絶な体験から「人はいつでも変われる!」と提唱する 撮影/伊藤和幸

 年齢のせいにしたり、絶対無理だと思っている人が多いが、その固定観念を壊すところから始めるという。

「僕の使命は努力するすべての人に勇気を与えることだと思っています。人の可能性を最大限に引き上げたいんですよ。一方で、社会の裏側で起きていることにも目を背けてはいけないので、その可能性を奪うような隠蔽や誹謗中傷といった障害物をどかす活動もしています。その両輪で動いている感じですかね」

 前出の日高さんは、「困っている人を見ると、じっとしていられない人」だと明かす。

「自分が幼少期に救われたかったという思いがあるからでしょうかね。仕事でどんなに急いでいても、交通事故があったりすると、すぐ手を差し伸べます。そんなとき、事故現場で動画を撮っている人を見つけると、即行で注意しにいきますね。見た目が怖いんで、みんなすぐ逃げていっちゃいますけどね(笑)」

 誰にでも自分に与えられた使命があり、それを見つけて追求することが生きる意味だと加藤さんは言う。“一生付き合わなければならない自分”を信じて愛することができたら、必ずその使命に気づけるはずだと。

「そうしたら人はいつでも変われます。今はフォロワー量産社会のようで、それはおかしいんじゃないかって思っているんです。みんな顔も性格も違って、それぞれに役割も違うはずなのに、なぜか人と同じことをやりたがるでしょう?

 誰かを支持するフォロワーになるんじゃなくて、みんながおのおのの使命のリーダーになれるはずなんですよ。自分の人生は自分のものですからね」

 こわもての元武闘派のカリスマは、やり直しのきく人生を体現している人。人の弱さも痛みも知っているから、やさしさを極めることができる。困った人をほっとけないリーダーが育てたリーダーたちが、次のリーダーを育てていく。

〈取材・文/森きわこ〉

もり・きわこ ●ライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。社会人2人の母。好きな言葉は、「やり直しのきく人生」。