「今の若い人は僕のことを“座布団運びの人”と思っているから、『ずうとるび』の動画を目にすると“作詞・作曲 山田隆夫”の文字を見て驚くみたい。“あ、紅白にも出てる歌手なんだ”って」
そう語るのは、長寿番組『笑点』で6代目座布団運びを務める山田たかお。朱色の着物姿でおなじみだが、コントもこなすアイドル『ずうとるび』のリーダーとして活躍した姿を覚えている人も多いだろう。しかし、彼の人生のスタートは、その明るい笑顔からは想像もできないほど暗かった。
「実家はもともと裕福な材木問屋だったんですが、僕が生まれるころに父が詐欺にあって……。自分は、家庭がいちばん貧しいときに生まれました。父は酒を飲むようになり、虫の居どころが悪いとちゃぶ台をひっくり返すことも。僕は“家族が明るくなるといいな”と思うようになりました」
そんなとき、突如としてチャンスが。当時の人気番組『ちびっこのどじまん』の公開収録が、地元にある江東公会堂で行われたのだ。
「友達と見に行ったら、たまたま出演者が1人風邪で出られなくなり、司会の大村崑さんが飛び入り参加を募ったんです。みんな手を挙げていたけど、僕は自分から舞台に上がっちゃった。“これはチャンスだ”と思ったんです」
郷ひろみと出会ったときの“衝撃”
番組のテーマソング『ちびっこマーチ』を歌い、飛び入りながらチャンピオンに。賞品として、インスタントラーメン6か月分を手にした。
「3度の食事にも困る家庭だったから、みんな大喜び。でも最初は、どこかから盗んできたと思われましたね(笑)」
ここから、山田の人生は大きく動き始める。番組の審査員に声をかけられ、NHKの歌番組に出演。さらに、その様子を目にした脚本家に見初められ『劇団ひまわり』に所属することになった。
その後、ドラマなどの作品に出演していく中で、大きな衝撃を受けた出会いがあったという。'72年に放送された『おやじ山脈』(TBS系)で共演した、郷ひろみである。
「彼のファンがお弁当をたくさん差し入れするんですよ。僕が“3個くらいくれない?”って聞いたら“いいよ”って言ってくれたんですよね。“ステージで歌ってるところを見せて”って頼んだときも“いいよ、車に乗りな”って連れてってくれた。会場に行ったら、ファンが一斉に寄ってきて車をバンバン叩くんですよ。そのときに“次はアイドルになろう!”と思いました(笑)」
その後『笑点』内のコーナー『ちびっこ大喜利』に出演し、座布団10枚を獲得。ご褒美としてレコードを出してもらえることとなり、そこで結成されたのが『ずうとるび』だった。
離婚で「ゼロからのスタート」手を差し伸べた『笑点』
「当時はレギュラーが10本くらいあって、ブロマイドの売り上げも7か月連続1位。2位が西城秀樹さんで3位が郷ひろみさんでした。憧れの郷さんを抜いちゃったんです」
人気絶頂のグループで作詞・作曲やコント作りまで務めるリーダーとして活躍したが、メンバー間で次第に意見がぶつかるように。
「お笑い路線でやりたい僕と、アイドル路線でやりたいほかのメンバーとで分かれてしまったんです」
結果として、山田はグループを脱退。同時期に、プライベートでは結婚を迎えた。幸せなゴールインを果たした……かと思いきや、その後の人生をめぐって問題が。
「そのときの妻は裕福な家の女性で“引退して家業を継いでほしい”と言われたんです。でも“自分の居場所はやっぱり芸能界だ”と思い、別れを選びました。慰謝料などを払わなきゃいけなかったから、本当にゼロからのスタートになりましたね……」
人生のどん底を味わったが、そこに救いの手を差し伸べたのが『笑点』だった。
「本当は、ある有名な関取の方が6代目の座布団運びになる予定だったんです。ところが、その人が“俺は座布団運びなんかやらないよ”と断ったそうで、僕に声がかかったんです」
かつて『ずうとるび』を生み出した番組が、再び山田の人生に明かりを灯した。見せ場を作ってくれたのは、当時司会を務めていた5代目三遊亭圓楽さんだった。
「圓楽師匠が“山田くんを目立たせよう”と考えてくれました。林家こん平師匠に“山田くんの悪口を言いなさい。山田くんはそれを突き飛ばしなさい”って。それが、あのくだりの始まりなんですよ」
恒例の“突き飛ばし芸”には、数々のエピソードがある。
「春風亭昇太さんの座布団が8枚くらいのときに、思わずバーンとやってしまったんです。かなりの高さで“いけない!”と思ったけど、彼がうまく受け身を取って“プロレス同好会入ってましたから、大丈夫です!”と(笑)。この前は、桂宮治くんを初めて突き飛ばしたんですよ。そしたら林家たい平ちゃんが“『笑点』の洗礼を受けたね、感謝しなさい”って(笑)」
すっかりお茶の間の人気者となったが、その活躍は世界的な巨匠の目にも留まり、'87年にはスティーブン・スピルバーグ監督の映画『太陽の帝国』にも出演した。
「最初はドッキリだと思いましたよ(笑)。撮影中でも、『笑点』の収録がある日はちゃんと帰してくれました。別のハリウッド映画に出演する話もあったけど“『笑点』を休んでくれ”と言われたので、それはお断りしました」
ジャニー喜多川さんからもらった言葉
多方面で活躍を見せてきた山田だが、'20年には『ずうとるび』を再結成している。
「今でも、ディナーショーやライブをすると全国からファンが来てくれる。やっぱり、懐かしい思いで聴いてくれる方がいるんですよね」
グループの再結成を願っていたのは、かつてのファンだけではなかったという。
「昔、たまたまスタジオでジャニー喜多川さんにお会いしたとき“You、面白いね”と言ってくれたんです。メンバーの今村良樹くんの息子がジャニーズにいて、生前にジャニーさんの家に行ったら“ずうとるびを再結成するよう、お父さんに言っておきなさい”と言われたそう。認めてくれていたんですね」
数々の大物の心をつかんできたが、その熱い思いは今も昔も変わらない。
「僕がやりたいのは、エンターテイメント。歌って踊って、笑いもとる。自分は、そういうコメディアンでありたい。『笑点』は、子どもから年配の方まで見てくれている番組で、本当にやりがいがあります。笑いは健康長寿のもとですから、これからも元気を届けていきたいです」
プライベートでは、こんな活動も。
「こん平師匠が設立して小遊三師匠がヘッドコーチを務める『らくご卓球クラブ』に参加して、世界ベテラン卓球選手権にも出場しています。今では、公式戦でスペインとオーストラリアに勝てるまでになりました!」
最後に、創刊65周年を迎えた『週刊女性』へのお祝いのコメントをお願いすると……。
「『週刊女性』創刊65周年とかけまして、人工衛星と解きます。その心は、ますます軌道に乗るでしょう! 『ずうとるび』は、もう一度紅白へ!」