新型コロナ感染拡大で医療崩壊の危機が叫ばれ、医療従事者が悲鳴を上げることとなった2021年。「戦後最大の危機」とまでささやかれた黒い渦は、医療現場だけでなく経済にも大きな打撃を与え、生活や将来への不安とストレスで人々の心を曇らせた。鬱々と重く沈んだ雰囲気の世の中で、97歳になる現在も現役看護師として元気に働く女性がいる。
97歳の現役看護師から学ぶ生き方
「年寄りだからって甘えてはあかんですね。仕事をするかぎりきちんとやります」、そう意欲を見せる池田きぬさんは1924(大正13)年生まれ、あと3年で100歳だ。
きぬさんが働くのは三重県津市にあるサービス付き高齢者向け住宅「いちしの里」。10年前の88歳のとき姪にすすめられ、「最後のおつとめ」だと思いたって働き始めた。
看護師になったのは17歳。結婚や出産、子育て、病気などさまざまなことがあったが、80年間看護師として働き続けてきた。
若いころから婦長(現在でいう師長)などの責任ある立場を任されてきたきぬさん。定年を迎えても現場に立ちたい、仕事を全うしたいという気持ちで「いちしの里」の面接を受けた。さすがにフルタイム労働は厳しいものの、現在でも週1~2日のシフトをこなす。この勤務体制になったのは3年ほど前からで、80代のうちは週5日、90代前半でも週3~4日働いていたというから驚きだ。もちろん1日6時間半ほど働いた後は、「やっぱり身体がえらい(=しんどい)」。しかし、家に帰ってきて「今日も働けた」という爽やかな感覚を味わうことが、日々の充実感につながっているそうだ。
若い人と同じスピードで動くのが難しいからこそ、きぬさんが仕事中に心がけているのは「ミスをしない」こと。「丁寧にひとつひとつ、正確に。仕事をするかぎりはやりきらないと」。現在働く施設の社長にも、年寄り扱いするならやめると言っている。
日々に欠かせないのが、今日やるべきことを書き出すことだ。例えば、朝ゴミを捨てにいく、庭の雑草の手入れをするなど、どんな些細なことでも文字に書き起こすことで、1日の目標が明確になる。
「もちろん、やると決めたことでも疲労やその時の気分でサボってしまう日もありますがね。無理はしません。5つの目標を立てたところで、2つしか達成できないときもありますが、大切なのは目標達成ではないですからね」。
できたこと、できなかったことを書き残せば、ちょっとした自分の変化に気づける。またできたときには、単純にうれしいし、「まだまだ自分はやれる」という励みにもなる。
食べることが大好きなきぬさんにとって、毎日の自炊も欠かせない。テレビの料理番組や新聞の料理欄に載った料理に挑戦してみたり、美味しそうなものは忘れないようにレシピをメモしたり……とはいえ、やっぱり疲れているときは、インスタント食品やコンビニの冷凍食品ですませることも。
そんなときも「家事に完璧を求めない。手を抜くときは抜く」と割り切り、身体の具合やその日の気分と相談しながら「無理せんでおこう」このぐらいの気持ちで一日一日を誠実に過ごし、コツコツと達成感を積み上げていくことが、充実した日々を過ごすヒケツだ。
「私は根っからの仕事人間」
「世の中でいちばん楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つということです」
これはきぬさんが人生の指針にしている福沢諭吉の言葉である。
きぬさんは自身のことを「根っからの仕事人間」であると話す。3日間仕事が休みで家にいると、働きたいと思ってしまう。家にいるとぼんやりしてゆるんでいるが、仕事はそうもいかない。現在のように週1~2回の勤務があるおかげで、生活によいメリハリができるというのだ。
実際、親の介護など、つらいことや悲しいことがあったとき、支えになったのは仕事だった。看護師という仕事は悲しみを支えるものであり、喜びや充実を得るものであり、気分転換でもあったのだ。
「一生を貫く仕事とは、給与の発生する“労働”だけではないと思うんです」。人生で成し遂げたいことや目的を持ち、行動し続けることこそが重要であると話す。
次の目標は「いつか自分が施設に入ったら、ボランティアをしたい」。もしきぬさん自身が利用者として施設に入居しても、CDプレーヤーを持っていき音楽を流してみんなと歌いたいし、楽しく過ごすために率先して行動しようと決めている。ほかにも、現在勤務している「いちしの里」で4月からの本格的な電子化導入の予定を聞き、「パソコン教室に通いたい」、と社長に相談した、とも。
年齢にとらわれず、新しいことに挑戦し続けるその精神が衰えることはない。
一生懸命やり続けてきたから、今がある
地元・三重の女学校を卒業した後、赤十字の看護学校へと進んだ。これが看護師としての長いキャリアの始まり。当時の日本は、太平洋戦争開戦時。赤十字病院では外科に配属され、戦闘で負傷した重傷者が次々に運び込まれてくる惨憺たる状況を経験した。終戦を迎えるまでの約2年間、負傷兵の看護や食事介助、時には銃で撃たれた人の腕から弾丸を取り除く手術の助手も務めたりしていた。
このころの日本といえば、上下関係が特に厳しく、まさしく軍隊のようであったときぬさんは振り返る。それが当たり前であったためか、嫌だとか、逆らいたいとは一度も思ったことはないという。逆に「その経験のおかげで規律のある生活が身に付いてよかったと思っています」
56歳のときに20年間近く勤めた病院を定年退職。しかし、まだまだ元気で働きたいという思いがあり、その後もさまざまな病院や施設で総婦長や責任者として働き続けた。さらに、75歳で三重県最高年齢でケアマネジャー試験に合格。88歳で現在の「いちしの里」で働き始め、93歳のとき、80歳以上の医療関係者を顕彰する「山上の光賞」を受賞した。
「そのお年まで働き続けるなんてすごいですね」、出会う人たちはみんな口々にそう話す。それに対するきぬさんの思いは「すごいことなんてひとつもありません。ただ目の前にある仕事をしてきただけ。仕事があるうちは働かねばという使命感」という。
現在働いている「いちしの里」の入居者は、ほとんどが年下。きぬさんの働く姿を見て、自分もリハビリを頑張ろうと生きる目標にもしてくれるそうだ。
健康寿命が延び、長い人生をどう充実して生きていくか。
「60歳までは会社にしがみつき、65歳からは自由に旅行などして」などこれまで当たり前と考えられてきた年相応という考え方、働き方や生き方は意味をなさなくなっている。
「なにをしたら自分は楽しいのか、幸せなのか、自分の心の声と向き合い、自分の性に合った人生を選びとっていくことができたと思います」
きぬさんの生き方は、私たちに希望を与えるお手本だ。
【取材・文/小山御耀子(オフィス三銃士)】