この春、日本医学会の運営委員会が、新型出生前診断における「35歳以上」という年齢制限を撤廃する指針を発表した。新型出生前診断とは妊婦の血液からダウン症など3種の染色体異常の有無を調べる検査で、高齢出産の増加により需要が高まると同時に、命の選別につながるとの議論が繰り返されてきた。今回の指針で全妊婦が対象となるわけだが、この年齢制限“解禁”にはどんな意味があるのだろう。
「検査を受けるか受けないか、それを決めるのは妊婦さん自身であり、大事なのは当人の意思。専門家の意見や年齢で制限されるのはおかしいのではないか、という考えが根底にある」
と話すのは出産ジャーナリストの河合蘭さん。妊娠・出産・新生児医療の現場を長く取材し、自身も運営委員として新指針作成に関わる。
陽性診断が「100%確実」だとは限らない
「大切なのは、妊婦さんが子どもを産むときの不安に対する医療・心理面のサポート体制や、十分な情報提供があること。医学的な情報だけではなく、例えばダウン症の方の寿命が60歳といわれる今の社会で、福祉や教育面も含めてどんな暮らしがありうるのか。まずは最新の情報をきちんと収集して、そして妊婦さん自身が誰かに強制されることなく判断できる環境にあるというのが、いちばん重要なことではないかと思います」(河合さん、以下同)
日本に新型出生前診断が導入されたのは2013年のこと。採血のみという手軽さと、妊娠10週目からという比較的早い段階で受診できることで注目を集め、出産に不安を抱く多くの妊婦が検査施設を訪れた。
これまで検査は、高齢出産のほか胎児超音波検査で異常を指摘されたケースなど一定の要件を満たす妊婦が対象で、認定施設で受診するのが大前提。だが対象外の妊婦を受け入れる非認可施設も多数存在し、そこでの混乱もまた今回の新指針作成の後押しとなった。
「調査により認可施設より非認可施設のほうが検査件数が多いことが判明しています。さらに非認可施設は事前の説明が非常に短かったり、異常がある可能性が高いことを示す陽性という結果が出てもメールが来るだけで説明がないこともあるという実態が報告されています」
新型出生前診断は非確定的検査と呼ばれる検査のひとつで、陽性と診断されてもそれが100%確実だとは限らない。実際、NIPTコンソーシアムの調べでは、新型出生前診断におけるダウン症の陽性的中率は約97%というデータが公表されている。高い確率ではあるが“絶対”ではないのだ。その前提を妊婦が把握していなければ、陽性確定を前に妊娠継続を諦めてしまいかねない危惧もある。
新型出生前診断で陽性と診断された場合、より精度の高い羊水検査など確定的検査に進むことになる。ただし羊水検査が受けられるのは妊娠15週以降で、妊婦は最長で1か月以上待つことになる。
その上、羊水検査はお腹に針を刺して羊水を採取する検査で、流産の確率が約0・5%と低いながらもリスクを伴い、受けるか否かの決断も必要だ。仮に羊水検査に進んだとして、改めて陽性と確定診断が下されたらどうするか、という問題もある。また、羊水検査に至る期間は妊婦にとって非常につらく、精神的に追い詰められてしまう人も少なくないという。
「羊水検査は羊水が増えてからでないとできません。検査ができるまでの期間、妊婦さんが悩んでやせてしまったケースも。わからないことに対するつらさというのがあって、それはもうすごいストレスでしょう。私が取材した方の中には、羊水検査を待つ間に思い詰めて、一時はお腹の赤ちゃんと心中を考えたという妊婦さんもいたくらい」
ダウン症の子どもへの教育も変化
さらに出生前診断という言葉が一般に広く浸透している今の時代は、夫婦間の問題だけではすまない側面もある。
「今は祖父母世代も出生前診断の存在を知っているので、親御さんも口を出してくる。陽性判定が出たら産まないほうがいいと家族から言われる人も多く、周りの言葉でボロボロになる方もいる。家族関係にも差し障りが出てくるということで、妊婦さんの中には“検査を受けても親には絶対に言わないでおく”という方もいます」
羊水検査でダウン症と診断され、産むか、産まないかの決断をここで下す人は多い。最終的に中絶を選ぶ人は約9割。出産を選ぶ妊婦は多くはない。
「ダウン症の子どもが生まれたときに、“どうして検査をしなかったの?”“検査をしておけばよかったのにね”という言動に出くわしてしまうような生きづらさを防がなければいけません」
このように、新型出生前診断には優生思想や障害者差別の助長、ひいては優生保護法の復活につながるといった懸念もつきまとう。医療に倫理や人権が複雑に絡み合う難しい問題で、検査については現場の医師の間でも賛否が分かれると聞く。では、新型出生前診断を行う意義とは─?
「新型出生前診断により準備ができた方もいます」
産む決心に至るには、心の準備と環境の準備、医学的な準備、何より人とのつながりを持てるかどうかが大きいと河合さんはこう続ける。
「例えば日本ダウン症協会に連絡をとってみるというのもそのひとつ。最近はダウン症の方の教育も変わってきていて、保育園に預けることもできれば、小学校に上がると学童保育に預けることもできる。だからお母さんも仕事を辞めずにすむなど、いろいろな話を聞くことができます」
また大きな病院に転院するとダウン症に精通した小児科医がいて、心臓疾患など関係が深い病気を超音波検査でじっくり診てくれるので、事前に治療計画ができることもメリットだという。
「そのほか福祉の専門家やカウンセラーさんなど、さまざまな職種の方が多方面からケアしてくれます。陽性といわれた当初はもう本当に大変な精神状態になるけれど、そういう過程を踏みながらだんだん勇気が湧いてきて、出産に希望を持つようになった方を私自身何人も見ています」
必要なのは「どちらに転んでも大丈夫」という気持ち
一方、出生前に検査を受けていなかったことで、深刻な事態に陥ってしまうケースも。
「生まれたばかりの新生児が救急搬送されてきた場面に出くわしたことがありますが、お父さんが衝撃を受けて真っ青な顔をされていて。生まれるまで疾患があることを知らなかったのかも。もし出生前に検査を受けていれば、何らかの準備ができていたかもしれません」
出生前診断のニーズに関するアンケートを見ると、「染色体異常」が高齢出産のいちばんの不安要素に挙げられている。事実、ダウン症児の生まれる確率は35歳で338分の1、40歳で84分の1、45歳で30分の1と、年齢が上がるにつれ上昇する。ただしデータというのはあくまでも統計上の数字だ。
「100人中99人は異常がないと聞いて安心できる人もいれば、1%の危険があると聞いて怖くなる人も。“0・1%でも怖い”と表現された妊婦さんもいました。安心できる数字というのは人によって違うんです」
日本医学会は、新型出生前診断について“必ずしもすべての妊婦が受ける検査ではない”との考えを示している。検査をするか否かは妊婦の自由で、希望者はまず遺伝カウンセリングを受け、そこで不安が解消されなければ新型出生前診断を受けることに。
今春の新指針導入に伴い、認承施設や各種相談機関の増加など、サポート体制も強化されつつあり、受け皿は増えた。今後は新型出生前診断のさらなる浸透が予想されるが、河合さんは「検査の結果、出産が簡単なことではなくなるかもしれない」と安易な検査には警鐘を鳴らす。
「ネットには検査を受けて安心しようというイメージの情報が多く、それらは“陽性にならないこと”が前提にされている。確かに多くの人は陰性となるけれど、そうならない人もいるんです。いずれにせよ検査を受ける前に、どちらに転んでも大丈夫、という覚悟はある程度しておいたほうがいいでしょう」
高齢出産に限らず、母体が若くても染色体異常やそのほかの疾患は起こりうる。検査により厳しい現実に立ち向かうことになる可能性は誰にでもあり、まずはその認識を念頭に、正しい情報を持つことが重要な一歩となりそうだ。
かわい・らん 出産ジャーナリスト。東京医科歯科大学、聖心女子大学、日本赤十字社助産師学校の非常勤講師。著書に『出生前診断―出産ジャーナリストが見つめた現状と未来』(朝日新書刊)など