4月4日に一周忌を迎えた脚本家・橋田壽賀子さんの代表作で、NHK朝ドラの金字塔『おしん』。その国民的ドラマで活躍した実力派俳優が今、60代にして再び夢を追いかけ、役者の道を歩み始めている。極貧農家の長男、青年将校、お堅い銀行員……、さまざまな役を演じ、見るものに鮮烈な印象を与えてきた吉岡祐一さんは、行列のできるクレープ店の経営者という異色の経歴を持つ。表舞台から姿を消してなお、芝居への情熱を絶やさなかった吉岡さんの「諦めない生きざま」に迫る。
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東京・西新宿。高層ビル街を抜け、山手通りの清水橋交差点に達する少し手前、大きな建物が立ち並ぶ通り沿いに、キッチンカーを改造した小さなクレープ店がある。『クレープリー シェルズ・レイ』だ。経営する吉岡祐一さんが窓から顔をのぞかせ、笑顔で「いらっしゃい」と声をかける。
注文を受けると吉岡さんは最高級の小麦粉を使った生地を専用の焼き器の上にのせ、クレープ用トンボで手早くのばしていく。そして、ミルキーでなめらかなクリームや新鮮なフルーツを薄く焼き上がった生地の上にのせ、慣れた手つきで熱々のクレープをたたんで紙製の容器に入れ「はい、どうぞ」と客に手渡す。
香ばしく焼けたクレープの表面はサクサクとしていて、内側はふわふわ、モチモチ。中に入れるカスタードやチリソースなども手作りし、普段使っている材料が手に入らないときは店を休んでしまうこともあるという。食の安全とおいしさに妥協しない姿勢は、吉岡さんのポリシーだ。
おいしいクレープを受け取った客はみな、笑顔になる。しかし、それを焼いた吉岡さんが、NHK連続テレビ小説の名作『おしん』で、主人公の兄・庄治を演じた実力派俳優であることに気づく人は、ほぼ誰もいない。
それもそのはずだろう。吉岡さんはあるときを境に、表舞台から姿を消したのだ。
サッカー少年を魅了した演劇との出会い
吉岡さんは1955年、熊本県熊本市で生まれた。水前寺公園にほど近い場所で育ったわんぱく少年は、中学からサッカーを始める。
「高校1年生でレギュラーに選ばれて、インターハイの県予選でいいところまで行ったら、なんだか飽きてしまって。ボールを追いかけて泥まみれになるの、嫌だなと思って、やめてしまったんです」
部活をやめた原因はもう1つあった。両親の離婚だ。
「練習が終わって、疲れて家に帰ってくると、親父が不貞腐れて寝ているんですよ。それを見るのが嫌で」
父と2人暮らしとなり、家に帰りづらくなった吉岡さんは、あり余る時間をつぶすため映画を見るようになる。
「あるとき、リバイバル上映で『戦場にかける橋』を見たんですよ。そしたら映画館を出たあと、わけのわからない感動が込み上げ、涙もバーッと出てきた。それで演劇をやりたい、と思ったんです」
吉岡さんには年の離れた姉が3人いて、すぐ上の姉が高校卒業後、役者を目指し上京していた。
「姉は演劇の本を読み、日本舞踊や琴をやったりしていて、“私は芝居の世界に行くんだ”っていう意識が子どものときから強かったんです」
そんな姉が残していった、名優・宇野重吉の著作『新劇・愉し哀し』などを読んで、演劇の世界を知った吉岡さん。すぐに自作自演の一人芝居を手がけ、高校生が対象の演劇コンクールに出場する。
「そうしたら審査員の先生方がビックリして。それで熊本で活動する劇団『石』に入って、大人に交じって芝居をやるようになったんです。夜中にジャズ喫茶でチェーホフの戯曲をやったこともありました。ませていましたね」
さらに吉岡さんが演劇へ傾倒する体験もあった。劇団『文学座』が巡業で熊本へ来て、テネシー・ウィリアムズの戯曲『ガラスの動物園』を上演したのだ。吉岡さんはこのとき、知り合いから頼まれ、出演者の手伝いをするなど身近なところで演劇に触れた。のちに『おしん』で共演する高橋悦史さんの演技には、特に心を打たれたという。
ますます芝居にのめり込み、所属する劇団の公演で観客からたくさんの拍手をもらった。周りの大人たちからは「吉岡くんすごいな、役者に向いているよ」と褒められた。
気持ちは固まった─。東京へ行って、役者になりたい。
高校3年生になった吉岡さんは、思い切って正直な気持ちを父親にぶつけた。
「役者になりたか」「なんば言うとか」「やりたかけん」「おまえがやったところで、ものになるような世界じゃなかろうが」「それはわかっとうばってん、やりたかけん!」……。3時間粘ったが結局、許してもらえなかった。
高校卒業を間近に控えたある日、父親が再婚した継母と些細なことから衝突した。吉岡さんはバッグひとつで家を飛び出し、熊本から電車を乗り継ぎ、東京の姉のところへ身を寄せた。このまま東京で役者になる……、そう決意した矢先、実家から謝罪の電話があり帰郷することにした。
「それで大学の試験を受けさせてもらえることになって、たまたま受かって。だから僕、高校の卒業式には出ていないんですよ」(吉岡さん)
上京、入学、中退……本格的な役者の道へ
1974年、18歳の吉岡さんは桐朋学園短期大学に演劇専攻9期生として入学する。
「西調布にあった安い風呂なしアパートを借りて、仙川の学校まで通っていました。僕はそれまで大人に囲まれて芝居をやっていたから、学校でもひとりだけ生意気で。そんなに周りとペラペラしゃべらなかった」
吉岡さんの2期上には、俳優の観世葉子さんが在籍していた。観世さんが振り返る。
「私の仲のよい同級生が吉岡くんと親しくて、その関係で知り合いました。とても自然体で、最初からお互い気を遣わずに接することができた、気持ちがいい人。それは今も変わらないです」
自主公演で折口信夫の『死者の書』を企画した観世さんは、吉岡さんに声をかけた。
「“やってくれない?”と頼んだら、すぐに“うん”と引き受けてくれて、道具を組むのも吉岡くんがやってくれたんです。でも若さの勢いとはいえ、よくあんなわけのわからない作品をやってくれたなと(笑)。吉岡くんはキリッと演じてくれましたよ」
卒業後は音信が途絶えたが、のちに『おしん』で共演することに。観世さんは、おしんの夫の兄嫁・田倉恒子を演じた。
「まったく違うパートだったので撮影では会わなかったけど、名前を見て、芝居をやってるんだなと安心しました。吉岡くんの芝居は理屈でこね回したりしないで、自分の感性でスッと素直に役に入っていけるんです。だから最近、再会して役者をやめていたことを知って、ずっとやっていけそうな人だったのに、と思っていました」
1年生のときから学内で注目されていた吉岡さんは、自主公演で安部公房の作品『時の崖』を取り上げる。主人公のボクサーが、試合でKOされてしまう一人芝居だ。
「役作りで3か月、ボクシングジムへ通いました。結構強かったみたいで、ジムの人に“プロテストを受けないか?”と言われ、あわててやめたほど(笑)。『時の崖』は練習風景から始まって、ずっとシャドーボクシング、試合のシーンまで舞台に出ずっぱり。40分の間、衣装はグローブとパンツとシューズだけで《向うの崖を落ちるか、こっちの崖を落ちるか、それだけのちがいじゃないか……》などと延々言い続けるんです。いやあもう、キツかったぁ」
舞台は成功。先輩たちから激賞され、打ち上げ後も興奮冷めやらず、学校のグラウンドを雨の中、ワーワーと吠えながら走り回ったという。
「濡れた服を着替えて、雨のグラウンドを見つめていたら、本当にシュウッと音がするような感じで精気が抜けていきました。それで、もういいかなぁって」
役にのめり込みすぎて、燃え尽きてしまったのだ。
「いつもそうなんです。何か役をもらうじゃないですか。そうすると四六時中、そのことしか考えてないから、飯は食べなくなるし、その代わりに酒飲んで。周りが見えなくなっちゃうんですね」
引き止める先生たちを振り切って大学をやめた吉岡さんは、尊敬していた演出家・竹内敏晴さんの門を叩いた。
「夜中に竹内先生の自宅を訪ねたんですよ。すると、優しく受け入れてくださって“ご飯食べたか?”と。そのうえ“今度、芝居やるから、よかったらのぞきにこないか”と誘ってくれたんです」
独自の身体論をベースにした『竹内レッスン』で教え込まれた吉岡さんは、「芝居ってこんなにキツイのか」と痛感したという。
「セリフってただ言葉を発するだけじゃダメで、“僕はこうしたい”ということが自分の身体の中に今、生まれたものじゃないといけない。それが相手に届いて、反応して、積み重なってドラマになっていく。竹内先生の著書『ことばが劈かれるとき』にも書かれていますけど、口先だけだと徹底的に見抜かれる。
だから芝居って、嘘がつけないんですよ。深いところで人間性が出てしまう。僕は不器用だから、いっぱいに想像の翼を広げて、自分にできるだろうかといつも悩みながら稽古していました」
そんな吉岡さんを劇作家の清水邦夫さんが目に留める。1976年、渋谷ジァンジァンでの二人芝居『花飾りも帯もない氷山よ』に抜擢。吉岡さんは「苦い思い出です」と述懐するが、竹内門下生として頭角を現していく。
同年、渋谷ジァンジァンのすぐ近くで創業したのが、吉岡さんが長年にわたってアルバイトをしていた『マリオンクレープ』だ。紙の容器に入れて片手で食べるスタイルを考案、日本にクレープという食べ物を根付かせた創業者の岸伊和男さんは「吉岡は最初からすぐに陣頭指揮を執って、威張っていた」と笑う。
「クールだけど芯は熱い男でね。すぐ店長をやってもらったんだけど、やる気のあるやつを使うのがうまかったな。『おしん』で吉岡は意地悪な兄を演じていたけど、店でも同じくらい迫力があったし、アルバイトを働かせるため、少々芝居がかったところもありました」(岸さん、以下同)
当時、マリオンクレープには役者や歌手などを夢見る人が多く働いていた。突然入るオーディションや、いい役に決まったらシフトを融通してもらえる文化があったからだ。それは「おもしろい人を集めて、おもしろいことをやるのが好き」という岸さんの考えによるもの。吉岡さんはさまざまなアイデアを出し、クレープを効率よく提供できるスタイルを確立。吉岡さんが叩き出した1日の売り上げ記録は依然破られていない。
「吉岡は次の世代へいい影響を残してくれた存在。喜怒哀楽が強いタイプでね、しょぼくれると、すごくしょぼくれるんだけど(笑)。僕にとってはカンフル剤みたいな、元気をくれるおもしろい男だね」
夫役に挑んで兄の役を射止めた『おしん』
20代前半は演劇の情報を得るため劇団俳優座の映画部に仮所属し、オーディションを受ける日々が続く。すでに出演者が決まっている“出来レース”の現場に足を踏み入れ、心を打ち砕かれることもあった。
だが、25歳になった吉岡さんは平岩弓枝原作のNHKドラマ『御宿かわせみ』のオーディションに合格、ゲスト出演したことがきっかけとなってディレクターに気に入られ、同局のドラマに出演するようになる。
さらには、さだまさしさんの主演映画『翔べイカロスの翼』やテレビドラマ『特捜最前線』にも出演するなど、活躍の場を広げていく。そうしたなか、「正式に事務所に所属したほうがいい」とすすめられ、姉の伝手で俳優・伊藤榮子さんに相談することになった。
「私のお友達と当時、結婚していたのが祐ちゃんのお姉さんでした。その弟さんのことだったから相談に乗って、私がお世話した事務所に所属することになったんです」(伊藤さん)
1981年、NHK大河ドラマ『峠の群像』に出演した吉岡さんは、演出を担当していた小林平八郎さんから「朝ドラのオーディションへ行ってこい」と声をかけられた。どんな内容かも知らず会場へ行くと、多くの人が集まっている。売れっ子の役者もいたため「どうせ、もう決まっているんだろう」と腐りそうになったが、「小林さんから言われたんだし、とにかく思いっ切りやろう」と、3ページほどの台本をすぐに暗記した。
役名は竜三。「おしんさんは、いい人だな」というセリフがあった。─のちに社会現象にまでなった、NHK連続テレビ小説『おしん』のオーディションだった。
とにかくやり切った。ほかの人の演技を見ても、自分が勝ったと思った。しかし、結果はまさかの落選。
「竜三はおしんの夫で戦後に自殺する役なので、スタッフから“演技はよかったけど、とうてい自殺しそうにないから”と言われて。そうか、ダメだったか……と思った1週間後、“おしんの兄役をお願いできないか”という話が来たんです。想像もしていなかった、まさかの兄役ですよ!」
マリオンクレープの配送車でNHKへ行き、台本をもらったものの、「自分が出るところしかもらえないので、最初はどんな人物かわからず、手探りで無我夢中でやってました」という、おしんの兄・谷村庄治。山形の寒村の小作農家の長男で、選択の余地なく貧乏な家を継がされ、外の世界で生きるおしんに「おまえはいいな」と事あるごとにつらく当たる敵役だ。
セリフが長いことで有名な脚本家・橋田壽賀子さんの作品だったが、「僕は一人芝居もやっているから特に長いとは思わなかった」という吉岡さんは、方言指導のテープを聴き、山形弁のセリフを頭に叩き込んだ。
「最初の撮影は、製糸工場へ奉公に行った妹が結核で帰されてきたシーンでした。大声で“働かねえで銭ばっかし食うんだから!”とセリフを言ったら、父役の伊東四朗さんに“そんな大きな声でしゃべったら、病人が起きてしまうだろう”と言われて。でも、演出の小林さんに相談したら“おまえはそのままで行け!”と(笑)」
そんな吉岡さんと共演したのが、庄治の妻・とらを演じた山形県出身の俳優・渡辺えりさんだ。当時を振り返って渡辺さんはこう話す。
「おとらは当初、前半だけの出演予定だったんですが、橋田先生が気に入ってくださり後半まで出ることになったんです。田中裕子さんのおしんをいじめて、乙羽信子さんのおしんに謝りました(笑)」
渡辺さんが吉岡さんに抱いた第一印象は「暗い感じの個性的な演劇青年」だったそうだが、「演劇の話で気が合ったので、皆でよく飲みに行くようになりました。『おしん』の収録が夜中に終わって、演出家たちも含めて飲みに行って、芝居の話をして。でも翌日は皆、ちゃんと朝8時にスタジオに入っていましたね」
『おしん』は演技をするときに音楽も流して一緒に収録する「同録」だった。そのため芝居できる尺が決まっており、NGを出さないよう本番前、吉岡さんとNHKの廊下でよく一緒に稽古をしたという。
「吉岡くんは熊本の人だから、山形弁独特の“ん”の発音ができなくて、それをよく教えていましたね。泉ピン子さんら主役の方たちがたっぷりと演技をなさると時間が少なくなるから、吉岡くんと私でワーッと早口で演技をして収めましたが、かえっておもしろくできました」
撮影終了後、渡辺さんが「吉岡くんを想定して書いた」という役で舞台『小さな夜とはてなしの薔薇』で共演した。
「その後も吉岡くんをドラマなどで見かけて、キリッとしていて目に狂気がある、いい役者だなと思っていました」
また『おしん』では、吉岡さんを高く評価した演出家・望月良雄さんとの出会いもあった。望月さんはのちに、1990年放送のNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』に吉岡さんを抜擢している。
「望月さんは熱い人で、演技指導で“祐一、おまえならもっとできるだろ!”と言ってくる。こっちもやるしかないじゃないですか。何をしていいのかわからないけど、何度もやってると、違う自分が出てくるんですよ。そうすると大きな声で“OK”って。そうやって、僕の力を引き出してくれる方でした」
父のがん発覚で訪れたクレープ店開業の転機
その後も役者とアルバイト、二足のわらじを履く生活は続く。所属事務所を辞めてフリーとなった35歳のとき、同じマリオンクレープで働いていた女性と結婚、子どもも2人できた。順風満帆と思われた役者業に陰りが見え始めたのは、バブルがはじけたあと、平成不況の時代に入ってからだ。
「強い事務所であったり、劇団の後ろ盾がある人は大丈夫でしたけど、役者個人でやっていくのがツラい時期で、食えない役者がどんどん増えていって。でもアルバイトをしながらなら、なんとか好きな芝居を続けていけたんです」
ところが1997年1月、思いも寄らないことが起こる。熊本の父親が倒れたという連絡が入ったのだ。
「膵臓がんでした。それで僕はマリオンから1か月半の有給をもらって熊本へ行って、ありとあらゆる手を尽くしました。でも、大腿部に転移したがんがどうしても取れなくて……。12時間の予定の手術が2時間で終わったので、ああ、ダメだったんだなと」
失意のうちに東京へ戻った吉岡さん。この先、熊本と東京を行き来する生活が続いて迷惑をかけるかもしれないうえ、長期休暇のこともあって居づらくなり、長年勤めたマリオンクレープを辞めてしまった。前出の演出家・望月さんから請われて、NHK連続テレビ小説『ひまわり』に出演したが、それだけでは食べていけない。役者は続けたい、でも……吉岡さんは悩んだ。
失業保険をもらおうとハローワークにも出かけたが、「“父がまたいつ倒れるかわからないので、すぐに定職につけるか、わからないんです”と相談したら、職員さんから“これは職業を探している人のための保険だから、嘘でもいいから仕事を探していると言ってください”と言われて。だけど、どうしても、その嘘が言えなくて……」
仕方なく家に帰ろうとすると、偶然通りがかった区役所で「中小企業基金による融資」の文字が目に飛び込んできた。
「受付で、どんな人が融資の対象なのか聞いたら“それ、僕です!”という内容で。父がいつ逝ってしまうかわからないから、自分で店を持ってやるしかないんです、クレープならうまく焼けるんです、と説明をして……。すると担当してくれた初老の男性が、“じゃあ、とにかく店をやれる場所を探しましょう”と言ってくれたんです」
店を開く場所も見つかり、無事融資を受けられることになった。店名の『クレープリー シェルズ・レイ』を考えたのは、吉岡さんの妻だ。
「おもてなしの意味でかけるハワイのレイみたいに、お店に来てくれたお客さんにレイをかけるというのっていいなぁと思って主人に言ったら、いいね、と言ってくれて」
吉岡さんが独立して店を出すことに、不安はなかったのだろうか?
「半分半分、ですね。子どもも2人いて、生活していかないといけない。役者だとそんなにもらえないし、この先、生活が厳しくなるだろうということもありましたから。主人もそうだったと思います」
その年の10月26日、渋谷スペイン坂に店をオープンすることが決まった。熊本に報告の電話をすると、父親の面倒を見てくれていたおばが「お父さんね、おめでとうって言ったよ」と伝えてくれた。しかしそのわずか2日後、父親はこの世を去った。
「28日の夜8時ごろに雨が降ってきて、漠然と“亡くなったな”と思ったら、姉から電話があって。翌日から店を閉めて、熊本へ帰りました。いちばん親父に苦労かけた僕だけが、立ち会えなかった。でも、親父のそばでひと晩中、ロウソクの火を絶やさない寝ずの番をやったら、心の重荷が少しだけ減りました」
重い気持ちを引きずったまま帰京した吉岡さんは「この先、店をやっていけるのか」と心配したという。しかし、それは杞憂だった。すぐに行列ができる人気店となった。
「仕事が終わると身体中に乳酸がたまって、両手両足が動かないほど疲れて。でも休んじゃいけないと、正月以外は店を開けて働きました。忙しい中で父親を亡くした悲しみは癒えていきましたが、今度は忙しすぎて、芝居からだんだん離れていってしまって」
侍に幕末の偉人、地上げ屋のヤクザから銀行員まで、ありとあらゆる役を演じてきた。だが、忙しさを理由に断るようになると、出演依頼は途切れがちになった。芝居を続けたいがために始めた店なのに、と吉岡さんは気を揉んだ。
「もう役者をやりたいという思いは頭の中から消さないといけないのかな、と。ただ、そんなときでも望月さんは“おまえは芝居なんだぞ”と言葉をかけてくれて、何かあると呼んでくれていたんです」
店は忙しくなる一方だった。1999年、望月さんが演出したNHK時代劇『加賀百万石〜母と子の戦国サバイバル』で戦国武将の増田長盛役が最後の出演となった。だが、「役者をやりたい」という気持ちは絶やさず、埋み火として心の中で静かに燃やし続けよう……、吉岡さんはそう誓った。
「俳優・吉岡祐一」の顔を取り戻した夜
クレープ店が軌道に乗ると、役者への思いは再び熱を帯びるようになる。しかしすでに芝居と疎遠だった吉岡さんは、学生時代から付き合いのある、役者の友人に相談をした。
「もう1度、芝居をやりたいと思うんだと言ったら、彼にすっごい怒られて。悔しかった。その晩は泣きながら帰りましたね。俺が何のために東京へ出てきたと思っているんだよ、と……」
努力して役者を続けてきた友人の言うことも一理ある。だが、芝居を続けていくために開いた店が、まさか“諦め”のように受け取られるとは……。悔し涙で、埋み火が消えそうになった。でも、完全に断念することはできなかった。
「いつでも役者に復帰できるよう、ジムで鍛えて、走って、体形だけは維持し続けました。火を消しちゃいかん、という思いだけでしたね」
吉岡さんの妻も、一緒にテレビドラマなどを見ていると「自分だったらこう演じたいな」と言っていたのを覚えている。また時々、夫がポツリと「こんなことやるために東京に出てきたんじゃないんだよな」とこぼしている姿を見て、「本当は演じたいんだろうな」と感じていたという。
渡辺えりさんは、吉岡さんの噂を聞きつけ店を訪ねたり、街で偶然会ったりして飲みに行くこともあったが、「吉岡くんと会うと演劇や芝居の話をしていたし、情熱の濃い人だから、ずっと役者をやっていると思っていた」と驚く。
あわただしく切り盛りしていたスペイン坂の店だったが2005年、突然立ち退かねばならなくなった。そこから下北沢、幡ヶ谷、栃木県の那須へと移転、沖縄料理店なども手がけたが、2011年には東日本大震災の影響で那須から撤退。吉岡さんに残ったのは、2014年に手作りした現在の店舗だけとなった。
さらに追い打ちをかけるように、いつも気にかけてくれていた演出家・望月さんの訃報が届く。吉岡さん自身、60代になった。残されている時間は多くはないんだという思いが強くなり、役者をやりたい、芝居をやりたいという埋み火は火勢を増しつつあった。
吉岡さんは勇気を出して電話をかけた。その相手は、俳優の伊藤榮子さんだった。伊藤さんは言う。
「演劇って、芝居がうまいことも大事だけど、うまくても嫌だなと思う人もいるし、うまくなくても好きと思える人もいますよね。それって、その人の生き方が画面に出てしまうからなんですよ。普段のその人の生の部分が出る。まじめに生きている祐ちゃんなら、機会があればきっといい演技ができる。
だから日々の生活を守りつつ、自分なりに勉強してくれたらいいなと。役者に必要なのは集中力。いかにその人物になるか、ということ。祐ちゃんには、そんなことくらいしかアドバイスできなかったけれど」
2019年、NHK連続テレビ小説100作放送を記念して『おしん』の再放送がBSで始まり、初めてドラマを見た人たちが「おもしろい!」とネット上で盛り上がりを見せていた。そんな年のある日、吉岡さんは店へ来た客から、「人違いでしたらすみません、『おしん』に出ていた吉岡祐一さんではありませんか?」と声をかけられた。店で役者と気づかれたのは人生初のこと。戸惑いを隠せなかった。
話を聞いてみると、『おしん』好きが集まるトークイベント『おしんナイト』への出演依頼だった。役者として人前に出るのは約20年ぶり。吉岡さんは出るかどうか悩み、伊藤さんに再び電話をかけた。すると伊藤さんは、「祐ちゃんに、という話をいただけたことがいいじゃない。自分に好意を持ってくれる人は大事にしないと。人前に出られる、数少ないチャンスなんだから!」と背中を押した。
イベント当日、緊張で身体が震え、怖くて「帰りたい」と何度も思った。だが、ふたを開けてみれば、その夜は久々の興奮を味わった。人前に出て、拍手をもらう喜びを思い出したのだ。
吉岡さんと一緒に『おしんナイト』に登壇した、脚本家でドラァグクイーンのエスムラルダさんは、こう述懐する。
「最初はかなり緊張されていたんだけど、お客さんが笑ったり、リアクションするたびにどんどん目が輝いていって……。最後は完全に役者の顔に戻っていましたね」
消えかかっていた埋み火に薪がくべられ、真っ赤な炎が上がった。
店もステージも、毎日、幕は開いている
2020年には伊藤榮子さんの紹介で所属事務所も決まり、役者としての窓口ができた。そんなとき、高校生が作る映画に参加しないか、と声がかかった。タイトルは『弾丸』。吉岡さんは冷徹な編集者役だった。
「台本の読み合わせが初対面だったんですが、もう役を整えられてきていて、俳優としてのオーラに高校生たちは圧倒されていました」
そう語るのは、脚本を書いた川口光透さん。
「相手が高校生でありながら真正面から真剣に向き合ってくださって、私は感動していました。スタッフや作品の意図について傾聴される姿勢や裏での気遣いなど、吉岡さんのような存在になりたいと思います」(川口さん)
大人に交じって演劇を志した吉岡さんが、65歳で再び演劇の世界に戻り、あのころと同じ世代の青年たちと一緒に演技をする……。『弾丸』は大切な作品となった。しかし完成した作品を見た吉岡さんは、「そこそこ頑張ったな、と思ったんですけど、いやいやいや、もうガチガチになっていました」と笑う。
そんな吉岡さんの復帰にエールを送るのが、『おしん』で八代圭を演じた俳優・大橋吾郎さんだ。10年ほど前から共通の知人の集まりで旧交を温めるようになった。大橋さんは、吉岡さんが芝居の情報を欲しがっているように感じ、会うたびに自分なりに得た情報を話してきたという。
「また役者をやりたいんだなと思ったんだけど、僕はそれを1回、スルーしたんです。そんなに甘い世界じゃないし、本気かどうかもわからなかったから。でも、本気とわかったからには止めるよりも応援したい。祐ちゃんは大丈夫。役者をやめてからの20年、クレープ屋さんをやってきて、彼にしかできない勉強をしてきた。それは僕らにはない経験。だから挑戦すればいい。そして一緒にやれたら、楽しめたらいいなと思うよ」(大橋さん)
吉岡さんは今年の4月21日で67歳になる。
「うちの店は都会に乗り出した一艘の帆船、小さなヨットだと思っているんです。今はガラクタを寄せ集めて作った筏みたいなもんですけど、いずれは6000トン級の安全性を持つようなものにして自立させたい。そして僕も役者として自立したい。
僕はもともとステージや舞台装置をみんなで作るのが好きだったんです。そう考えると、店もステージを作るのと同じ、毎日芝居の幕が開いているようなもの。だから僕としては、そんなにかけ離れたことをやっている感じはないんですよ」
店主と役者の二足のわらじを履く生活は今、再び始まったばかりだ。
〈取材・文/成田全〉
渡辺えりさんが作・演出を手がける音楽劇『私の恋人 beyond』が6/30から
7/10まで、東京・本多劇場で上演。チケットは4/1より先行予約開始