カテリーナさん

「とても忙しくて、朝から夜まで毎日仕事をしています。お仕事の依頼や、支援の方法の相談、ウクライナにいる人たちからなど、たくさん連絡があるのですべてに返事をするのも大変です。でも今は、気持ちは少し落ち着いています。少し前、お母さんが日本に到着するまでは、心配で2週間くらいほとんど眠れませんでしたから」

 こう語るのは、在日ウクライナ人で民族楽器「バンドゥーラ」奏者のカテリーナさん(36)だ。

多忙でも仕事を続ける理由は「使命感」

 ロシアがカテリーナさんの故郷であるウクライナを侵攻して、1か月ほどがたった。終結の出口は残念ながらまだ見えていない。現地の痛ましい現状が報道されるにつれ、あまりなじみのなかった東欧の国ウクライナは、日本国内でも急激に関心が高まった。

 カテリーナさんへの演奏やメディア出演の依頼は急増。また現在では、本来のアーティストとしての職だけでなく、ウクライナ語の同時翻訳者としても仕事が引きも切らない状態だ。

 3月21日には、ウクライナの首都キーウに暮らしていた母マリヤさん(68)が、ポーランド経由で日本に到着した。衰弱し、戦場下でのPTSD的な症状に悩まされていた母の体調も気がかりだ。回復しだい、難民申請の手続きが待っている。

「とても忙しいけれども、仕事は断りたくない。私の使命は、祖国の現状はもちろんのこと、そもそもウクライナという国はどんな国なのかということを発信し続けることですから」

 そんな彼女のこれまでをたどり、決意を聞いた。

 カテリーナさんは1986年、旧ソ連領であったウクライナ北部のプリピャチで生まれた。チェルノブイリ原発から約2.5キロの場所だ。

 生後まもなく、世界に衝撃を与えたあの原発事故が発生。一家は故郷を強制退去となり、キーウに建設された原発避難民用の団地に暮らすことになった。

「母はその団地にずっと暮らしていました。10年ほど前に父が亡くなってからはひとり暮らしになりました。私の姉たちはそれぞれの家族とともにまだウクライナに残っているのですが、彼女たちが暮らしているのはウクライナでも田舎のほうなので、今はまだ脱出は考えていないようです」(カテリーナさん、以下同)

 母のすすめもあり、6歳で民族音楽団に入団し、本格的にバンドゥーラを始める。演奏ツアーで10歳のときに初来日。その後ウクライナ国内の音楽専門学校で音楽理論などを学び、縁あって19歳のときに日本に移住した。

「子どものころは、友達と遊ぶ時間が欲しくてバンドゥーラの練習が嫌になったものでした。そのたびに母から『あなたは才能があるのだから、頑張りなさい』とたしなめられました。

 日本に移住を決めたのは、10歳のころツアーで訪れて、どこの国よりも親しみやすさを感じたからです。母に決意を伝えると『あなたが決めた道なのだから』と賛成してくれました。

 母がバンドゥーラを続けるように言ってくれて、日本へ来ることも応援してくれて本当によかった。そのおかげで今の私がいるし、今回は母を安全な日本に避難させることができたのですから」

 バンドゥーラ奏者として活動する傍ら、日本人男性と結婚。1男の母となった。

 すっかり日本になじんだものの、いつも残念だったのは、日本人があまりにも祖国・ウクライナについて知らなすぎるということ。

「『え?どこ?』『ロシアの地方なの?』などと言われてしまう。ヨーロッパのほぼ中心にあって、歴史も古く、広くて資源も豊かな国なのに。バンドゥーラの演奏を聴いてもらうのも大切だけど、日本の人たちにウクライナをもっと知ってもらおうと心に決めました」

 カテリーナさんの決意は、このような現状になった今、みなが求めるものとなった。

11時間も車内で立ち続けて

 ロシアとウクライナに緊張の糸が張りつめ始め、同時翻訳の仕事が増えてきた。その関係もあり、早めに不穏な空気を感じ取っていたカテリーナさんは、姉たちにも相談し、キーウでひとり暮らしをするマリヤさんを日本へ呼び寄せることを考える。

「でも母は、『そこまで大事にはならないと思うし、家から出たくない』とまったく乗り気ではありませんでした」

 しかし、カテリーナさんの悪い予感は当たった。

「戦争が始まってしまいました。それからは毎日、いや数時間おきに、飛行機や爆撃の音におびえる母から連絡が来るようになりました。母の住む場所から車で10分ほどのところにあるマンションがロシア軍の標的となり、周囲の車が爆撃されたと聞いたときには、絶望を感じました」

 母をなんとしてでも守りたいと思ったカテリーナさんは、実家の近くに住む旧友の男性に、母を祖国から脱出させるための手助けを頼んだ。

「彼は男性だから戦うためにキーウに残っていますが、奥さんと子どもたちをすでにポーランドへ行かせていたので、脱出のルートを知っていたのです。彼にお願いして、最後まで乗り気ではなかった母を列車に乗せてもらいました」

子どものころの家族写真。父に抱かれているのがカテリーナさん

 ポーランドへの道のりは険しかった。満員状態のため、飲食はおろか座ることができない状態で、到着まで11時間以上かかったという。そのうえ、到着した駅から避難所まで5時間歩くことに。高齢女性には過酷すぎる行程だ。

「避難所も狭く、食べ物もあまりなくてとても心細かったそうです。母は来日歴があったのでパスポートを持っていたから国外へ行くという選択肢がありましたが、多くの人たちはそういった避難所で今後どうするかを不安に思いながら過ごしているのです」

 なんとかポーランドの空港までたどり着いたマリヤさんは、日本から迎えにやってきたカテリーナさんの夫と落ち合うことができ、共に日本へ渡った。

 来日した際は衰弱しきっていたマリヤさんだったが、現在はかなり落ち着いてきたという。

「この前、私の息子の小学校の卒業式に参加して、とても感激していました。桜が好きなので、お花見も楽しみましたね」

ウクライナを伝え続けたい

 マリヤさんの難民申請が受理され、落ち着いたら、一緒にウクライナを伝える活動をしていきたいと語る。

「母と一緒に、ウクライナに親しみを持ってもらうためのイベントをしていきたいです。母は歌もお料理も得意なので。そうやって、ウクライナのことを、日本はもちろん、世界のたくさんの人たちの心に刻みたいのです。

 本当なら、私もウクライナに戻ってみんなと一緒に戦いたい。私が通っていた音楽学校があった周辺は、爆撃で大きなダメージを受けてしまいました。私が使用しているバンドゥーラの製作工房も、連絡がとれないので無事かどうかわかりません。

 でも気づいたのですけど、私がこうやって、ウクライナという存在をみんなに知ってもらって、支持してくれる人を増やすことが、ロシアへの大きな反撃にもなるんですよね。だから私は国外から、ウクライナについて発信し続けたいのです」

 ロシア・プーチン大統領の独裁によって、苦しんでいるのはウクライナの人たちだけではない。いわれなき誹謗中傷に悩まされている在日ロシアの人々もいる。

 日本・ロシア協会の常任理事であり、外国人が多く所属する芸能事務所・稲川素子事務所の稲川素子社長(88)はこう話す。

稲川素子社長

「私はロシア人にもウクライナ人にも知り合いがいますから、今回の戦争には本当に心を痛めています。私が長年面倒を見ているロシア人は、家の前にゴミをまかれ、ポストに『ロシアへ帰れ』と書かれた紙を入れられたそうです。ほかにも、道で『ロシア人のバカ野郎』という言葉を投げかけられたという人もいます。

 また、ウクライナの激戦地帯であるマリウポリには、もともとウクライナ人だけでなくロシア人も多く住んでいて、双方たくさんの戦死者が出ていると聞きます。50年以上国際交流に尽力してきた身として、とても悲しいです」

「知る」「関心を持つ」ということが、平和への第一歩だということを、決して忘れてはならない。

PROFILE●カテリーナ●1986年3月28日、旧ソ連(現ウクライナ)のプリピャチ生まれ。生後1か月のときにチェルノブイリ原発事故が発生し、一家で首都キーウへ避難。6歳のときにウクライナの民族楽器バンドゥーラを始める。海外公演で訪れた際に気に入った日本へ19歳のときに移住。1男の母でもある。

(取材・文/木原みぎわ)