「4月10日、上皇ご夫妻は63回目の結婚記念日をお迎えになりました。平成から令和へのお代替わりに伴って“仮住まい”されていた港区高輪の『仙洞仮御所』で記念日を祝われるのは3度目にして最後。来たる4月26日には、赤坂御用地内の『仙洞御所』へ引っ越される見通しです」(皇室担当記者)
上皇ご夫妻が仮御所に移られたのは'20年3月。コロナ禍の影響もあり、仮住まい期間は2年以上に及んだ。
「もうあのお友達と会うこともないのね」
「昨年の9月まで天皇ご一家が住まわれた旧赤坂御所を、上皇ご夫妻がお住まいになるために、エレベーターが設置されるなどのバリアフリー化が施されました」(同・前)
荷物の運搬といった引っ越し作業が行われる約2週間、上皇ご夫妻は神奈川県にある葉山御用邸に滞在される。
「皇室の方々は例年、夏に御用邸などで静養されますが、感染拡大防止の観点からこの2年間は見合わせていました。“おこもり生活”を続けてこられた上皇ご夫妻が葉山でお過ごしになるのも久しぶりです。都会の喧騒を離れ、よい気分転換となるのではないでしょうか」(宮内庁関係者)
仮御所の環境は、平成時代にお暮らしになっていた皇居とは大きく異なった。
「隣接するマンションからお住まいが見えてしまうため、ご入居前から心配の声が上がっていました。ですが美智子さまは、結果的にその環境を楽しんでおられたようです。日課であるお庭のご散策中にマンションの住人と手を振り合い、挨拶を交わされることも。そうした交流に感謝しておられました」(同・前)
美智子さまはこれまでにも近隣住民との関わりを大切にしてこられた。
絵本を通じて美智子さまと親しくなった、絵本編集者の末盛千枝子さんの著書『根っこと翼 皇后美智子さまという存在の輝き』(新潮社)には、こう綴られている。
《平成になり赤坂御所から皇居に移られた時にも、きっとたくさんのことを思われたのではないだろうか。(中略)ガソリンスタンドのお兄さんのことをまるでお友達のことを話すように心を込めて話しておられたのが忘れられない。もうあのお友達たちとも会うことはないのね、と》
上皇ご夫妻にとって赤坂御用地は、ご成婚翌年の'63年から'90年まで住まわれた思い出の場所だ。
「数年間に及ぶ引っ越し作業は、とても大変でお忙しい日々を過ごされていたとお見受けします。赤坂へ戻られるのは、もちろん楽しみだと思いますが、何よりもほっとしていらっしゃるのではないでしょうか」
そう話すのは、先に紹介した本の著者である末盛さん。20年以上にわたり美智子さまと交流を続け、引っ越しを控えた3月下旬には電話でお話しする機会もあった。
上皇陛下に桃を献上することに
「私が代表を務めていた『3・11 絵本プロジェクトいわて』の報告書をお送りしたところ、女官から“上皇后さまがお電話したいそうです”と、連絡がありました。ただ、アポイントメントは何度か延期に。几帳面で完璧な美智子さまですから“すみずみまで報告書を読んでから感想を伝えたい”という思いがおありだったのでしょう」(末盛さん、以下同)
電話越しの美智子さまの声はお元気だったという。
「報告書には、美智子さまが絵本を寄贈してくださったことについても記載していました。それをご覧になっていたようで、“仲間に入れてくれて本当にありがとう”と言ってくださいました」
電話では、引っ越しの話題にも触れられた。
「ご年齢のこともあり、体力の衰えをお感じになることもあるそうですが、“陛下を無事に赤坂へお連れすることが、今の私の務め”と、繰り返しおっしゃっていました。
“陛下のおそばにいるために皇室へ入った”というご成婚当時のご覚悟を、今も変わらずお持ちだと思うと、感動いたしました」
人生の節目に感謝と覚悟を示されていた美智子さま。そのいつくしみの心が忘れられないと語る人物がいる。3月下旬にフランスで行われたフィギュアスケートの世界選手権で見事優勝を飾った宇野昌磨選手の祖父・宇野藤雄さん(95)だ。
「皇太子妃時代の美智子さまから、直接お礼を言っていただいたことがあるんだよ」
愛知県犬山市に在住し、現役の画家である宇野さんは、『週刊女性』にそう明かす。
「僕が懇意にしていた知り合いが、上皇陛下のご学友でね。東京で暮らすその方に、地元で採れた桃を送っていたら、“こんなにおいしいのは食べたことがないから、陛下に献上したい”と頼まれたんだ」(宇野さん、以下同)
上皇さまが即位されるまでの約20年間、知り合いを通じて桃を献上し続けた。つまり、'60年代から'80年代にかけて、間接的に交流を持っていたということになる。
「どうやっておいしいものをお届けするか、ひたすら考えた。肥料や土壌、天候や収穫時期……、すべての条件が整った桃を桃の木をまるごと買って、完熟したタイミングで送るようにしてね。
上皇ご夫妻だけではなく、お子さま方も召し上がっていたようで、知り合いを通じてお礼状をいただいたことも。上皇陛下は“どうして、こんなにおいしいの”とおっしゃっていたと聞きました」
ウインタースポーツは皇室とも縁が深い
上皇ご夫妻が公務で愛知県を訪問されたこともあった。
「そのとき、当時の市長に“宇野さんにお礼したい”と面会を希望してくださったそうでね。市長から僕の自宅に電話があったけれど、たまたま不在で、残念ながらお目にかかれなかった……」
そんな宇野さんに、再びチャンスが訪れたのは、'79年11月。美智子さまと当時10歳の黒田清子さんが、母娘ふたりで犬山市を訪問された。
「美智子さまは、そのときも市長に“宇野さんにお会いしたい”と伝えてくださった。僕も“今度こそは”と思って、おふたりがいらっしゃる犬山城の前でお待ちしていたので、ついに面会が実現。直接お話しできたことは今でも記憶に残っています」
当時は豊かな交流があったものの、平成以降はつながりが途絶えてしまった。しかし、
「美智子さまは新聞や週刊誌をよくお読みになると聞きますし、メディアの取材にも応じている宇野さんと孫の宇野昌磨選手の関係をご存じなのではないでしょうか」(皇室ジャーナリスト)
ウインタースポーツは、皇室の方々にとっても深くなじみがある。
「陛下や愛子さま、佳子さまがスケートを習われていたのは有名な話です。上皇ご夫妻も札幌冬季五輪の前年にあたる'71年には、プレ大会の会場のスケートリンクで手を取り合って滑られていました。華々しく活躍する宇野選手の姿をご覧になって、皇太子妃時代に築いた宇野さんとの交流を懐かしんでおられたかもしれませんね」(同・前)
“天下無敵”という花言葉を持つ桃が、美智子さまと世界王者との縁を生み出した─。