教育テレビのはずなのに、なんだか不思議な内容で、忘れられない番組のひとつに挙げられるのが、『できるかな』。番組名を見聞きすれば、ノッポさんとゴン太くんの微笑ましいやりとりがよみがえってくるのでは。そんなノッポさん、実はとっても“おしゃべり”だった!? 87歳になられた今、あの当時を振り返りつつ、“小さい人”たちへの思いも語っていただきました。
新学期を迎える4月には、テレビも新番組体制になるもの。将来ある人たちが新たな気持ちで見る番組といえば、NHK教育テレビ(Eテレ)の番組もその1つだろう。
そんなNHK教育テレビで忘れられないのが、1970年にスタートし、20年間放送された長寿番組『できるかな』の顔、“ノッポさん”こと高見のっぽさんだ。謎めいた雰囲気で子どもたちの心をつかんで離さなかったノッポさんは今、どうしているのか。
「ノッポさん」誕生までの“暗黒時代”から、現在の暮らしに至るまで、たっぷり3時間以上! 週刊女性にこれまでの人生と、近況を語ってくれた。
私たちはみんな、ノッポさんと一緒に育った“小さい人”だったーー。
華々しいデビューも、いきなり失職
映画村として有名な京都・太秦の役者長屋で、6人兄弟の4番目として生まれた高見さん。父親の高見嘉一さんは奇術師や芸人のみならず、照明などの裏方までこなす生粋のエンタメ業界人だった。だが、高見さんは父の仕事には興味を示さず、本好きな少年として10代を過ごした。
「小さいころはもの書きになりたいなんて思ったこともあったんですが、本を読んでいるうちに文豪たちの変人ぶりに気づいてしまって。こりゃあ俺には無理だと諦めて。いろんな職業を考えたけれど、あれもだめこれもだめ、結局芸人に否応なく引きずり込まれちゃった(笑)。
芸事に関していえばですね、こんなことを自分で言うのははばかられるけれども、ずいぶんと素質が……あったんですよ(小声で)。でも、気取り屋さんのくせに弱虫なところもあったりして、本来の性格は芸人に似つかわしくなかった」(高見さん、以下同)
高校卒業後、芸人として活躍する父親のかばん持ちをする傍ら、稽古に励む日々。声楽やバレエなど、いろいろな稽古を積んだけれどもどれもしっくりこなかった。
「でも、タップダンスの神様、フレッド・アステアが大好きだったのもあってね、これはまあまあ続きました。いい先生が京都にいるって聞いたから、その先生のところに布団だけを先に送りつけて、住み込みとして転がり込んじゃった(笑)。でもね、稽古で習う基本のリズムって……面白くないんですよ。見かねた先生が、私にだけ、レコードに合わせて踊るという特訓をしてくれて、はまりましたね」
タップダンスを武器に、高見青年は東京へ。父親の芸のサポート役から、歌とダンスを見せる芸人として本格キャリアをスタートさせた高見さん。初めての仕事はキャバレーの営業だった。まもなく日劇ミュージックホールに出演。新聞記事でも取り上げられ一気にスポットライトが当たるという華々しいスタートを切った。ギャラもとんとん拍子に上がったそう。
「キャバレーの楽屋へ帰ってきたら、出番を待っているお姉さんが『月世界の芸人みたい』と褒めてくれたりね。ある時は歌舞伎役者の八代目松本幸四郎さん(のちの初代・松本白鸚)がね、お弟子さんたちに僕のことを『あの方はすぐにひとり舞台をやるような人になります。その姿を目に焼きつけてきなさい』と言ってくださったりしたそうなんですよ。見事にのぼせちゃって。でも、その予想は見事に外れてしまいました。日劇の舞台の3度目はなく、そこから4年間、ほぼ失職状態になったんです」
NHKとの運命の出会い
血気盛んな20代には、“ひま”な時間は重すぎるもの。たびたび死を考えるほどだったという。
「スタートは華やかでしたが、すぐ自分が普通の男の子だってことを思い知らされたんです。親父は僕をずいぶん買いかぶっていましたから、自分が出演する舞台で僕を使うのは『あなたみたいなひとりでちゃんと演れる人を、こんなつまらないことに使ったらもったいないから』と手伝わせてもくれなくなって。鬱々とした日々が続きました」
25歳、心機一転して東宝ミュージカルスの研究生になるも、大部屋俳優に慣れてはいかんとほどなく脱退を決めた。そんな折、運命の出会いがついに訪れる。
「NHKの『不思議なパック』という番組の、最終回のバックダンサーとして呼ばれましてね。テレビスタジオは初めてだったんですが、われながらうまく踊れたんですよ。帰ろうとしていたら、プロデューサーから声がかかったんです」
その誘いとは、NHKで新しく始まる音楽番組の司会。しかも出演するのは超一流の歌手ばかりという大抜擢! そのときに芸名を「高見映(えい)」として、新番組『音楽特急列車』がスタート。羽根飾りをつけたダンサーを従え、シルクハットをかぶった高見さんがステップを踏む。すでに大物の風格を漂わせていた。
「第1回の放送は、相当うまくやれたんですよ。なのに、プロデューサーにNHKの上層部から電話がかかってきたんです。あれは単なるレビューショーで“局辱”だと……。プロデューサーはクビになり、番組自体も半年ほどで打ち切りになりました」
しかし、番組終了後も、NHKとのつながりは続いた。番組の構成や振り付けをしたり、作詞家として1行300円で詞を書いたり、ダンサーとしていろんな番組に呼ばれたり……。気づけば32歳。2つの出演依頼が高見さんの元へやってきた。
「ひとつは新しい音楽番組でリズムものをやりたいと。女性のダンサーとコンビでした。もうひとつは『造形番組』で、出る人物は私ひとり。好きなことがやれそうと、迷わず後者を選んだ私に、周囲は不思議そうな顔をしていましたね」
そうして始まったのが『できるかな』の前身となる『なにしてあそぼう』。主役の“ノッポさん”がしゃべらない演出は当時斬新で、回を追うごとに人気は高まっていったという。4年続いた同番組の後に、いよいよ運命の『できるかな』がスタート……したのだが、最初の1年間、ノッポさんは出演していなかった。
「最初は違う人たちが出ていたんですよ。正直悔しかったですが、1年後に呼び出されましてね。どうやら大切な視聴陣である幼稚園や保育所の先生たちが『“なにしてあそぼう”のノッポさんじゃなきゃ子どもたちが見ないんです』とたくさん意見を送ってくれたようで、私が出演することになったんです」
実は「超不器用」だったノッポさん
そこからはご存じのとおり、『できるかな』はNHKのご長寿番組として実に20年間、“小さい人”たちに愛され続けることになったのだった。
ノッポさんがゴン太くんに小さな工作を見せていき、最終的には画面狭しと大暴れ……というのが『できるかな』の基本的な流れだったものだが、意外や意外、高見さんは超がつくほどの不器用で、セロハンテープもまともに扱えなかったのだという。
「なんでも長くやっていると、たるんでくるものでしょう。でも、僕は不器用だったから、何年たっても毎回真剣に作業をしていたんです。だから、完成したときに本物のニッコニコの笑顔が出る。カメラの前で、本当に幸せになれたんです。だから自分のぶきっちょなところが、番組が続いた大きな理由だと……いつも人には演説して聞かせているんですよ(笑)。あんまり私が上手にできないものだから、裏方さんにはずいぶん手間をかけさせてしまったと思います」
たとえひと言もしゃべらなくても、真剣に取り組む姿、そしてにじみ出てくる圧倒的な人間らしさが、小さかった私たちのハートをつかんだのだろう。
高見さんは子どものことを“小さい人”と呼ぶ。仕事に対しての姿勢と同じく「真剣に向き合う」、というのは、小さい人に対する高見さんの基本姿勢だ。それは小さいころの自分のことをよく覚えているからだという。
「私はずば抜けて悪い子でした。そして、賢い子でした。5歳を頂点にして落ちていったんですが(笑)。小さい人を見たときに、同じころの私がいかに自分が賢くて鋭い子だったかということを覚えているから、小さい人とも仲よくなれるんです」
小さい人を、大人より劣るものと考えないで、対等な目線で向き合うこと。それは、ほとんどの人が大人になると忘れてしまうことだ。
「毎日のように家に遊びにくる小さい人がいたのですが、その日は私も書き物で忙しく『本日はとてもやることがありまして、今日のところは我慢をして帰ってください』とお願いをしたんです。でも、次に私に時間があるときに遊びに来れば元どおり。お互いにちゃんと挨拶をする、謝ることができる。そんな私と彼の間には“悲劇”がないんですよ。悲劇をなくしていけば、幸せになれるんです」
87歳になったノッポさんは今
『できるかな』終了後は、芸名を現在の「高見のっぽ」に改名。絵本・児童文学作家として活動する傍ら、『グラスホッパー物語』(NHKみんなの歌)などにも出演、紅白歌合戦にも登場するなどの活躍をしてきた高見さん。87歳となる現在は、自分が気に入った仕事を受けつつ、毎日「のっぽさんチーム」と呼ばれる老若男女たちに慕われるにぎやかな日々を送っている。
「お仕事の関係者はもちろん、最近のことを教えてくれる人、食事を作りに来てくれる人、子育ての相談に来る人、ただただ高見さんに可愛がられたい人まで、いろんな人が訪れています」(マネージャーの古家さん)
「おそばをごちそうしてほしいだけな人もいるかな。なんでこんなジジイがみんなの面倒を見なくちゃいけないんだよなあ(笑)」(のっぽさん)
小さい人だった筆者の目には、昔と同じようにおちゃめでお元気そのものな高見さんだが、年齢的な衰えを感じることもあるという。
「昨年までに2冊本を書いたら、体重が5キロ減っちゃってね。そのあと足を折っちゃって入院をしたの。病院の食事が美味しくなくて(笑)、64・5キロあった体重が退院したら50キロになっちゃいました。それで身体も弱っちゃったから、今は少しずつ身体を動かすようにしています。前みたいに元気だったらね、華麗なステップを踏んでお見せしたいところなんですが、あんまりできなくなっちゃって……今はそれがちょっと悲しいかな」
とは言いながらも、お話を続けるうちに取材陣の前で歌いながら昔日のステップまで踏んでくれたのっぽさん。いくつになっても人を楽しませることを第一に考えている、一流のエンターテイナーに小さい人のときに出会えていた私たちは、幸せだったと思う。
今だから話せる『できるかな』裏話
今だから話せる!ノッポさん『できるかな』びっくり事件簿
●大流血!
工作の制作中、カッターナイフで指を切ってしまい、血を流したまま完成させたことが
●不器用すぎて……
放送を見ていた高見さんの父親が「正しいちょう結びを教えてあげましょう」と電話をかけてきた
●意外なところからクレームが……
ゴン太くんと遊ぶゲームは、いつでも本気で勝負して、ノッポさんは手加減せずに勝ち続けた。ゴン太くんの中の人の奥さまが「たまには勝たせてあげて〜」と悲痛な叫びを上げるほどだったそう
●ナレーションで危機一髪
紙コップでたくさんのタコを作ったノッポさん。代表のタコに挨拶をさせようとしたら、そのタコの口の部分のテープが剥がれてしまった。でも、ナレーションの故・つかせのりこさんが「おクチがトヘちゃった! ボクはタホのタホ八でーフ」とナイスアシスト!
取材・文/高松孟晋