17歳の誕生日。炉端焼きを囲んだ場で、ケーキではなく鯛の活き造りで祝った('76年1月) 撮影/週刊女性写真班

 山口百恵さん(63)が、往年の大女優・原節子さんの存在に近づいてきた。いや、もう追いつき、追い越しているかもしれない。実力や実績などの比較ではない。伝説の人としての大きさである。

“伝説の人”と言われる所以

 1935年に女優デビューした原さんは小津安二郎監督の映画3部作『晩春』『麦秋』『東京物語』に出演したことにより、確固たる人気と評価を得たが、42歳だった1962年に何のコメントも出さぬまま引退。以降、表舞台から去り、伝説の人になった。

 原さんが2015年に95歳で他界すると、新聞各紙は1面で報じ、テレビ各局のニュースもトップで報じた。引退から53年も過ぎていたことを考えると、超破格の扱いだった。

 なにしろ、訃報を伝えた記者の大半は原さんの引退後に生まれたのであり、原さんの現役時代を知る人も70代以上に限られていたのだから。伝説の大きさを物語っていた。

95歳で亡くなった原節子

 一方、21歳だった1980年に引退した百恵さんも原さんに匹敵する存在と言っていい。引退から約42年が過ぎたものの、昨年から今年4月1日までの1年間に朝日、読売、毎日、産経の4紙は計82件も百恵さんに関する記事を掲載した。半面、引退した年に産声をあげた記者であっても42歳か41歳。記者の多くはその活躍を目にしていないのだ。

 記事を読む側も同じ。人口約1億2500万人のうち、百恵さんの現役時代を知らない45歳以下の人は5000万人を超えている。それでも百恵さんの知名度や人気、存在感は衰えを知らない。百恵さんの動向が報じられるたび、大きな話題になる。記者も読者も伝説を追い続けている。

 興味深い調査結果がある。日本生命が昨年、約1万7000人を対象に「母親になってほしい著名人は誰ですか?」というアンケートを行ったところ、百恵さんは4位だった。

 1位は吉永小百合(77)、2位は天海祐希(54)、3位は草笛光子(88)、5位は石田ゆり子(52)だった。みんな現役組である。ベスト10まで見ても引退しているのは百恵さんのみ。ドラマや映画などで頻繁に顔を見る多くの女性芸能人より百恵さんのほうが慕われているのだ。

 百恵さん本人がどう考えようが、伝説の人は強い。人々の記憶の中では姿を消した人気絶頂時のままだからである。輝いている。現役組にとっては同じ土俵で戦える相手ではないので、対抗するのが難しい。

1977年に撮影された山口百恵

引退後は一切表に出ない

 よく知られている「理想の有名人夫婦」(明治安田生命調べ)アンケートでは夫の三浦友和(70)と共に2020年まで15年連続でトップ。V15を機に殿堂入りし、ランキングの対象外となったものの、そうでなかったら、ずっとトップを続けたのではないか。

「母親になってほしい著名人」と「理想の有名人夫婦」に選ばれる理由に限ると、引退後のことも影響しているはずだ。

 1989年4月、このほど女児の父親になった長男・三浦祐太朗(37)の幼稚園入園式で、一家3人がカメラマンにもみくちゃにされると、百恵さんは必死の形相で祐太朗を守り続けた。

 その頑ななまでの対応を批判する取材者も一部にいた。だが、世論は我を忘れて子どもを守る百恵さんを圧倒的に支持した。伝説化は加速した。

結婚披露宴で、高さ約7メートルのケーキへ入刀。披露宴は約1800人が出席した('80年11月19日)撮影/週刊女性写真班

 祐太朗に子どもができたので、ワイドショーは百恵さんを取材しようとしており、実現の可能性もあると一部週刊誌が伝えている。もっとも、現実的には可能性ゼロだ。自分の子どもが生まれたときや恩人の死のときすらコメントしていないのだから。

 昨年7月、歌手としての育ての親である元CBS・ソニープロデューサーの酒井政利さんが亡くなったときも沈黙を守った。引退したからには一切表に出ないのが百恵さんの流儀なのだろう。

 原さんも一緒だった。取材を申し入れられるたび、「そっとしておいてほしい」「これが私の選んだ生き方です」などと言い、ノーコメントを通した。小津監督と共に恩人である黒澤明監督、成瀬巳喜男監督の死去の際にもコメントしていない。

 なぜ2人の存在は色褪せないのか。無論、実力も実績も十二分にあったことが前提にあるが、日本人が潔さに強く惹かれるのも理由に違いない。桜が好まれる一因もパッと咲き、瞬く間に散ってしまうから。芸能人も人気絶頂期に姿を消すと、代えがたい美しさを感じるのだろう。

きっかけは「家族のために」

 世代もタイプも違う原さんと百恵さんだが、共通点もある。原さんは2男5女の末っ子として生まれ、家庭の経済的な事情で女学校を中退し、映画界入りした。原さんは現役女優時代、周囲に「望んで女優になったわけではない」と語っていた。

 一方、百恵さんは1972年、13歳でオーディション番組の日本テレビ『スター誕生!』に出場し、翌1973年にデビューした。女手1つで自分と妹を育てていた母・正子さん(1989年死去、享年60歳)に楽をさせてあげたいというのが動機だった。

 原さんのデビューは15歳。百恵さんは14歳だった。昭和、平成、令和と時代が変わろうが、家族のために働こうとする10代を笑う人間はいない。応援したくなる。その後、見事に目的を果たし、引退したことも伝説化に拍車を掛けた。

 芸能界との決別を自分で決めたところも2人は一緒。原さんの引退は小津監督の死去と同時期であることから、その関連性を指摘する説も生まれたが、親族も映画関係者も口々に否定した。

 原さんの評伝の決定版と名高い『原節子の真実』を書いたノンフィクション作家の石井妙子さんも「女性が自分で下した大きな決断を、異性の影響だとして見ようとする傾向は、なんとも浅はかであるし、原節子に対して失礼」(2017年9月10日付産経新聞)と断じている。

 百恵さんも友和から引退を促されたわけではない。結婚を前に「芸能界を辞める」と言った百恵さんに対し、友和は考えた末に「よし、わかった」と答えた(三浦友和著『相性』)。

 自分の努力で登り詰めた頂点の座から、自ら降りたことも人々を引き付け続けるのだろう。

 原さんの伝説は本人の意向に関わりなく、引退から時が過ぎるほど大きくなっていった。本人の実像が見えないほど伝説は膨らむ。百恵さんの伝説が同じ道を辿るのは間違いない。

高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)
1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立