'92年4月25日。あまりに突然なその訃報は、日本中に衝撃を与えた。
「遡(さかのぼ)ること30年、歌手の尾崎豊さんが26歳の若さでこの世を去りました。死因は肺に水がたまってしまう肺(はい)水腫(すいしゅ)で、司法解剖では覚醒剤の服用が判明。夢や愛、生きる意味を表現した彼の歌は10代を中心に絶大な支持を集め、追悼式には4万人にも及ぶ参列者が押し寄せました」(スポーツ紙記者)
“伝説のアーティスト”として今なお愛され続けている尾崎。'83年12月、アルバム『十七歳の地図』、シングル『15の夜』でデビューした彼のバックバンドでリードギターを務めた江口正祥(まさよし)は、その出会いをこう振り返る。
「もともとバックバンドのメンバーは『APRIL BAND』という名前で活動していたんですけど、その解散ライブに尾崎と、彼の事務所の福田信社長が来ていたそうなんです。うちのキーボードをやっていた井上敦夫が福田社長と繋がりがあって、そんな流れから“やってみないか”とバックバンドに誘われました。本人と初めて会話をしたのは、デビューライブに向けたリハーサルのとき。ふつうの青年だったけど、若さからくる“やってやるぜ”という気迫はみなぎってましたね」
尾崎が音楽の世界に飛び込んだばかりのころには、こんなエピソードも。
「感覚は鋭いものを持っていたけど、音楽の知識に関しては、当時はまだ素人だった。“江口さん、壁が壊れるようなギターを弾いてほしい”と、求める音を彼なりの表現で伝えてきました。ただ、あまりにも抽象的だったので、とりあえず音を歪ませた激しい感じでいろいろ弾いて聞かせると“ちょっと違う”と。そこで最後に、一番単純で基本的な8ビートを弾いてみたんです。そしたら“江口さん、それです!”って。“これは8ビートっていうんだよ”と教えたのを覚えています」
駆け出しの時代を物語る逸話だが、ミュージシャン・尾崎の成長は早かった。
「音楽の知識を飲み込むのは、とにかく早かった。表には出さないけれど、陰では一生懸命、音楽の理論を勉強していたんじゃないかな。リハを進めたり次のツアーになったりすると、音楽的なことが飛躍的に分かるようになってるんですよ。例えるなら、英語が分からなかった人が陰で勉強を重ねて、次会ったときには少し片言で喋れるようになり、その次には完璧に話せるようになっているような感じ」
このころからすでに大器の片鱗を見せていたが、一方で少年らしい一面を見せることも。
「まだ高校を卒業するくらいの年齢だったから“音楽の世界に飛び込んだのはいいけれど……”という不安はあったと思います。彼のお兄さんが僕と同い年ということもあって、いちばん最初のリハのときに“江口さん、お兄ちゃんって呼んでいいかい?”と言われたのを覚えていますね。仕事という感じではない、家族のような心の拠りどころが欲しかったのかな」
若さからあどけない姿も見せていた尾崎だが、その勢いはすさまじかった。リハーサルを重ねて迎えた'84年3月、新宿ルイードでデビューライブを行うと、2か月後の5月には初の全国ツアーを開催。ハイエース2台で日本を駆け巡った。
「あのころのハイエースは椅子も直角だし、後ろの荷室はほとんど楽器だった。眠いやつは、楽器の上の数センチの隙間によじ登って寝てました(笑)。尾崎もスタッフも含め、運転はみんなで持ち回りで乗ってましたから、そういう意味では絆は深まりましたね」
江口も「若かったからできた」と振り返る、思い出のツアー。同年8月4日には日比谷野外音楽堂で行われたイベント『アトミック・カフェ』に出演したが、そのステージで、後に“伝説”として語り継がれる事件が起こる。尾崎が、7メートルもの高さの照明台から飛び降りたのだ。
目がイッちゃってたんです
「ツアーではイントレ(足場)によく登っていました。僕のギターソロの間に登って、わざと落ちそうなふりをする。その後、目で合図をしつつ、降りるタイミングを計りながら歌に戻る……という演出だったんです。ただ、あの日は目を見たときに“あ、これはヤバいな”と。目がイッちゃってたんです(笑)。いつもと違う目だと思ったときには、落ちてましたね」
鈍い音とともに、尾崎は苦悶(くもん)の表情に。駆けつけたスタッフに抱えられ、ステージ裏へと消えていった。そんな状況でも演奏は続けられ、観客が心配そうに見守る中、尾崎はスタッフに抱えられながら再登場。後に病院で左足の骨折が判明するが、激痛が走る中、最後はステージに這(は)いつくばりながらも予定されていた楽曲を見事歌い上げた。
「痛いなんてレベルじゃなかったはず。そのときに僕らは彼から、音楽にはどんな激痛やアクシデントをも超えるようなパワーがあることを教わりました。脚から落ちてくれて本当によかったです。下はコンクリートでしたから、頭から落ちていたら即死ですよ」
この“伝説のダイブ”の骨折によりその後のスケジュールは白紙となってしまったが、“不在期間”にも人気はさらに過熱。翌年1月に『卒業』を発売し、3月にはアルバム『回帰線』がオリコンチャート初登場1位に。そして迎えた'85年8月、初の単独野外スタジアムライブとなった大阪球場での公演では、2万6000人を動員した。デビューからわずか1年8か月で臨んだ一大ライブ。尾崎にプレッシャーはなかったのか。
「当然、緊張はしていたと思います。でも“俺、こんなところでライブできるんだ”という喜びの気持ちのほうが大きかったんじゃないかな」
大規模イベントを成功させ、そのまま波に乗るかと思われた尾崎だが、翌'86年1月のライブで無期限活動停止を発表。6月からは半年の間、単身ニューヨークに渡った。帰国後の'87年には活動を再開したが、同年9月、新潟でのライブ直前に彼は倒れ、病院に運ばれることとなった。人知れず苦悩を抱えていた尾崎は、限界を迎えていた。
「売れてくると、周りは“もっと売れてほしい”とか期待をするけど、本人にとっては最大のプレッシャー。それだけ“売れる”というのは大変なことだし、伴う重圧もすさまじいんだなと」
そして同年12月、尾崎は覚醒剤取締法違反で逮捕される。江口たちは、彼のステージから離れることとなった。
約1年後、尾崎は東京ドームで復活の舞台に上がることとなるが、江口はこのライブに参加しなかった。
「尾崎から“復活するから、お願いします”って電話をもらったんですが、すでに別のアーティストのツアーに同行することが決まっていて。残念ながら、お断りすることになってしまったんです。もちろん一緒にやりたかったけど、東京ドームで彼についたのは一流のミュージシャンの方ばかり。尾崎がそんな人たちとライブをするのはとても嬉しかったし“よし、僕も頑張ろう”と清々しい気持ちになったのを覚えています。そうすれば、どこかで再び一緒にやれるんじゃないかと思って」
ステージでの再会はかなわなかったけれど、またいつか……という思いは、儚(はかな)く散ることとなる。'92年4月25日、江口のもとに届いたのは尾崎の訃報だった。
ヘッドホン越しに“尾崎が死んだ”と聞いて…
「その日は何の偶然か、彼のデビューライブでバックバンドを務めたメンバーが久々に集まり、レコーディングをしていたんです。僕のギターソロを収録しているとき、ヘッドホン越しに“尾崎が死んだ”と聞いて……。言葉では言い表せない、複雑な気持ちになりました」
突然すぎた相棒の死から30年が過ぎようとしているが、今でも尾崎の偉大さを日々感じるという。
「仕事で各地をまわりますが、尾崎のことはどの世代の誰でも知ってる。そんなミュージシャンほとんどいませんよね。どえらいやつだったんだなと思います。尾崎豊という人間を心の中に留めて生きていきたいし、僕も彼の音楽をこの世界に少しでも伝えていくことが生きがいです。僕の人生は、彼に作ってもらったようなものなので」
尾崎の姿が心に焼きついているのは、ステージ上の仲間だけではない。プライベートで親交の深かった元プロレスラーのキラー・カンが、彼の素顔を明かす。
「当時は新宿に私が経営する『スナックカンちゃん』があって、尾崎さんが通う車屋さんのオーナーが彼を連れて来たんです。ある日、本人の前で彼の曲を歌うお客さんがいたとき、尾崎さんがデュエットしたんです。お客さんが写真まで撮ろうとしたから私は制したんですが、尾崎さんは“いいんですよ”って気さくに対応してました。私が演歌を歌ったときは“一緒に歌いましょう”と入ってきたことも。三橋美智也の『哀愁列車』という曲で、彼は知らなかったんじゃないかな」
お店には、尾崎が愛した味があったという。
「スタッフのまかない用にカレーを作っていたんですが、それを尾崎さんに気に入っていただき、必ずシメで食べるようになったんです」
晩年も変わることなく足を運び、元気な姿を見せていた。
「亡くなる8日前も来てくださってたんですが、車屋さんから電話で訃報を聞いて。冗談もほどほどにしてほしいと思いましたが、残念ながら本当だったんだよね……。生前は、バンド仲間を何人も連れてきたりして、気さくで紳士的な、いい青年でした」
ステージ上で数々の伝説を残す一方、プライベートでは穏やかな顔を見せていた尾崎。多くの人に愛されたその姿は、これからもずっと語り継がれていく。
【OZAKI THE PARTY】
4月24日(日)、尾崎豊の没後30周年ファンイベントが『インド料理ムンバイ 四谷店』で開催される。見どころは、尾崎と深い友情で結ばれたキラー・カンの闘病後初のお目見えと、尾崎が愛したカレーの復活祭。尾崎の小学校、中学校からの同級生や先輩、後輩が集まり、『新宿ルイード』でのデビューライブのころのような盛り上がりを見せる。