「あっ、そうか……、40周年かぁ。もう、そんなに……」
過ぎた時間の長さを噛み締めるように思いを馳せるのは、中森明菜の実兄だ。
今年5月1日でデビュー40周年を迎えたが依然、表舞台からは姿を消したまま……。
「2017年のディナーショーを最後に、活動を休止しています。その後もファンクラブの会報誌だけには直筆のメッセージを載せていますが、活動再開についての予定はありません。今は都内マンションに、恋人でもあるマネージャーと住んでいるといわれています」(スポーツ紙記者)
都心の住宅地にある地上6階建てのマンション。近くにはスーパーやコンビニがあり、少しは目撃されてもおかしくないはずだが、
「まったく見たことないんです。噂だけで、実際は住んでいないんじゃないかしら」
と、近隣住民の女性。
人前から姿を消したままの明菜は今、どうしているのか─。
華々しく、輝く時期もあったが、これまでの彼女の歩みは不遇の連続だった。
そんな明菜を今も心配し続けているのは、彼女の家族だ。
「母の葬儀で明菜と会ったのが最後です」
穏やかでありながらも、はっきりとした口調で語るのは、冒頭の3つ上の実兄だ。
昨年末に起きていた実父の変化
明菜は東京都清瀬市の出身で、6人きょうだいの上から5人目として育った。
「明菜は母のことが大好きでした。小学4年生ぐらいまで母と一緒に寝ていましたから。鹿児島から歌手になるために上京した母は、明菜が歌手になったことをそれはもう、喜んでいました」(実兄、以下同)
明菜がスターになることは、兄にとっても誇らしかった。
「すっごくうれしかったですよ。明菜がデビューした当時は、知り合いからサインをよく頼まれました。レコードも明菜がくれるんですけど、妹を応援したくて自分でも買っていました」
かつてを思い出すように目を細め、うれしそうに語るが、父親について話が及ぶと、表情が曇った。
「昨年の暮れに父は入院したんです。耳が遠くなって、自宅でふさぎ込むようになったんですが“このままでは歩けなくなるから”と長女が散歩をさせていたんです。それが散歩中に転倒してしまい、肋骨と右手を骨折してしまって」
これにより、新たな問題も起きた。
「以前から認知症の症状は少しずつ出ていたんですが、入院したことで進んでしまって。なので今後は介護付き老人ホームに入所する予定です。サポートがないと生活が難しい状態。もう、家には戻れないと思います」
明菜には連絡していないというが、これには複雑な事情がある。明菜とは年子の妹・明穂さんが2019年に病気で他界したときのこと。
「明穂が亡くなったときに連絡しましたが、葬儀には来てくれなかった。だから、父の話を聞いてもお見舞いには来ないんじゃないかな……」
静かにため息をつくと、こんな思いを続けた。
「明穂も1987年にデビューしてテレビに出るようになったのを、明菜は好ましく思っていなかったようで、関係が悪くなっていました。それまではすっごく仲がよかったんですが。明穂本人の希望もあって、遺骨は山に散骨しました。お墓はありませんが、せめて実家の仏壇には手を合わせてほしいです」
明菜が家族と距離を置いた理由
1995年、明菜の母親はがんで他界し、彼女は中森家の戸籍から自ら籍を抜いた。それから27年間、家族との関係は“断絶”したまま。なぜ明菜は、父親やきょうだいとも距離を置いたのか。
「明菜は、僕たちが彼女のお金を使い込んだと思っているんです。当時所属していた事務所の『研音』から税金対策で“お店を始めたらどうですか”と助言をいただいたんです。それでカラオケスナックを経営していましたが、明菜は私たちの給料に自分のお金が流れていると思っていたようで。実際は売り上げからごく普通の金額を給料としてもらっていただけなんです」
1987年、中森家は埼玉県内に地上3階建てのビルを建てているが、これにも明菜は疑問を持った。
「たしかに明菜のお金ですが、これは税金対策で建てたビル。そこで私たちが中華料理店などを開いたのですが、明菜はこの開店資金も自分のお金が使われたと思ったようです。でも、そうではない。父の実家は結構裕福な農家で、祖父が亡くなったときに多額の遺産が入りました。お店を作るのも備品をそろえるのも、全部遺産で賄っていたのです」
さらにはこんな親心があったと明かす。
「このビルは、いずれ明菜の手に渡る予定でした。芸能界で稼げていても、いつか歌えなくなって、売れなくなる日がくるかもしれない。父はそう思い、明菜が老後に家賃収入で生活できるようにと思って建てたのです。結局は売却してしまいましたが」
娘を思う気持ちが裏目に出た。明菜は家族への“不信感”を募らせていくが、それを植えつけた“犯人”がいた。
「事務所に聞いた話だと、最初のマネージャーが明菜のお金を持ち逃げしたそうなんですが、それを“家族が使い込んだ”と明菜に吹き込んでいたというんです」
関係者は「明菜について話さない」
当時の『研音』関係者に改めて聞いたが、
「明菜には2人の現場マネージャーがいましたが、そんな話は聞いたことがありません。私が辞めた後のことだと思います。よっぽどやましいことでもあるのか、事情を知る関係者はみな“明菜については話さない”と言っています」
と答えるだけだった。
それでも兄は、幸せだった明菜の笑顔をよく思い出すという。家族が営むカラオケスナックに、当時恋人だった近藤真彦と訪れたときのこと。
「僕が調理をしていて、ラザニアを作って出したんですよ。すると明菜は“おいしい!!”ってすっごく喜んでくれてね」(前出・実兄、以下同)
結婚するかもしれない。そんな思いを持ったと話すが、現実は残酷だった。1989年7月、明菜は近藤の自宅マンションで自殺未遂を図った。
「あのころマッチが明菜から別の女性タレントに乗り換えたようなんです。松田聖子さんではありません。明菜も最初は浮気だと思っていたのに、乗り換えられたとわかって刃物でひじの内側を……」
自殺未遂をした年の12月31日、常連だったNHK紅白歌合戦の裏番組で緊急会見を開き、明菜はこう語っている。
「私が仕事をしていくうえで、いちばん信頼していかなくちゃいけない人たちを信頼することができなくなってしまった」
現在の明菜は「話したくない」
家族や恋人に裏切られ、明菜は人間不信の螺旋に落ちていく。
「今はもう、明菜と直接話すこともできていません。事務所に何度も連絡し、明菜と話したいと伝えても、一緒にいるマネージャーが“明菜が話したくないと言っているので”と繰り返すだけ。父は今も明菜のことを心配し“元気にしているのか”“ビルを売らなければよかったのに”と呟くように話しています」
大好きだった母親の墓前には手を合わせているのか。
「明菜はお墓の場所を知らないはずなので、行ってないと思います。母の死に目に会えていないんです。前日には来たのですが、当日は仕事で来られず、すごく悔やんでいました。だからこそ父には会ってほしい。入院中の父は今年88歳になりましたが、どこの病院にいるかも明菜は知りません。残された時間は長くないので、一度でもいいから来てくれればと思うのですが」
家族なんだから─。そんな言葉が聞こえた気がした。
「また明菜が元気に歌う姿を見られることだけは、いつも心から願っています」
この一縷の望みが明菜に届けばいいのだが─。