日本が「マスクのはずせない国」になった経緯(写真はイメージです)

 あらゆる場面で情報を可視化することが求められ、「見えないもの」の価値が感じ取れなくなった日本社会。政府が採用する政策も、同調圧力に基づき自粛やワクチン接種を推し進めて感染者がゼロになるような「目に見える成果」ばかりを追う形に偏ってしまった。この国の「過剰可視化社会」の罪と罠を語る(與那覇潤著『過剰可視化社会:「見えすぎる」時代をどう生きるか』より一部を抜粋し再構成しました)。

マスクをしなければ排除されてしまう社会

 2020年3月に日本でも新型コロナウイルス感染症の流行が拡大してから、早くも2年以上が経ちました。いかに社会全体を危機から守りつつ、過剰な対応による副作用も避けるべきか――。そうした問いは主に「緊急時に国はどこまで病院に命令できるか」「憲法に緊急事態に関する条項を設けるべきか」といった法制面での課題として、この間ずっと議論が続いています。

当記事は「東洋経済オンライン」(運営:東洋経済新報社)の提供記事です

 しかし私は、それらのテクニカルな問題を個別に論じるのみではなく、ここまで危機を長期化させてきた社会のあり方自体を、根底から問い直す時がきていると考えています。拙著『過剰可視化社会』では、日本のコロナ禍をかくも深刻化させた最大の背景は、2010年代以降に本格化してきた「過剰可視化社会」の弊害である、という視点から、日本の過剰可視化の問題を考察しました。

 いま私たちの社会では、とても変なことが起きています。2011年の東日本大震災も契機となって、2010年代から多くの日本人がSNS(フェイスブックやツイッター、インスタグラム)を使い始めた結果、特に親しい関係でもない人の「政治的な意見や信条」「抱えている病気や障害」などが、プロフィール欄の記述だけですぐにわかってしまう。人類史上では長い間、個人の内奥に秘めておくものとされてきたはずの要素が、誰の目にも「見える」存在へと次々に形を変えています。

 もちろんSNS自体は、使わないという選択も可能です。しかし今回のコロナ禍で生じたのは、例えばマスクをつける形で防疫への協力を「誰の目にも見えるように」表さなければ、社会から排除され、かつそうした風潮に誰も違和感を持たないという事態でした。

 マスクをしない理由を「実は呼吸器に痴患があって、息が不自由だから」のように説明する形で、本来なら他人に知られることを望まない情報まで「見せなければ」ならなかった例も、少なくなかったでしょう。

 あまりにもプライベートが可視化された状態に慣れすぎた結果、私たちは「見せる」ことに伴う副作用の存在を忘れ、逆に「見えない」ものが持っている価値を感じ取れなくなってはいないでしょうか。コロナ禍では目に映る「街路に人影がない」「全員がマスクをしている」といった光景からしか安心感を得られず、なんらかの事情で自粛やマスクの着用が難しい人もいるかもしれないといった、他者への想像力が消えていました。

 そうした状態では政府が採用する政策も、同調圧力に基づき自粛やワクチン接種を推し進めることで、感染者がゼロになるような「目に見える成果」ばかりを追う形に偏ってゆきます。

 だから意見や感じ方の違いを前提に、互いに調整しあって眼前の困難を「一緒に耐え忍んでゆく」方向ではなく、困難自体の「存在を社会から消去する」――その障害になる少数派は「いないことにする」世相が優勢を占めていく。

 なんらかの「答えを出す」タイプのポジティブ(積極的)な能力は、その存在を具体的な結果や実績、保有者のプロフィールなどで目に見える形にしやすい。しかし「なにが正解なのかわからない」状態を、むしろ安易な答えに飛びつかないことによって、自身と違う考えの持ち主とも相互に尊重しあいながら乗り切るネガティブ(消極的)な能力は、視覚化には向かないのです(帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』参照)。

 個人のプロフィール欄には記すことができない、人と人との間の「不可視」の信頼や寛容さこそが、危機の中でもその社会がどこまで日常を維持できるかを決める――。平時との違いだけを「誰の目にも際立たせる」極端な政策ばかりが躍る裏面で、私たちがすっかり忘れてしまっていたのは、そうした感受性ではなかったでしょうか。

情報を「見せる」ことで国民を操る権力

 そもそも世界で最初に新型コロナウイルスの流行をみたのは中国の武漢市で、同市がロックダウン(都市封鎖)されたのは2020年の1月。地理的に近い日本への影響は目前と思われましたが、このとき国会で野党主流派(立憲民主党ほか)が最も力を入れていたのは、当時の安倍晋三首相が前年までの「桜を見る会」に誰を呼んでいたか、その名簿を「見えるところに出せ」という要求でした。

 その印象を残したままで同年2月末からコロナ禍に突入した結果、政府のコロナ禍をめぐる対応についての不満が国民のあいだで高まっても、それが野党への期待につながることはありませんでした。この事実は、意外に大きなことを示唆しています。

 政府与党をはじめとする国家権力は、情報を「隠そう」(不可視化しよう)とする存在である。したがってそれに対抗し、つねに「見える化」(可視化)を求めていくことが、リベラルな野党やジャーナリズムの使命である――。

 こうした問題意識は、二度の非自民政権への交代や、ネットメディアの発展を見た平成のあいだに定着し、長らく議論の前提となってきました。しかし、「桜を見る会」の追及を典型として、その路線に忠実に「見える化」を叫び続けた野党勢力は、なんら有意義な達成を得ずに敗北し、逆に令和のコロナ禍では、むしろ「隠す」のではなく「見せる」タイプの新たな権力の誕生が明白になったのです。

 連日、テレビのニュースショーがトップで新型コロナの感染者数を大きく報じる中、国民の多くは(中国やヨーロッパのような法的なロックダウンには至らなかったものの)政府による「私権の制限」を積極的に支持しました。外出自粛・営業自粛など、もし平時に政治家が口にすれば「憲法違反だ!」との非難にさらされただろう政策が歓迎され、一時はむしろ国民同士が相互に監視し、違反者を告発するような風潮(自粛警察)さえ生まれました。

 ある種の情報は隠すよりもむしろ、積極的に開示し見せていったほうが、為政者は国民を自在に操れるのではないか。長期に及んだコロナ禍の中で、そうした「逆転の発想」が着実に浸透していったことは、データやスローガンを載せたフリップを片手にテレビ出演を繰り返し、熱狂的な支持を集めた自治体首長の姿を思い出せば明らかなことでしょう。

ウクライナ戦争における「情報の見える化」

 コロナの後を襲う国際的な危機となったウクライナ戦争(2022年2月〜)は、この点でも象徴的な画期となりました。アメリカは「開示による抑止」政策と呼ばれる、積極的な諜報内容の公開によってロシアの開戦を当初止めようと図り、ロシアがウクライナ全土への侵略を開始した後では、政略と一体での最新の戦況の拡散を各国が競って繰り広げています。

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 私たちはこれまで、情報公開と政治権力の関係について、あまりにナイーブな理解をしてこなかったか。日独双方のファシズムの研究で知られる歴史家の佐藤卓己氏が、しばしば著書で使われる言葉に「ヒトラーやスターリンは、『黙れ』ではなく『叫べ』といった」というものがあります。隠蔽・抑圧ではなく顕示・宣伝によってこそ、人類史上最も強権的な独裁政治が成立してきた史実が、20世紀には現に存在しました。

 いまロックダウンを体験した欧米も含めて、感染症の拡大防止のような「国民全体の目標のため」であれば、個人の自由や権利を制限するのはやむをえないとする感性が広まっています(たとえばワクチン接種の強制)。それが21世紀版の新しい「全体主義」につながらないためには、むしろ「見せる」ことの副作用のほうに主眼を置いた、新たな政治とメディアについての考察が必要となるでしょう。


與那覇 潤(よなは じゅん)Jun Yonaha
評論家 1979年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験をつづった『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』『日本人はなぜ存在するか』『歴史なき時代に』『平成史』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏との共著)で第19回小林秀雄賞受賞。