かつて注目を集めた有名人に「ブレイク中、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー。'00年代半ばに人気の専属モデルを抱え、絶大な支持を集めたファッション誌『CanCam』。それを支えたモデルのひとりである押切もえは、蛯原友里と人気を二分して、社会現象にまでなった。ティーン誌の読モから順調にステップアップしたかに見えたが、不遇の時代もあったようで……。
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「雑誌に出ていた人が身近にいて、“その日、撮影なんだ”と言ってるのがカッコよかったんです。“部活じゃなくて撮影!?”って」
“赤文字系”と言われたファッション誌の代名詞『CanCam』のモデルとして活躍した押切もえ。10代は“ティーン誌の読モ”だった。
「まだ15歳で、読者モデルのはしりだった時代。現役の高校生が私物紹介などをしていました。私もやってみたくて、雑誌に出ていた友人に紹介してもらったんです。ただ、関東近郊在住なら誰でもチャンスがあったと思います」
スマホはないころで、自撮りも慣れておらず、撮影では笑い方もわからなかった。
「すごく緊張して、自分の写真うつりに愕然としました。とはいえ、普段の高校生活とは違う異世界で楽しかった。私は千葉に住んでいて、東京のスタジオへ行くだけでドキドキしました」
雑誌に出るうちに“スーパー高校生”と呼ばれて、当時の10代にとってカリスマ的な存在となる。
「きっかけは代役でした。予定していたモデルさんが来れなくて、急きょ“もえちゃん、私服じゃなく衣装を着てもらえない?”と言われて。それが大きく扱われたんです」
女子高校生の流行は、雑誌が主な発信源だった。『アムラーブーム』もあり、色黒のコギャルメイクが大流行。ただ実は、押切は“ガン黒”ではなかったという。
「誤解されるんですよね。派手なメイクの“ガン黒”が流行ったのは、もう少し年下の世代。私は眉を細くしたりする程度のポイントメイク。20歳ぐらいまで、撮影以外ではファンデーションも塗らないって決めていました」
オシャレに敏感な女子高校生はコギャルと呼ばれていたころ。
「年下の子がやっていると、やっぱりカワイイなと思って、撮影では健康的に見える程度にファンデーションで黒肌にも。華原朋美さんがCMに出ていた『ブロンズブロンズ』が流行っていました」
女子高生には大きな影響を及ぼすようになった押切だが、その現状に葛藤もあった。
「居心地はよかったけど、私だけ高校生じゃない年齢までずっと雑誌に出ていたので、どうなのかなと」
'00年にティーン誌を卒業し、『CanCam』に出るようになったが、半年ぐらいはあまり撮影に呼ばれなかった。
「周りからも“最近、雑誌出てないけど何やってるの?”と聞かれたのですが、何も言えませんでした」
読者モデルとしての知名度はあったが、認めてもらえなかった理由は……。
あだ名は「スポンジ」
「ティーン誌モデルのイメージが強すぎたようです。初めて撮影に行ったら“敬語使えるの?”と驚かれて。読者のみなさんからは“CanCamにふさわしくないから出ないで”と言われました」
スタッフにも読者にも“読者モデルあがり”と見られたが、挫けることはなかった。
「私には選択肢がなく、前に進むしかなかったですし、何を言われても素直に受け止めました」
撮影に呼ばれない時期は、普通のアルバイトもした。
「ほかの雑誌にも“顔見せ”に行ったのですが“そんな太い二の腕でよく来れたね”って言われたり。周りのモデルさんは、それまで見たこともないぐらい細かったので、私も小さいデニムをはいてお腹を引っ込めたり(笑)。それでも大きな企画には呼ばれず、私は専属モデルどころか、ずっと“お試し”が続きました」
撮影でのメイクはプロのヘアメイクにお任せするのが普通だが、自前でつけまつげを持っていったことも。
「ある雑誌に出たとき、顔立ちのはっきりしたモデルさんが多くて、みんな白アイシャドウをしてもパキッとしているんです。それに比べて私は顔が薄い。白アイシャドウを塗ったら埋まっちゃう(笑)。すごくコンプレックスで、つけまつげを持っていったら大笑いされました」
カリスマ“読モ”出身という、ほかのモデルとは違うキャリアで戸惑いながらも、やれることは必死でやった。
「そういう経験をしたのは私だけだから、一歩一歩を大切にできた。もし苦労なく出ていたら、もういいやって思ったかもしれない。有名になりたいとかじゃなく、目の前の人が喜んでくれることが大切で、本当にそれだけ。いろんな意見を聞いて、柔軟に取り入れて。とにかく吸収しようとしていたので、スポンジって呼ばれてました(笑)」
そんな努力もあって、気づけば『CanCam』の看板モデルに。押切が誌面で着た服は飛ぶように売れた。
「タイミングもよかったんです。モデルさんたちも団結して“とにかくいいページを作ろうね”という意識でやっていた。そうしているうちに雑誌を読んでくれる人たちも増えていったような感覚です」
女性ファッション誌といえば、よく耳にするのがモデル同士のいざこざだが……。
「レコード大賞」司会の思い出
「そういうのは全然なくって。本当にいい意味で、切磋琢磨していました。ワガママばかり言っていたら続かない。また会いたいとか、やりやすいとか、そういったことも重要ですし。山田優ちゃんや蛯原友里ちゃんも、撮影が終わったらご飯を食べに行ったりして、仲よかったですよ。今も会ったりします」
雑誌も好調で分厚くなり、撮影も増えた。一方でモデルたちは多忙を極めた。
「『CanCam』の撮影だけで月20日くらい。休みは1~2日。当時の撮影はフィルムで、後で修正できないから、花粉のシーズンはドキドキでした。目が赤くならないように気をつけていましたね」
多くのアパレルブランドも押切に期待するようになっていった。
「タイアップのときはメーカーの方たちの気持ちに寄り添って真剣に撮影をしました。売れるかどうか自信がないという商品を相談されると、燃えましたね。“おかげで売れました”と聞くと、私でも役に立てたんだって、すごくうれしかった」
雑誌から飛び出し、テレビにも出演するように。
「当時のテレビでは反省だらけです(笑)。辛口な発言をしてくださいと言われて、頑張ってやったり。でも、私は不器用だからコツコツやっていくしかなかったんです」
'06年には、蛯原とともにTBS系『日本レコード大賞』の司会にも抜擢された。
「祖母が山形から会場に来てくれて。氷川きよしさんのファンで、みんなで一緒に写真を撮らせてもらいました。祖母は亡くなりましたが、そのときの写真をずっと飾っていたのを見て、本当によかったと思いました」
'07年には『CanCam』のお姉さん版『AneCan』が登場。同誌は、押切ありきの創刊といわれた。'16年に押切が結婚して、同年に『AneCan』モデルを卒業すると、雑誌も休刊した。
「今は育児と家事や旦那さんのサポートがメインですが、素直な気持ちで、年齢とかのせいにしないで、これからもできることはやっていけたらいいなと思っています」
ブームの先頭に立ってきた彼女の次なるステージも見届けたい!
【撮影協力/『天現寺カフェ』東京都港区南麻布4-12-2 tengenjicafe.jp】