「6月10日、寛仁親王妃信子さまが『ストレス性ぜんそく』の悪化により、翌日から予定していた2日間の地方公務をキャンセルされました。タイミング的に“家庭内の不和”を心配する声も上がっています」(皇室担当記者)
6月6日、三笠宮寛仁さまの10年命日を迎え、東京都文京区の豊島岡墓地で『十年式年祭』が営まれた。
信子さまが自ら1日6食のメニューを
「雨が降る中、母の百合子さまは車イスでご出席。長女の彬子さまと次女の瑶子さまも参列されましたが、信子さまのお姿はありませんでした。妻でありながら、今なお“蚊帳の外”にいることに不安と憤りを感じられたのでは……」(同・記者)
“ヒゲの殿下”の愛称で親しまれた寛仁さま。がんなどの手術を16回経験し、66歳の若さで逝去されてから10年がたった。
「皇族らしからぬ型破りな言動が、注目を集めました。ニッポン放送の『オールナイトニッポン』や、テレビ朝日系の『徹子の部屋』にもご出演。36歳のときには、公務と社会活動の両立ができないからと“皇籍離脱”を宣言して、昭和天皇が閉口されたという話もあります」(皇室ジャーナリスト)
麻生太郎元首相の妹・信子さまと結婚されたのは'80年のこと。まもなく、長女・彬子さまと次女・瑶子さまがお生まれになった。
「寛仁さまが食道がんを手術された後には、信子さまが1日6食のメニューを自ら作られたことも。報道陣の前で抱き合うなど、当初は“おしどり夫婦”として評判でした」(宮内庁OB、以下同)
円満生活は続かなかった。
「'04年の春、信子さまは更年期障害や胃潰瘍と診断され、軽井沢にある麻生家の別荘で静養されました。約2年後、赤坂の宮邸に戻られましたが、ひきこもりや入退院を繰り返すようになったのです」
'08年には『ストレス性ぜんそく』の診断で1年近くご入院。退院後、信子さまが戻られた先は、家族の待つ住まいではなく、千代田区内にある旧宮内庁長官公邸だった。
「療養を目的として“完全別居”になりました。彬子さまと瑶子さまは、病気の父を置き去りにした信子さまが許せなかったといいます」
三笠宮家の次の当主はどなたに
彬子さまが'15年6月に『文藝春秋』に寄せられた手記には、療養を機に母娘関係は破綻したことが綴られている。
《母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上きちんと話をすることができていない》─
信子さまのご心労のもとは、寛仁さまのDVとアルコール依存だったと囁かれている。
「'07年にアルコール依存症であることを告白した寛仁さまは、若いころから酒浸りの日々。“自己顕示欲が強い”といわれる信子さまとの歯車がかみ合わない際には、飲酒や暴力に走られたのです」
夫婦の溝は埋まらなかった。
「寛仁さまの逝去直前、信子さまは病院を訪問しましたが、お見舞いは拒否されてしまいました。ご臨終の際もお別れの儀式もご夫妻の対面はかなわなかった……。寛仁さまの遺志により、葬儀の喪主は彬子さまが務められました」(前出・記者)
逝去から約1年後、寛仁さまの父・三笠宮崇仁さまが当主を務める“本家”に、信子さま、彬子さまと瑶子さまが入られた。
「そのころから、信子さまの活動が、にわかにご活発に……。国民への説明や三笠宮さまへの挨拶がないまま、公務を再開した母に対し、娘2人は不信感を募らせ、確執は深まりました」(同・記者)
'16年11月に亡くなった崇仁さまの葬儀に信子さまの姿はなく、事実上の“破門”だとも報じられた。そうしたトラブルを一手に引き受けてこられたのが、6月4日に99歳を迎えられた百合子さま。
「現在、三笠宮家の当主を務めていますが、“当主の座”をどなたに引き継ぐべきか、思い悩まれているとお見受けします」(宮内庁関係者)
ご一家に関連する行事では、ご高齢の百合子さまに代わって彬子さまがお役目を果たされることが多い。
「百合子さまはかねて、彬子さまを“次の当主”に指名したいという思いが強い。白寿の誕生日写真は、彬子さまと歓談するツーショットで“彼女へバトンを託す”と言わんばかりに信頼関係をアピールされた印象を受けました」(前出・ジャーナリスト)
女性皇族は制度上、結婚に伴って皇籍を離脱するが、
「彬子さまからは、“三笠宮家を継承する”という強い覚悟が感じられます」
そう話すのは、象徴天皇制に詳しい名古屋大学大学院の河西秀哉准教授。根拠となるのが、6月1日に発売された『ひげの殿下日記』(小学館)。寛仁さまが生前に寄せたエッセイに、彬子さまが編集を加えた1冊だ。
「三笠宮家は本当に仲のよい家族だったのよ」
「寛仁さまが逝去されて10年の節目に、尊敬するお父さまの人生の軌跡を形にし、複数のメディアのインタビューに応じておられます。“父の遺志を継ぐ”と、広く示されたかったのではないでしょうか」(河西准教授、以下同)
宮家を背負うべく、地道に公務をこなされる彬子さまに対する期待は膨らむが……。
「順当にいけば、信子さまが当主になられると思います。宮内庁は慣例を重んじるため、よほどの理由がない限り、彬子さまの当主就任を容認しないのではないでしょうか」
信子さまの療養生活やご一家との距離感は、“よほどの理由”にあたらないのか。
「近年の信子さまは、精力的に公務に取り組み、皇族としての役割を果たされている以上、問題にしにくいとは思います。三笠宮家に関する行事への不参加は懸念されるものの、形式的に信子さまが当主に就き、実務は彬子さまが担当されることも推測されます」
百合子さまと彬子さまのご意向だけでは解決できないほど“継承問題”は根深いということ。
「母娘の仲は、修復不可能だともいわれていますが、時間が解決してくれると信じています。現に、徐々に距離が縮まっている気もするのです」
そう語る三笠宮家関係者は、『ひげの殿下日記』を読んで感激したという。
「家族4人のエピソードが、たくさん盛り込まれていました。メディアに露出する際、これまでの彬子さまはいっさい信子さまについて触れられなかった。寛仁さまの日記がベースとはいえ、幸せな思い出を掲載されたのは、一家にとって“大きな一歩”です」
彬子さまは、在りし日のご一家を回顧される百合子さまの思いをくまれたのだろう。
「“三笠宮家は本当に仲のよい家族だったのよ”─。よく、百合子さまが彬子さまに語りかけられる言葉です。次期当主の議論は遅々として進まないものの、彬子さまにご一家の命運を託されていることに変わりはありません」(同・三笠宮家関係者)
百合子さまのお力によって、愛憎劇は幕引きとなるか。
河西秀哉 名古屋大学大学院人文学研究科准教授。象徴天皇制を専門とし、著書多数