1980年代、夕方の番組では異例ともいえる視聴率13%台で推移した番組『夕やけニャンニャン』。そこから出てきたおニャン子クラブはバブルに浮かれた社会と相まって、芸能界のトップへ駆け上がった。当時の彼女たちの人気を振り返りつつ、その背景を芸能評論家の宝泉薫が解説ーー。
それは深夜番組的おふざけから始まった
1980年代なかばに一世を風靡したおニャン子クラブ。今年5月に放送された『これが定番!世代別ベストソング ミュージックジェネレーション』(フジテレビ系)ではデビュー曲『セーラー服を脱がさないで』が流れ、さまぁ~ずのふたりが「懐かしいな~」「高校生に戻っちゃうよ」と盛り上がっていた。
と同時に、藤田ニコルのような若手からは「なんかすごい歌なんですけど…」「あんな若い子たちにあんな歌…」と、そのちょっと過激でエッチな歌詞に違和感を示す声も。
実はこの曲、作詞した秋元康もこう振り返っている。
「バカバカしさでいえば'80年代で1位か2位を争う曲ですね」
このバカバカしさこそが「懐かしさ」を生んだり「違和感」をもたらしたりするわけだ。
というのも、おニャン子は芸能史上まれにみるおふざけから始まった。そのきっかけは『オールナイトフジ』(フジテレビ系)がヒットしたこと。真夜中に素人の女子大生が集まり、とんねるずらとバカ騒ぎを繰り広げた生番組だ。
そこで、1985年の春、その女子高生版が平日の夕方に作られることに。番組名『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)の“ニャンニャン”とは男女の性行為を意味する当時の流行語でもあり、タイトルからして攻めたものだった。
ただ、そういうノリに違和感を覚える人もいて、デビューしたばかりの斉藤由貴もそのひとり。彼女は『夕ニャン』スタートに先行して放送されたパイロット版『オールナイトフジ女子高生スペシャル』の司会を務め、冒頭の「せーのっ」という掛け声も担当した。が、のちにこんな本音を筆者に語っている。
ちゃんとした仕事に思えなかった
「あのときは荒れましたもん(笑)こんなことしたくないって」
ちゃんとした歌や芝居をやりたくて芸能人になった彼女には、この仕事がちゃんとしたものには思えなかったわけだ。ただ、この違和感こそが『夕ニャン』をヒットさせ、番組から生まれたグループ『おニャン子クラブ』を人気者にした。当時のアイドルはちゃんとしすぎていて、やや飽きられつつもあったからだ。
松田聖子や薬師丸ひろ子、中森明菜の成功はアイドルのステータスを高めたが、アイドルとファンの距離を遠くし、また、本来の面白さも少し薄まった。それは実力より人気、歌のうまさより顔の可愛さみたいな、ちゃんとしていない面白さだ。
そういう意味で、おニャン子はアイドルの原点回帰でもあり、もっといえば、よりあからさまな本質の表明だった。その本質とはズバリ「性的アピール」である。女子校の放課後みたいな雰囲気を醸し出していた『夕ニャン』は思春期の男子にとって、アイドルよりも身近な女の子たちと画面越しにイチャイチャ感を共有できるような魅力があり、そのテーマ曲としても『セーラー服を脱がさないで』はうってつけだった。
とはいえ、筆者もまた、その手法には違和感を覚えた。同じ性的アピールをするにしても、1970年代の山口百恵が『青い果実』や『ひと夏の経験』『禁じられた遊び』でやったようなオブラートの包み方をしてほしかったのだ。
ちなみに、秋元は「週刊誌みたいなエッチをしたいけど」という歌詞の「週刊誌」が当初「『微笑』の記事」というフレーズだったことをのちに明かしている。百恵のスタッフが曲名に映画のタイトルなどを使って芸術っぽい雰囲気を醸し出していたのとは対照的だ。
が、こうした表現の方向を決めるのは実のところ、作詞家でもプロデューサーでもなく、時代や大衆の気分だったりする。バブル景気へと向かう1980年代は日本がどんどん浮かれて軽くなり、欲望に対してもあからさまになっていく時期だった。そこにおニャン子がピタリとはまったのである。
おニャン子およびそこから派生したソロやユニットの曲は翌々年にかけて、オリコンチャートを席巻。1986年には、全52週中36週の1位がおニャン子絡みという空前のブームが訪れる。
究極のアイドルらしさとフツーっぽさ
では、おニャン子に集まったのはどんな女の子たちだったのか。
筆者は当時、このうち7人に延べ10数回インタビューをしたが、共通して感じられたのは「フツーっぽさ」だ。なかでも、一番人気でグループの顔的存在だった新田恵利はそこが際立っていた。
最近もネット記事の取材で「お遊戯の延長」「バイト感覚でした」と振り返っているのを見かけたが、そのあたりが逆に新鮮だったといえる。おニャン子以外のアイドルは、もはや飽和状態というべきアイドルシーンのなかで生き残るため、必死にプロっぽく見せようとしていたからだ。
アイドルとしてのプロとは、ファンタジーを演じるということ。一方、おニャン子には新田みたいなフツーの女の子がいきなりテレビに出たらどうなるのか、というドキュメンタリーを見るような新鮮さがあった。
そんななか、聖子はアイドルとしてファンタジーをやりつつ、私生活ではドキュメンタリーをという天才的な演じ分けをしていた。が、並の芸能人ではそこまでできない。
また、ファンタジーを演じるアイドルというスタイル自体、飽きられつつもあった。それでなくとも、当時の日本はバカバカしいほど明るいものを求めて突き進んでいたから、プロっぽい重さより、アマチュアの軽さがもてはやされた。思春期の男子も、既存のアイドルよりもリアルで身近なおニャン子に惹かれたのである。
そんなおニャン子のドキュメンタリー感をさらに高めたのが、毎週番組内で行われるオーディションだ。出場者にはすでに事務所に所属する芸能人の卵もいたとはいえ、週単位で新しいアイドルが生まれていく展開は興奮をもたらした。ファンにとっては、可愛い転校生がどんどん入ってくる感覚だろう。
それはさまざまなタイプの子がいきなりアイドルになってしまうシステムでもあり、ときにスキャンダルも生む。未成年喫煙が報じられ、やめさせられたメンバーもいた。ただ、それもドキュメンタリーとしてのスリルをもたらしていたといえる。
筆者がインタビューしたなかにも、成人だったとはいえ、普通のアイドルなら隠す喫煙の話やヤンキー的なファンとケンカしたことを得意げに話す子がいた。そういうやんちゃな子がタレント教育を受けないままオリコン1位になるほど売れてしまうあたりも、おニャン子ならではだった。
テレビ視聴率が落ちると同時に店じまい
ではなぜ、おニャン子はヒット曲を量産できたのか。それは、フツーの子たちがフツーの歌唱力でフツーの恋愛を歌うという、歌のうまい聖子や明菜では絶対にできない、究極のアイドルらしさがウケたのだろう。
しかも、おニャン子の歌はなんでもありだった。企画ものとしてスタートして、事務所やレコード会社の命運を担っているわけでもない気楽さとノリのよさで、使えるものはすべて使うスタンスだった。
メンバー(中島美春)の卒業が決まれば『じゃあね』、2月にソロデビューするメンバー(国生さゆり)には『バレンタイン・キッス』、デビュー曲で味をしめたエッチ路線も引き継がれた。渡辺美奈代のような王道的アイドルポップスもあれば、アイドル演歌(城之内早苗)にコミックソング(ニャンギラス)も、という具合に、その自由自在ぶりもエンタメとしての勢いにつながったといえる。
それはさながら、アイドルの歌の見本市。1970年代初めから10数年にわたって開発されてきた、さまざまなスタイルをやり尽くすものだった。大量消費の時代にふさわしく、アイドルの歌の大量消費をやってのけた感じで、その結果、ファンはお腹いっぱいになった。1980年代末からのアイドル冬の時代は、おニャン子ブームもその一因だったりする。
また、おニャン子は番組と一心同体だったから、その視聴率が落ちると店じまいになった。そこからはもう、フツーっぽさだけでは生き残れない。
例えば、前出の新田はグループ解散後、作詞家を目指したりしたが、成功はしなかった。しかし、その「歌唱力」は長く語り継がれることに。2013年度前期のNHK朝ドラ『あまちゃん』では、喫茶店のテレビで『セーラー服を脱がさないで』が流れ、松尾スズキが演じるマスターが新田の歌唱力のなさをネタにした。
これを見ていた新田は、
「脚本家の(宮藤)官九郎さん。お会いしたことはありませんが……、27年たっても官九郎さんの中での歌が下手なおニャン子は私なんですね、とほほ」
と、ブログでぼやいたが─。朝ドラのネタになるほどだから、これもまたフツーの子集団・おニャン子ならではの「伝説」である。
3人材&名曲を輩出。影響は後続にも
おニャン子の活動期間は、わずか2年5か月。のちのAKB48などと比べると、時代のあだ花みたいな印象すらある。が、そのわりに現在も活躍中の多くの人材を輩出した。フツーっぽさだけじゃない子もそれなりに交じっていたのだ。
その代表が工藤静香だ。1984年にミス・セブンティーンコンテストに出場して、3人組の『セブンティーンクラブ』でデビューしたものの、鳴かず飛ばず。いわば、アイドル飽和状態のなかでくすぶっていた逸材をおニャン子が世に出したのである。
また、工藤は「でき婚」によって木村拓哉をモノにした恋愛強者であり、おニャン子には私生活で注目されたタイプも多い。木之内みどりとの逃避行や堀ちえみとの不倫など、アイドルキラーとして名を馳せた後藤次利の「最後の女」となった河合その子や、名倉潤と結婚した渡辺満里奈、そして、秋元の妻となった高井麻巳子だ。
このうち、秋元と高井のケースは先生と生徒の結婚みたいだと話題になった。面白いのは後年、AKB系や坂道系のグループでは「恋愛禁止」という暗黙のルールが生まれたことだ。何かにつけて自由だったおニャン子が短命で終わったことが、のちのアイドルグループをストイック志向のプロ集団へと変化させたのかもしれない。
そんなルール以外にも、おニャン子はのちのアイドル文化にさまざまな影響を与えた。卒業とオーディションの繰り返しによる新陳代謝、グループ内ユニット結成による活性化などだ。
なかでも、モーニング娘。などでこの手法を引き継ぎ、拡大したのがつんく♂だった。生まれ育った関西では『夕ニャン』が3か月遅れで始まったものの、
「わりと最初のほうから見てたほうだと思う。まだ五味岡(たまき)がいましたからね」
と、すぐに脱退したメンバーを知っていることを自慢している。また、おニャン子の男性版として作られた息っ子クラブにも応募して、落選したという。
さらにいえば、小室ファミリー快進撃の口火を切った篠原涼子は東京パフォーマンスドールの出身。おニャン子が打ち出した大人数グループというスタイルを1990年代前半に追求したグループだ。やはり、おニャン子の影響は見逃せないものがある。
「会いに行けるアイドル」を生み出した
ただ、おニャン子が生み出した最大のものは秋元かもしれない。
スタッフのひとりだった彼は、番組とともにおニャン子が終わったことに納得できず、テレビに頼らないアイドル作りを模索した。それが実を結んだのが、自前の劇場を持ち「会いに行けるアイドル」として歌謡シーンを変えたAKBというわけだ。
なお、おニャン子に熱狂したファンはいわゆる第2次ベビーブーム世代とそのちょっと上の世代。圧倒的に人口が多い。それゆえ、懐かしがる人たちのパワーも大きく、生稲晃子のように元おニャン子の肩書で参院選に当選しそうな人も出てきたりするわけだ。
楽曲を見ても『セーラー服を脱がさないで』のような時代を象徴する曲や『バレンタイン・キッス』のような季節歌謡のスタンダードがある。また、岩手県ではローカル番組のクイズコーナーで『恋はくえすちょん』がBGMに長年使われていたりする。
そして何より、今の世の中はちょっと元気がない。だからこそ、日本が元気だった時代を思い出させるおニャン子が懐かしがられるのかもしれない。