6月19日の夕方、SNSにこんな嘆きの声が投稿された。
《楽しみに帰ってきたら、放送延期になっていた(涙)》
《午後はこれを観るために予定を空けていたのに》
《仕方ないってわかっているけど呟かずにはいられない。見たかった……》
嘆きの理由は、NHK総合で放送される予定だった『伝説のコンサート 中森明菜 スペシャル・ライブ1989 リマスター版』が、石川県能登地方で発生した地震の影響で、放送が急きょ延期となったからだ。
「4月にNHK BSプレミアムとBS4Kで放送したところ“再放送をしてほしい”という視聴者からの要望に応えた放送でした。しかし、最大震度6弱の地震が発生。災害ですから、放送休止を理解しつつも、嘆く声が多数あがったことで、いまも明菜という“歌姫”の人気は健在だと再認識させられました」(スポーツ紙記者)
番組は、7月9日に改めて放送することが発表され、ファンたちもひと安心。
ただ、明菜はもう5年、公の場所に姿を見せていない。今年でデビュー40周年を迎えたが、これまで彼女は何を思い歌ってきたのか――。
明菜が語っていた「自分は二の次でいい」
「小学1年生のとき“将来の夢”を題にした作文で、明菜さんは“かしゅ”と書いていたそうです。母親の千恵子さんは美空ひばりさんに憧れ、歌手になるため鹿児島県から上京。しかし、21歳で結婚をし、歌手の道を諦めざるを得なかった。だからこそ、その夢を娘の明菜さんに託したのでしょう。明菜さんは“お母ちゃんが歌手になれなれって言ってたから”とよく話していたそうですから」(スポーツ紙デスク)
幼いころから歌手を志した明菜だが、こんな思いも抱えていた。
「2男4女からなる6人きょうだいの5番目だった明菜さんですが、小さいころは、すぐに熱を出す病弱な女の子だったのです。決して裕福ではない家庭で、自分が家族の“お荷物”だとも感じていた。大好きだった母親に認めてもらうため、家族の一員になるために歌手を志した……という気持ちが大きかった」(同・前)
明菜は過去の雑誌インタビューで、歌手になりたかったわけではないと話している。
《私、本当は保母さんになりたかったんです》《誰かのために、私が裏方になって頑張る。そんな仕事が好きなんです。ほんとはね、歌を歌うのは緊張するし、根っから好きというわけではないの。だけど、私の歌を聴いて幸せになるって言う人がいるから、私は歌っている。自分は二の次でいいんです》(『SAY』2003年7月号)
誰かの役に立てるなら……。それこそ彼女が見出した存在意義だった。
当時の明菜を知る、元マネージャーの男性はこう証言する。
「デビュー当初はキャンペーンで全国を飛び回り、毎日のように各地で歌っていました。でもね、全然嫌がらないんです。16歳の少女にはそうとう負担の大きい過密なスケジュールだったのに、ですよ。本当に人前で歌うのが好きな子なんだな……と感心しました」
明菜は1982年5月に『スローモーション』でデビュー。オリコンの最高順位は30位。大ヒット……というわけではなかったが、すでに多くの人を魅了していた。
「実際に『スローモーション』のときから人気はすごかった。確か……栃木県宇都宮市で行ったイベントだったと思います。デパートの屋上にステージを作って歌う予定だったのですが、ファンが1000人以上詰めかけてしまい中止になったことがありました」(同・元マネージャー)
私は誰からも必要とされていない――そんな苦しい思いを抱えていた病弱な少女は、もういなかった。
1982年7月にはセカンドシングル『少女A』がヒット。同年11月にリリースしたサードシングル『セカンド・ラブ』では、オリコンランキング1位を獲得。一躍、スターへと駆け上がる。
しかし、念願の歌手となった明菜の心は満たされない。
《歌手になりたいって思ってるときは“今が幸せ”って全然思わなかったのね。“歌手になったら幸せなんじゃないかな”ってずっと思ってたの。でもなってみて初めて、あのときが幸せだったってわかるの》(『JUNON』1989年9月号)
なぜなのか。
「朝から晩まで働いて、夜に自宅に帰って自由になるのは2~3時間ほど。ひとたび外出すれば、ファンに囲まれて大騒ぎに。自分の意見をしっかりと持っている子でしたから、いろいろと提案していましたが、マスコミには“ワガママだ”と書かれてしまう。そんな自由のない生活にうんざりしていたのかもしれないね」(元レコード会社関係者)
活動休止と再開を繰り返し…
1989年7月には、7年間にわたって交際していたマッチこと近藤真彦の自宅マンションで自殺未遂を図る。近藤の裏切りによって終わった恋が、明菜を長らく苦しめた。
「マッチに裏切られ、芸能界から離れたいという思いが強かったんじゃないかな。明菜さんは“歌をやめて家庭に入りたい”ともよく言っていました。自分を求めてくれる、たったひとりの人を探していたと思います。ただ、みんなで食事をしているときにテレビにマッチが写ったら、明菜さんは必ず席を外していました。平気なフリをしつつも、ずっと引きずっているんだなとは感じました」(ファッション誌編集者)
1990年代には連続ドラマにも出演してたが、最愛の母親の死、度重なる裏切りに遭い、家族とも距離を置き、孤立していく。
「1991年にリリースした『Dear Friend』や1993年の『愛撫』などがヒットしましたが、80年代のような勢いはありませんでした。事務所の移籍を繰り返し、レコード会社からは契約解除を言い渡されて……。自分自身を模索する時期でもあったのでしょうが、彼女はずっと空虚な思いを抱えていたように感じます。なんで幸せになれないのか。なんでうまくいかないのか……と」(音楽ライター)
葛藤する明菜の心情はこんな言葉になって表れていた。
《タレント・中森明菜を続けているせいで、隅に押しやられた本当の明菜は、夢を持てないまま、ぼんやりしているんです》(『JUNON』1995年9月号)
母親に褒められたい。認められたい。そんな思いから出発した歌手活動だったが、目標を見失っていた。だが、2000年に入ると少しずつ歌うことへの新たな意味を見出していく。
《今まで、本当に、歌っていて楽しい、と思ったことは一度もないんですね。人を喜ばせたい、喜ばせたいばっかりだった。でも、今は、私が喜んでいたら、自然とみんなも喜んでいく。そういうふうにできたら、本当の意味で、歌っていて楽しいだろうって思えるようになりました》(『コスモポリタン』2002年7月号)
2002年の年末には、14年ぶりにNHK紅白歌合戦に出場。精力的にライブ活動などを行っていくが、またしても暗転する。
「2010年に無期限の活動休止を発表します。2014年の紅白ではニューヨークからの中継で出場をして活動を再開。しかし、2017年に行ったディナーショーを最後に、また活動を休止します。2018年には新曲をリリースする……なんて話もあったのですが」(前出・スポーツ紙デスク)
歌うことの意味を見出した明菜だったが、もはや身体がついていかなかったのか――。
27年間、明菜と会っていないという3つ上の実兄は、こんなエピソードを明かす。
「明菜は自分の曲の中で最初は『バビロン』がお気に入りだったようですが、途中から『ミ・アモーレ』の曲に違う歌詞を載せた『赤い鳥逃げた』が一番好きだと言っていました。もう何十年も前の話ですが、“歌詞がいいのよ”って明菜がよく話していたのを覚えています」
鳥かごを抜け出し、私たちの前に姿を見せる日は訪れるのか。