人生の“岐路”インタビュー石井明美(56)(撮影/近藤陽介)

 この曲を聞けば懐かしいあのころがよみがえる! 人も街もエネルギーに満ち溢れていた、バブル真っ盛りの1986年。年間売上1位を記録したシングルレコード曲は、人気ドラマ『男女7人夏物語』(TBS系)の主題歌『CHA-CHA-CHA』だった。爆発的にヒットしたこの曲を歌っていたのは、歌手の石井明美。いまだから明かせる、“運命の1曲”にまつわる秘話を語ってくれた。

「デビューなんてしたくない!って、何度断ったか」

 笑いながら、35年前のデビュー当時をこう振り返る。'80年代といえば、アイドル全盛期の時代。だが当の本人は、芸能界にまったく興味がなかったという。

「もともと友達にヘアアレンジしてあげるのが好きで、高校卒業後は美容院で働いていたんです。でもあまりの激務に、少しお休みしたいと思うようになって。場つなぎのアルバイトとして友人が紹介してくれたのが、六本木のカラオケスナックでした」

 場所柄、芸能関係の常連客が多かった。新人アルバイトの彼女は入店後、間もなく芸能プロダクションの関係者から何度もスカウトされることになる。当然、ずば抜けた歌唱力を見込まれてのことかと思いきや、

「服もダサいし、テレビの世界に憧れも興味もない、普通の19歳の女の子のことが珍しかっただけじゃないのかな(笑)」

 と、自己分析。

「何度も断っていたんですが、お店でたびたびお会いしているうち、お客さんと信頼関係ができてくるんですよね。働き始めて約1年が過ぎたころ、そんなに言ってくださるならお受けしようという気持ちになって。このお客さんの事務所だったら、売り飛ばされたり脱がされたりしないだろうっていう安心感もありました(笑)」

 とはいえ芸能界への無関心は相も変わらず。「1曲限定でお願いします」とタレント側が条件をつけるという、珍しい形でのデビューとなった。

「スナックのアルバイトをやめて、ボイストレーニングやジャズダンスのレッスンを受ける毎日が始まりました。ある日、事務所の会長と喫茶店にいたら、聴いたこともないユーロビートの曲が流れてきたんです」

 それが、イタリアのダンスグループ『フィンツィ・コンティーニ』の歌う『CHA-CHA-CHA』だった。

「あ、これ明美が歌うことになった曲だよ! って会長に言われて。初めて聞いたんですけど、特になんの印象もなかったな(笑)。だってユーロビートなんて、まったく興味なかったから」

ドラマの主題歌でもレコード会社が……

 デビュー曲は、明石家さんまと大竹しのぶが共演する『男女7人夏物語』(TBS)の主題歌として発売されることが決まっていた。今でこそ、ドラマの主題歌ともなればヒットを約束されたも同然だが、このときは少々事情が違った。

「すべてがたまたまでした」と、笑顔で当時を振り返る石井明美(撮影/近藤陽介)

「トレンディドラマの主要人物にお笑い芸人をキャスティングするなんて、当時は初めての試み。大人気のさんまさんとはいえ、ドラマが“当たる”かどうかは未知数だったみたいです」

 当時所属していた事務所には、飛ぶ鳥を落とす勢いの中森明菜がいた。だが、一歩間違えれば大コケも予想されるドラマの主題歌に、大スターの明菜を起用することはできない。そこで白羽の矢が立ったのが、彼女だった。

「実は、レコードの発売がドラマの放送開始に間に合わなかったんです(笑)。ぽっと出の新人の曲なんて売れるはずないって、どこのレコード会社からもリリースを断られ続けていたんですよね。唯一、ゴーサインを出してくれたのがソニーさんでした」

 ドラマは予想を超えた大ヒットに。『金曜日の妻たちへ』('83年 TBS系)で成功を収めていた鎌田敏夫の脚本と、トレンディドラマでは珍しい明石家さんまの関西弁が見事にマッチ。1986年に放送されたすべての連続ドラマのなかで、最高視聴率1位を記録した。

「ドラマの中で、主題歌が流れるタイミングもとてもよかったんです。次はどうなるの? ってハラハラするような展開で、いきなりイントロのブレーキ音と、男女の英語のセリフから曲が始まるでしょ。これがすっごくかっこよくて」

 ちなみにこのイントロのセリフを考案したのは、日本を代表するドラマーのつのだ☆ひろ。コーラスアレンジなどで『CHA-CHA-CHA』の制作に参加していた。

 1986年7月25日にドラマの第1話が放送されるやいなや、印象的な主題歌はすぐに世間の話題に。

「満を持して8月14日に発売されたあとは、もう大変(笑)。売れるなんて誰も思ってなかったから、所属事務所はバタバタです。当時の事務所のイチオシ新人は、『BEE PUBLIC(ビー パブリック)』という4人組のロックバンド。事務所にはびっくりするほどおっきな彼らのポスターが貼られていたんですけど、それに比べて私はA4サイズの大きさでしたから(笑)」

予想外の大ヒットに想像もしない日々が…

荻野目洋子や大竹しのぶ、チャットモンチーなどもカバーした、石井明美の『CHA-CHA-CHA』

 予想外の大ヒットに、事務所スタッフはさぞ大喜びかと思いきや……。

「事務所トップの明菜さんを差し置いて、これはちょっと売れすぎだ、って言われて。できれば3位か4位くらいがちょうどよかったらしいんです(笑)。もちろん、明菜さんご本人はやさしく“がんばってね”っておっしゃってくれました。同い年なんですけど、大先輩。恐れ多い存在でしたね」

 とにもかくにも、想像もしなかった日々が始まることに。

「歌番組に出演すれば、当たり前ですけど周りは芸能人だらけ。テレビでしか見たことない人たちが目の前にいるなんて、なんだか他人事みたいでした。明菜さんの乗っていた社用車のトヨタ・クラウンをお下がりでいただいて、マネージャーの運転でテレビ局まで移動していましたね」

 同期の'86年デビュー組には、少年隊や西村知美、久保田利伸、小比類巻かほるらがいた。

「同じ番組に出ていてもリハの時間帯はバラバラだし、本番中もひな壇で少しあいさつするぐらい。仲良くなるヒマなんてなくて。週刊誌で見るような、“電話番号をこっそり渡して恋が生まれる……”なんてエピソードは一切なかったですね。少なくとも私は(笑)」

 結局、『CHA-CHA-CHA』は8月発売ながら1986年度の年間売上第1位を記録。日本中の誰もが知る曲となる。デビュー当時に念押しした「1曲限定」という希望も、もはや通用しないほどに売れてしまった。

「さすがに、この世界に骨をうずめる覚悟を決めました(笑)。でも最初にミリオンを出しちゃったから、2曲目以降はどうすればいいのかわからなくて。事務所にとっても私にとっても、プレッシャーでしたね」

『CHA-CHA-CHA』のイメージがあまりにも強烈で、その後はなかなかヒット曲に恵まれなかった。

「正直言って、もうこの歌を歌いたくないと思った時期もあります。もともとロックが好きだったから、全曲ロックのアルバムを作りたいって言ってみたり、テレビで歌うならカラオケじゃなくてバンドじゃなきゃいやだって言ってみたり(笑)。いろいろとわがままを言ったこともありました」

 その後、1990年に発売された8枚目のシングル『ランバダ』がスマッシュヒット。だがそれ以降は、結婚、出産、離婚を経て、しばらく歌から遠ざかっていた時期もあった。

「友人の雑貨屋でアルバイトをしていることが噂になり、“あの人は今”という企画でテレビ出演したこともありますよ(笑)」

 紆余曲折を経て、デビューから早35年。平成、令和と時代は移り、世は空前の昭和ブームだ。YouTubeの“歌ってみた”の投稿動画で、この曲をカバーする若者も多い。

「すごく難しい曲なのに、いろんな方がチャレンジしてくれてうれしいです。お酒を飲みつつ、楽しんで見てますよ(笑)」

 現在は、通信販売でおなじみの『夢グループ』が主催するコンサートで、全国を回る多忙な日々だ。

「葛城ユキさんや伊藤咲子さん、狩人さんなど錚々たる先輩方とご一緒させていただいています。いまだにね“有名人が目の前にいる!”って気持ちになっちゃうんです(笑)」

 伸びやかな歌声はいまも健在。名曲はいつまでも色あせない!

<取材・文/植木淳子>