7月5日早朝。首都高4号線が通る東京都杉並区高井戸に、都内でも有数の巨大看板が設置された。4号線から見えるもっとも大きな看板で非常に目立つ。いや、その目立ちぶりは大きさだけでなく、そこに写る“顔”のせいもあるだろう。
「メディアには“看板はロマン”とかこれまで言ってきました。まぁそれウソだったんですけど」
そう笑うのは東京都西八王子にある『きぬた歯科』のきぬた泰和院長。東京を中心に関東近郊で“この顔”を見たことがある人も多いのではないだろうか。 “オッサン”である院長の顔がどデカく写る。歯科のある八王子市とは遠く離れた場所も含め、至るところに設置された大きな看板の“主”だ。
“看板にはロマンがある”はウソ
関東圏にお住まいではない方にかんたんに説明すると、この看板は都内を中心に関東近郊あちらこちらにあるのだ。通常ならば歯科医院は、自宅や職場の最寄駅あたりで探すことが多いだろう。西八王子は隣駅である八王子駅と違い、特に大きな商業圏・商業施設があるわけでもなく、もう1駅都心から離れれば高尾駅であり、中央線の最西端にあたる。誤解を恐れずに言うなら“田舎”だ。
それなのにきぬた歯科の看板は都心の至るところにある。きぬた泰和院長によればその数は「340カ所くらい」。
「以前から看板について取材を受けてきましたが、 “看板にはロマンがある”とか“建てることに高揚感がある”とかウソをついてきました。同業者を牽制するためですね」(きぬた泰和院長、以下同)
確かに以前のインタビューで、院長は“戦略的にではなくて、気分で増やす”などと話していた。あえて悪い表現をするならば、これらはロマンを語る“出たがり社長”のそれだ。しかし、本当の理由は違う。
“看板攻勢”に出た理由
看板を数多く建てる前、きぬた歯科では新聞・雑誌・ネット・チラシ・タウン誌などさまざまな媒体で広告を打っていた。それぞれ10年分のデータを見てみると集客効果はネットと看板が上位で拮抗。しかしその“費用”は、看板はネットの16分の1だった。ここできぬた泰和院長は“看板攻勢”に出た。
「今、広告はネットばっかりじゃないですか。そんなの誰が決めたのって。広告って“隙間を埋める”って行為がすごく重要なんですよ。なんとなく目に入ったものが気になるとか。看板に限らず新聞の広告などもそうです。僕、こないだ新聞広告で見た枕買っちゃいましたもん。浅田真央の(笑)。でもこれなんです。ネットだったら絶対に出会うことはなかった。僕は枕を探していたわけじゃないですから。この感覚をみんな忘れている」
ネット広告だ、SEO(検索上位に出るための施策)だと叫ばれて久しいが、そんなものは「思考停止」と院長は言う。
「マーケティングっていうのはすごく単純で、そんなにお金をかけずに予算の中でいろいろな媒体で4つか5つくらいちょこちょこってやってみるんですよ。それで半年とか1年経過を見て、効果があるものに一気に投入していく。小さい会社でも大きい会社でも同じです。一度予算を振り分けてみて、効果を比較してみて、結果が出たもの、費用対効果の良いものに注力する。業種によって戦略は当然変わり、“どの”広告が合うかも変わります」
看板に注力した結果、きぬた歯科は八王子市にあるが、看板は北は栃木県足利市、南は大磯・小田原辺りにまで至った。院長の顔がどデカく写るもの、歯科なのに院長がなぜかファイティングポーズを取り、「俺を信じろ!!」というセリフが入ったものなど、ある種“ふざけた”ものも多く、カルト的な人気を集めてファンも生まれた。そのファンが作った『きぬた歯科看板神経衰弱』や、『きぬた歯科看板大全』なるマップ本まである。
「副産物というか自分が想像していなかった流れになっちゃった。僕は(看板広告を)真剣にやってきた。命がけで。でもみんなが面白がって、イジり出した。自分は仕事一筋でやってきて、遊びっていうのを知らないんですよね。そしたら僕も面白くなってきたんですよね」
『歯科インプラント』に“トラブル続出”報道に
もちろん設置場所などは真剣に考えるが、内容・デザインには“遊び”が生まれた。しかし、一方で身内である家族からは否定や不満を投げかけられることも。確かに肉親の顔が至るところに看板としてあることは、家族としては思うところがあってもおかしくはない。しかし……。
「夢を叶えるにしても仕事にしても、家族に反対されても、それでも“行く!”って奴じゃないと成功しない。成功しないというか、それで初めてスタートが切れる。成功するかはわからないけどね。これは昔、人から聞いたことがありましたが、看板をやってわかりました。この間、都心にマンション買おうかなって言ったら、(家族に)すげぇ反対されたんですよ。“なんの意味がある”って。それでやめたんですけど、看板はやめられなかった。(家族にどれだけ反対されても)一切やめる気はないですね(笑)」
それほどまでに強い気持ちを看板に費やすには理由がある。'12年にNHKの番組が『歯科インプラント』にトラブルが続出していると報道した。きぬた歯科はインプラントに力を入れていたが、その影響で他の歯科医院同様にインプラントの患者が激減。
「(番組の影響で)患者さんが来なくなって……。でも人間って追いつめられるとすげぇ力が出るんですよね。追いつめられたら(顔を出すのが)恥ずかしいとか言っていられないんですよ。火事になったとき、“パンツ一丁で外出られねぇ”とか言っていられないじゃないですか。死にますから。看板の設置はパンツ一丁で外に行くような、そんな気持ちでやっていましたね」
院長が死にものぐるいで建て続けた看板は、きぬた歯科から独立した歯科医院が“師匠”のマネをしたり、まったく関係のない歯科医院にパクられるほどの“フォーマット”となった。同じように院長の顔が出た派手な看板だ。
「最初からこの状況は読んでいたんですよね。顔出し看板って見る人も慣れてくるんで、いずれ追随する人が出てくる。それでいいと思っていたんです。というのは、そういったほかの顔出し看板は、結局きぬた歯科の宣伝になってくれるからです。他の顔出し看板を見ても、きぬた歯科を思い浮べるんです」
顔出しの看板は他の追随を許さないほどの数を建てた。他が追いつけないほどの数を建てるまで「看板はロマン」などと“おかしな院長”を演じ続けた。それがついてきた“ウソ”だ。効果があることを知られたくなかったからだ。
「もうほかは真似できない数だし、パクってもきぬた歯科が浮かぶレベルになったので、“言っていい”かなと。本当に先行者利益ですね」
「兄と一緒にやる看板がある」
とはいえ、医院から遠く離れた地域にまで看板を出すことに“効果”はあるのか。たとえば栃木県足利市の看板を見て、足利市から訪れる人は……。
「まったくゼロ。これはゼロです(笑)。ただ足利フラワーパークにある看板を見て来てくれた方はいます。6人くらい。これはペイ出来てますね。観光で東京から足利フラワーパークに行く人がいるからです。採算度外視で建てる看板もありますが、トータルで元が取れるようになっている。看板っていうのは安いんですよ。採算度外視というほどの採算じゃないんです」
現在340カ所程度。院長に「お気に入り看板はあるのか?」と聞くと、
「初めて兄と一緒にやる看板があるんですよ」
これが冒頭の看板だ。そう、実は『きぬた歯科看板』は2種類ある。ここまで話を聞いた泰和氏が院長を務める西八王子のきぬた歯科と、実兄である『きぬた久和』氏が院長を務める横浜市にあるきぬた歯科だ。経営はまったく別。横浜きぬたも大きな看板を掲げている。
“初コラボ”とのことなので兄・久和氏にも話を聞いた。弟・泰和氏も交えての取材となったが、ここまで“真剣”“命がけ”で看板論を聞いたが、兄弟が揃うとまた趣きの違うものとなり……。
(後編)に続く
“おすすめきぬた看板”3選
ファンとして、きぬた歯科看板の“マップ本”『きぬた歯科看板大全』を制作する、“大日本きぬた連盟代表”の『看板研究家 D.J.マメ』氏の“おすすめきぬた看板”3選
東京都八王子市『明神町交差点』の看板
「きぬた歯科の名を世に知らしめた1枚です。上の不動産会社が“歯が立たない”と書いたことで、人目を引くことに成功しました。国道20号・甲州街道沿い、八王子税務署近くにあります」(D.J.マメ氏)
東京都日野市「高幡交差点』の看板
「川崎街道と多摩都市モノレールが交わる箇所、ファミリーマート日野高幡店前にあります。当初は笑顔の院長の写真でしたが、ファミリーマートに阻まれた関係でデザイン変更を余儀なくされることに。結局怪訝な表情の院長が張り重ねられ、今に至ります」(D.J.マメ氏)
東京都立川市『天王橋』の看板
「立川市北西部、玉川上水にかかる橋のたもとにあります。かつては違ったデザインの看板でしたが、太陽にさらされ色あせてしまい、昨年リニューアルを実行しました。掲げられたポーズは、格闘技イベント『RIZIN』でのキャンペーンに伴い撮影されたものですが、Twitterで“これを看板に載せたら?”という声が上がり実現しました。これと同じデザインの看板は、他にも8か所見られます」(D.J.マメ氏)