1996年に結成した男性ダンス&ボーカルグループDA PUMP。それぞれが卓越したスキルを持つメンバー6人の中でも“最強のダンサー”といわれる男がいる。その名はKENZO。グループとして活動しながらも前人未到の8年連続ダンス世界大会優勝を果たし、男性アイドルグループ・INIのトレーナーとしてもその名を轟かせている。ダンスにかける情熱は“熱すぎる”KENZOのルーツに迫った―。
前人未到の8年連続世界大会優勝
2022年6月11日、千葉・幕張メッセに向かって、幅広い世代の人たちが足早に歩いていた。推しメンバーのツアーTシャツを着る女性たち、ストリートファッションの男性ファン、ダンスに夢中な小中学生、杖でリズムを刻むおばあちゃん─。
今日は、DA PUMP25周年のデビュー記念日、アリーナツアー「DA POP COLORS」最終日だ。
会場が暗転するとステージにスポットライトが集まり、真っ白な光に包まれて、ボーカルのISSAを含む6人が白い衣装を着て登場した。
「いくぜ!幕張―!」
ファンの熱狂が大きな拍手となってメンバーを包み込む。
メンバーの中で最も若いKENZOは、ステージのセンターでISSAの真後ろに立っていた。目の前には12歳のころテレビで見ていたISSAの背中。あれから25年がたち、今ステージを共にしている。ISSAの向こうにはどこまでも続くペンライトの海が見える。
アンコール含めて2時間半のライブの最後、KENZOはメンバーからファンへの挨拶の口火を切った。スクリーンにアップで映し出されたその表情は、涙をこらえているように見えた。
「今までいろんな思いをして過ごしてきました。今日をちゃんと迎えられるだろうかって昨日の夜もずっと考えていた。その不安を、皆さんの笑顔と拍手とペンライトが全部忘れさせてくれました。本当にありがとうございます」
◆ ◆ ◆
KENZOがDA PUMPに加入したのは、2008年12月。KENZOは、それ以前から国内外のダンスコンテストのタイトルを数多く獲得し、ダンスシーンの歴史を塗り替えてきた。次々と偉業を成し遂げ、世界を舞台に活躍。その実力を認められ声がかかったが、当初、その誘いを2度断っている。
「正直言って僕は芸能界に興味がなかったんです。当時は、何よりダンスを極めたかった。でも、最後、ISSAさんとお会いしたときの言葉で、その場で決心しました」
ISSAはそのとき、KENZOと長時間話した末にこう言った。
「俺たちもストリートダンサーだった。君の可能性を信じている。KENZOの力が必要だから、もしよかったら力を貸してくれないか」
DA PUMP加入後も、KENZOはグループでの活動と並行して、ダンスで世界への挑戦を続けていた。
マネージャーの大谷剛さんは、グループが不遇の時代からKENZOをいちばん近くで見てきた1人だ。
「全てにおいて、ダンスへの愛が彼を突き動かしています。ダンスに関して驚くほどストイックで熱い。いつも感心のひと言でしかありません」
KENZOは人生のほとんど全てをダンスに捧げてきた。実際、DA PUMP加入後にも前人未到の8年連続世界大会優勝を果たし、今や世界中のダンサーからリスペクトされる存在だ。
最近は、若手アーティスト育成オーディション企画のトレーナーとしてもその経験と実力を発揮している。グローバルボーイズグループのJO1を輩出したオーディション番組第2弾、『PRODUCE 101 JAPAN SEASON2』からは、昨年11月、INI(アイエヌアイ)が誕生した。
そのハイライト動画で、KENZOの発する言葉にダンス、人間への思いがあふれていると話題になっていた。
練習を十分しないままにダンスを披露したチームには、「エンターテイメント舐めるなよ。頑張れよ。練習しろよ。できる環境じゃねえやつだっていっぱいいるんだよ」
と、悔しさのあまり涙を流し感情を爆発させた。
ダンス未経験から人一倍練習し、確実に力をつけた練習生には、目を丸くして驚き、その努力を心から讃えた。
「自分を信じることができたんだな。まだまだダンス的には足りない部分がたくさんあるかもしれないけど、人の心を動かすダンスだよ」
KENZOがダンサーを育てるとき、自分が踊るとき、大切にしていることがある。
「ダンスを始めたころからずっと、よりカッコいい、よりすごいダンスを追求してきました。だから世界大会にも挑戦してきたし、それさえも通過点だと思ってきた。でも、『U.S.A.』のヒットが、人生の大きなターニングポイントになった。こんなにもたくさんの人を笑顔、幸せにできるダンスがあるんだなって本当に驚いたんです。
今は、ダンスって、踊りで自分を表現することだと思ってる。生まれ持った自分、そのたった1つの存在を表現すること。ダンスを通してたくさんの人に幸せになってほしいと思って活動しています」
ダンスのときはいつも笑顔
KENZOは九州、福岡県筑豊の炭鉱町宮田町(現・宮若市)に生まれた。田んぼが広がり、周りはなだらかな山に囲まれている。
「本当になんにもない田舎の一軒家で、家には井戸もありました。炭鉱マンだったじいちゃんとひいばあちゃん、両親と4歳年上の姉ちゃんの6人家族。子どものころは父親が独立したばかりで、高学年になって両親の仕事が軌道に乗るまでは、とても裕福とは言えない家だった」
おもちゃやゲームを買ってもらうことも、家族旅行に出かけることもない。それでも、近所の子どもたちと川や野原で日が暮れるまで泥だらけになって遊んだ。ゴミ捨て場で見つけたボロボロのボールでサッカーもした。
「小さいころは別になんとも思ってなかったけど、小学校に入って友達の家に行ったらフローリング、すてきな家具。うちの畳はすり切れてた。旅行やゲームの話をする子もいたけど、僕は姉ちゃんのお下がりの洋服を着てた。サンタクロースも来ませんでした」
母の益子さんは、幼いころからお遊戯をするのは楽しそうだったと話す。
「幼稚園で『おおきなかぶ』を演じたとき、リズムに乗って楽しそうに踊っていたのをよく覚えています。小学校でも、運動会のダンスはいつも笑顔でしたね」
身体を動かすことが好きで活発に外で遊ぶ一方、高学年になるとプラモデルやミニ四駆にも夢中になった。熱中するととことん追求する性格だ。自転車で家から30分以上かけて、いくつものプラモデル屋を巡ってパーツを集め、福岡市で行われた西日本大会で7位になったこともある。6年生では立候補して生徒会長も務めた。勉強も嫌いじゃなかった。
「小学校が1学年1クラスだけの小さな町で、生活保護を受けている家の子や給食費が払えない子もいたし、裕福な家の子もいた。貧富の差が激しい地域でした。僕は幼いながら劣等感があって、お金がなくても人よりキラキラできること、仲間と一緒に楽しめることってなんだろうってよく考えていましたね」
地元の中学に進学すると、のどかな環境は一変した。
「学校はひどく荒れていて、校舎の中をバイクが走ってた。番長がいて、昭和で時代が止まったような学校でした。先生も厳しく塀の中で管理されているような閉塞感がありました」
入学3日目に突然、番長グループに呼び出され、袋叩きにあった。腫れた顔を隠し、家族に心配をかけないように、「階段でこけた」と嘘をついてごまかした。
「野球部に入ったら、入部前は優しかった先輩たちも豹変しました。それは、地獄でしたね。荒れた学校をさらに凝縮したような部活だった。夏休みは練習前に20km走らされる。水も飲ませてもらえない。胃液を吐いてもまた走らされ、先輩の気分でお仕置きを受ける。今の時代では考えられない状況でした」
練習を休むことも退部することも許されない。弱い立場の人間に威張り散らし不条理な後輩いびりをする先輩たちにずっと疑問を感じていた。
「人間って多少のことじゃ死なないんだなって思うくらい追い詰められました。見下されたら負けっていう精神がその当時の先輩たちに浸透してて、目が合っただけで喧嘩が始まる。まるで僕が出演した映画『クローズZERO』みたいな世界。
精神力と身体能力は鍛えられたけど、先輩と同じやり方で自分を強く見せるのはカッコ悪いと思って、野球部の風習は僕らの代で終わりにしました」
ダンスとの出会い
ダンスとの出会いは中学3年、夏の大会で部活を引退した後のことだった。
夏休みのある日、深夜に受験勉強をしていると、たまたまつけたテレビでダンス番組が流れ始めた。司会はTRFのSAM氏。踊っていたのは福岡のダンスチームだった。
「そのダンスを見たとき、『カッコいい!こんなふうに踊ってみたい!』って、胸に稲妻が落ちたような衝撃を受けたんです」
それは『RAVE2001』(テレビ東京系)という番組だった。慌ててビデオテープに録画した。以来、毎週その番組を録画して、何度もスロー再生や一時停止を繰り返し、ポーズを確かめて見よう見まねで踊り始めた。酷使したビデオテープは擦り切れ、音も聞こえなくなってしまうほどだった。
「1つステップを覚えただけですごくうれしい。最高!ってなる。ダンスを踊ってみたくてたまらない。そんな気持ちは初めてだった」
野球部で無理強いされた練習と、自らやるダンスの練習の大きな違いにも気づいた。
「好きなことって本当に楽しい。全然うまく踊れなかったけど、ひとつひとつの動きが僕にとって輝く宝石に出会ったような感覚でした」
最初は家族に隠れて自分の部屋で独学で動きを覚えた。少し動けるようになると、家の前の道端や商店街のガラスの前が格好の練習場になった。1人で何度も練習した。
それを見ていた友人にすすめられ、文化祭のオープニングで初めて大勢の前でダンスを披露した。曲はモーニング娘。の『LOVEマシーン』。たった1人で舞台に上がった。
「披露できるチャンスがあるなら踊りたい。見てもらいたい!って、ただそれだけ。でも、反響はすごかった。今思えばとてもじゃないけど人前で見せられる踊りじゃないけど、ますますダンスが好きになりました。もっともっとうまくなりたいと思った」
タウンページで探しても近所にダンス教室はない。まだインターネットも普及していない時代、北九州市内のダンスイベントに足を運び、憧れていたダンサーに声をかけ、「ダンスを教えてください!」と頼み込んだ。
その紹介でレッスンを受け始めると知り合いも増え、ダンスの情報が集まり始める。福岡でいちばんダンスがうまい高校生がいるという噂を聞きつけ、その高校に進路を決めた。
実家が歩いて数分の場所にあり、幼稚園から兄弟のように過ごしてきた幼なじみの1人、春田賢吾さん(37)は、高校も大学も同じ学校に進学した。今はカメラクリエーターとしてKENZOの映像作品の制作に携わっている。
「俺は全くダンスに興味はなかったのに、KENZOの家に行くたびに撮りためたダンスのビデオを何度も見せられました。
中学まではそんなに目立つほうじゃなかったけど、ダンスを本格的に始めてすごい自信がついたんだと思います。高校では、文化祭のステージに上って、1500人の生徒の前で踊ってた。スゲーなって思う一方で正直、ジェラシーもありました(笑)。ダンスに夢中で誘っても遊んでくれなくなった。彼は全ての時間をダンスに使って、何かにとりつかれたように練習してました」
家から高校まで片道1時間の自転車通学。学校が終わると、競輪選手の練習コースになるほどの峠越えの道をダッシュで帰り、練習場所にしていた隣町のスーパー『サンリブ』に再び向かう。夕方6時から11時まで、ショーウインドーのガラスを鏡代わりに毎日5時間。週末になると、終電で博多駅に出て、夜中1時から朝の6時まで福岡市内のダンサーたちと練習した。
しかし、ダンスに熱中して夜遅く帰る息子を父は許さない。唯一の理解者は母だった。
「主人は理解してくれませんでしたね。とも(KENZO)は中3の秋ごろから夜も練習をしていましたが、夜遅く帰ると毎日のように厳しい言葉で叱責されました。主人が手をあげたこともあります。ともは黙って我慢していた」
ダンサーという職業がまだ認知されていない時代。仕事人間だった父は、息子の将来を案じていた。
「なんでそんな不良がやるようなことをするんだ」
「ダンスで飯は食えない」
母の知り合いも近所の人も、父親の意見が正しいと言う。受験勉強もする高校3年生の多忙な時期に毎夜、練習場所に車で送迎していた母の益子さんはそれでも送迎をやめなかった。
「私は、本人がやりたいと思うことは親がやめさせるべきではない、やめるかどうかは本人が限界を感じたときだと思っていました。それに、練習場所への送迎は私にとって、頑張っている息子を応援できる幸せな時間だったから」
上京、ダンスの頂点へ
高校卒業後、学業も続けることを前提に東海大学に進学。家賃3万円、4畳半ひと間の風呂なしのボロアパートに住み、バイトは必要最低限しかしないと決めた。
「できる限りの時間とお金をダンスに使いたかったんです。大学の授業が終わって、キャンパスが閉まると、東海大学駅前の広場に移動して毎日8時間練習してました。
移動に使う交通費やダンスの衣装代も捻出しなきゃいけないから、仕送りのお米とふりかけで1週間しのいだことも。定番は学食の150円のうどん。大学の近くにある山加食堂のナス味噌定食680円がご馳走でした」
遊びたいと思う暇もない。ダンスのためだけの生活だ。
「ストリートダンスの本場の空気を感じたい」と、初めてダンス留学したのはロサンゼルス。19歳だった。そのころ、ダンスの中心はニューヨークからロサンゼルスに移り、世界中からダンサーが集まり、盛り上がっていた。
「バイトして生活を切り詰めて練習の日々。お金が貯まったら長期休みのたびにLAに行きました。お金も時間も全然足りなかった。でも一度も、つらいとかやめたいと思ったことがない。ダンスがあれば今でもあのオンボロアパートに戻れると思います(笑)」
踊れば踊るほどダンスの魅力にとりつかれた。ダンス大会に初めて出たのは高校2年生のとき。福岡の大会で準優勝、大阪で開催された高校生の日本一を決める大会でも優勝していた。
それまでは大会やダンスバトルに出て結果を残すことにチャレンジしていたが、アメリカのエンターテイメントの世界や、あらゆるスタイルのダンスにも興味を持った。挑戦すれば実力はつき、ダンスの幅が広がる。ネットワークも増えていき、可能性が無限大に広がる手応えがあった。
2006年、21歳のときには、国内最大級のダンスバトル大会で優勝、1か月後には世界最大級バトルイベントでも日本一、ダンスコンテストの最高峰でも特別賞。日本では向かうところ敵なしとなる。
翌年、ストリートダンスの唯一の大会で日本一になると、その後、世界に10数名しかいない「キャンベル・ロックファミリー」のメンバーに認定された。ストリートダンス創始者から後継者として正式に認められたのだ。
その称号をもらったとき、創設者の1人、グレッグからの言葉をKENZOは今も胸に刻んでいる。
「ダンスの技術を伝えていくだけじゃなく、歴史も含めたカルチャーや、ダンスというものの身体表現自体を伝えていってほしい。KENZOのダンスには愛がある。君なら、きっと世界をつなげてくれる」
その後、世界中からゲストショーやダンス指導のオファーが殺到するようになった。
大学卒業後、目標としていた「ダンスを仕事にする」ことができるようになり、反対していた父親も認めてくれた。
インストラクターとして教えていた生徒はどんどん増えて300人を超える数になった。その合間を縫って海外でのショーやダンス指導にも足を運ぶ。審査員、アーティストのバックダンサーや振り付けなど、ダンスに関わる仕事はなんでも受けた。ダンスに明け暮れる充実した毎日─。
それでも、ある大きな疑問がずっと胸につかえていた。
「世界大会優勝は目標の1つでしたし通過点だと思っていました。僕が初めて世界一になったとき、ちょうどオリンピックをやっていたんです。金メダルをとった選手たちはメディアに取り上げられ、全国民に拍手を受けている。そして、生涯、金メダル選手として生きていくことができる。
でも、一方でダンスで世界一になっても生活は大きく変わらない。ダンサーには認知されても、社会的価値はほぼないに等しい。ダンスを頑張ってる後輩や子どもたちに、頑張ればすてきな景色が広がるんだよって言えるようにしたかった。ダンスの社会的価値を上げたい、何かを伝える存在になりたいという思いを持つようになりました」
DA PUMPにと声をかけられたとき、その突破口が見つかったような気がした。
「DA PUMPは、ストリートダンスを愛するグループで、ストリートダンスをメジャーに広げてくれた。僕もDA PUMPとして何かできるんじゃないか。そして、ISSAさんの力を貸してくれというひと言が僕を後押ししてくれ、加入を決めました」
ショッピングモールからの再出発
KENZOにとって、2018年のシングル『U.S.A.』のヒットが、ダンスに対する認識の大きなターニングポイントになっている。子どもからお年寄りまで、誰もが親指を立てて片足で踊った「いいねダンス」。DA PUMPは老若男女誰もが知る国民的なダンス&ボーカルグループになった。しかしそれまでの道のりは長く険しい。
1997年のデビュー以降、DA PUMPは本格的な歌唱力とストリートダンスを取り入れた先駆的なグループとしてヒットを飛ばし続け、5年連続紅白出場、ミリオンヒットを記録した時期もあった。
しかし、2009年のメンバー増員から10年間でリリースしたCDはわずか3枚。その間、新作のリリースやライブ開催もできず、解散が危ぶまれていた時期もある。新生DA PUMPを受け入れないファンもいた。
新加入したメンバーは、人生をかけ、覚悟を決めてDA PUMPに集まった。なのに思うように活動ができない。諦めのムードも漂っていた。
いつもメンバーを優しく包み込む存在でもあるTOMOは、そのときのことをこう語っている。
「当時の僕らは活動ができなくて目の前が行き止まりだった。DA PUMPの活動がない。
そんな中、ケンちゃん(KENZO)が、アイデアを出してくれたんです」
重苦しい空気の中、メンバー全員で集まって今後を話し合ったときのことだ。
「どんなステージでもいい。このメンバーでステージに立ちたい。俺、ずっと考えてきた案があるんです」
KENZOはショッピングモールからの出発を提案した。
「ISSAさんの歌や僕たちのダンスを見てもらえる環境さえあれば、皆さんに愛を届けることがきっとできる」
ISSAもメンバーもそこで気持ちがひとつになった。
「みんなでゼロからやろう」
全国のショッピングモールを回ることは、地方の子どもたちに本物のダンスを届けるチャンスでもある。KENZOは子どものころの自分をそこに重ねていた。
ららぽーと、イオンモール、全国のショッピングモールを細かく回った。どんなに遠くてもメンバー全員でハイエースに乗り込み、会場に向かう。駆け出しのバンドのような毎日だった。
「それは苦しい時間じゃなかった。本当に楽しかったですね。車の中で音楽かけて、ノリノリで。ISSAくん、ノってるときは『北酒場』歌ったりしてね(笑)」(TOMO)
どんな会場でも全力でやり抜いた。2年間やり続け、2000人の会場でライブができるようになった。
そして、2018年、3年半ぶりのシングル『U.S.A.』。その振り付けを考えたのがKENZOとTOMOだった。初めてのユーロビートの曲。TOMOの第一印象は、
「楽しそうな曲」
だったという。
「もうね、シングルを出せることがうれしいし、曲も楽しそうだし、みんな吹っ切って全力で楽しもうぜって、気持ちがひとつになったんです」
シングル『U.S.A.』は、リリース前からSNSでも話題になっていた。音にのせた「意味のない歌詞」、「ダサかっこいい」CDジャケットも起爆剤になった。ショッピングモールで全国を回ったことで、子どもからお年寄りまで幅広い世代が生でDA PUMPのダンスパフォーマンスに触れ、ファン層も広がっていた。ヒットの準備は十分だった。
5月19日、埼玉のMEGAドン・キホーテからリリースイベントで全国を回り始める。奥行きのない小さなステージからのスタート。回を重ねるごとに人が増えていった。
リリース当日の6月6日、池袋サンシャインシティ噴水広場は、1階のフロアから吹き抜けを囲む各階フロアの手すりまで、見渡す限りぎっしりとファンが集まっていた。
数か月前、いや、リリースイベントをスタートしたほんの数週間前には想像もできない状況だ。
特設ステージ裏の控室で、KENZOはマネージャーの大谷さんとこんな会話を交わしている。
「夢みたいだ。目を擦ったら消えちゃうんじゃないかな」
さらに、サビの部分で“ある光景”を見て、KENZOはハッとした。
「ステージ前のキッズスペースで、子どもたちが跳びはねながらすごい笑顔で『いいねダンス』を踊ってた。それを見た瞬間、胸がいっぱいになりました。僕の中のダンスの概念が大きく変わったんです。それまで、世界一、一流のダンスを目指していたけど、僕のダンスはこの子たちをこんなに笑顔にさせるダンスじゃなかった。一流のダンスも、始めたてのダンスも、最高だしすてきだ!っていう今までにない感覚を子どもたちに教えていただきました」
その年のレコード大賞優秀賞を受賞したとき、KENZOは号泣し、こうスピーチしている。
「本当に『U.S.A.』という楽曲で、僕たち夢みたいな時間を今年は過ごさせてもらってます。7人でこのステージで皆さんに感謝を届けたいし、21年間ずっと歌ってきたISSAさんと一緒に感謝を届けたいです」
どんなに小さなステージでも、どんなに立派なステージでも、権威があってもなくても、KENZOはいつも全力で踊り続けてきた。ストリートダンスシーンを牽引する思い、そしてDA PUMP全員の思いがあふれ、日本中がその涙に感動した瞬間だった。
次の世代へ
KENZOは、自分自身の研鑽だけでなく、ダンスの技術やその精神を伝えることを大切にしている。DA PUMPとなってからも、全国でワークショップツアーを行い、ダンサーを育て続けてきた。
今回の25周年ツアーにも登場したYUTA(32)は、KENZOが代表を務めるダンススクール「K Dance Academy」の社員で、嵐のバックダンサーや著名なアーティストの振り付けなど各方面で活躍している、期待を担う後輩だ。
「僕は大学を卒業した22歳のころに1年間本格的にレッスンを受けてたんですけど、それ以前は生徒全員を日本一に育てるようなレッスンですごく厳しかったようです。僕のころは少し丸くなったって先輩ダンサーも話していました。
僕はギリギリのお金で通ってたので、教わったものは何がなんでも自分のものにしようと思っていましたし、翌週には絶対にできるようにして行ってたんですけど、さらに洗練された世界トップの技術の課題が次々と与えられていく。だからこそ、自分を高めることができたと思います」
いちばん印象に残っているのはレッスン後に2人でうどんを食べたときのこと。夜中のなか卯のカウンターに男2人が並んで座り、イヤホンを片耳ずつつけて音楽を聴きながら、KENZOにダンスの講義を受けた。
「この音聞こえる?じゃあ、今、この音に合わせて手でリズムとってみて」
全ての生活をかけてダンスにのめり込んでいたYUTAに、KENZOは周りの目も全く気にせず熱心に教えてくれたと感謝の思いを募らせる。
「今思えばカップルみたいですよね(笑)。そのときは2人とも本当に熱かったから、なんとも思っていませんでした。僕の大事な思い出です」
KENZOはDA PUMPに加入してからも、ダンスがしたいという子どもたちのところに積極的にボランティアで足を運んできた。
「これまで、発展途上国や中国、東南アジアやフランス、ポルトガルの恵まれない人たちにワークショップをしたこともあります。世界のいたるところで、ごはんを食べるだけでもやっとという子どもたちが、ダンスに夢を託して踊っていた。日本でも下半身が動かないとか耳が聞こえない子どもたちにダンスを教えさせていただいたこともあります。
ダンスって、言語が生まれる前からある感情表現のひとつなんです。洗練させていけば自分が伝えたいことが伝えやすくなるだけのこと。いちばん大事なのは技術じゃない。心が躍ることが大切だと思います。その表現のもとになる自分らしさを大事にしてほしい」
ダンスを通してさまざまな環境に暮らす子どもたちに出会ってきた。夢半ばにして命を失った友人や後輩もいる。
「高校卒業の間際に、お互い目指す場所で日本一になろうと誓い合った友人を、その2週間後にバイクの事故で亡くしました。僕は彼が叶えられなかった夢の分も、自分の夢に向き合おうと決めました。今年の春にも、僕の後輩のダンサー、STYLEが不慮の事故で死んでしまった。29歳、これからっていうときでした。今はまだ、自分の中でも整理ができていないとこもありますが─」
KENZOは「これ以上話すとダメだ」とひと呼吸置いて、座り直した。
「だから、ダンスができる環境があって、スポットライトが当たる瞬間には、高みを目指す皆さんには全力で頑張ってほしい。
僕にできることは、皆さんがダンスというフィールドで少しでもスポットライトが当たる可能性やチャンスが生まれる舞台や瞬間をつくり出すこと。
人間生きていればいろんなことがあるし、うまくいかないことのほうが多い。僕だって、ここまでこられたのは仲間たちがいて、支えてくれるスタッフさんがいて、何よりも応援してくれる方々や家族がいてくれた。1人では絶対にここまでこられなかった。
でも、ダメなときこそ、その経験が自分を成長させてくれるっていう確信もある。それを子どもたちに愛や夢を持つ重要性として伝えていきたいと思っています」
アリーナツアー「DA POP COLORS」の後半、『Dream on the street』という曲では、KENZOがプロデュースを務め、メンバーそれぞれがDA PUMP加入以前から共に活動してきたストリートダンサーたちとステージに登場。アンコールで再び登場した彼らに、ISSAは最大の敬意をもってこう言った。
「オフィスビルのガラスを鏡に見立ててここまでやってきました。彼らに大きな拍手を」
KENZOのダンスに対する情熱は、ビデオを何度も巻き戻し、商店街で練習していた少年のころのままだ。幕張メッセでも、ショッピングモールでも、スラム街のストリートでも、今日も明日も、ただ全力で踊り続ける。
世界のダンサーからのリスペクトも集め、日本のダンスシーンを最前線で牽引する今、思うことはたったひとつ。
「たくさんの人がダンスを純粋に楽しめるように、応援できる環境づくりをしたい。みんなが笑顔でダンスができる世界をつくりたい。ただそれだけです」
DA PUMP25周年アリーナツアー後、KENZOは休む間もなく全国ダンスワークショップツアーに出発した。北海道から沖縄まで、ダンスを愛する全国のダンサーに、その熱い思いを届けるために。
〈取材・文/太田美由紀〉