「私は夢のある未来がほしいだけだ」
'20年に急逝した三浦春馬さんの最後の主演映画となった『天外者』で、彼が演じた五代友厚はこんなメッセージを叫ぶ。本来であれば、今頃は“名俳優”の名をほしいままにして、夢のある未来を手に入れていただろう。
あれから2年─。街のシネコンでは春馬さんの活躍を見ることはできなくなってしまったが、彼の地元・茨城県土浦市にある映画館では、いまだに出演作品の上映が続けられている。作品の反響について、土浦セントラルシネマズの館長・寺内龍地さんに話を聞くと、
いつの間にかファンの聖地に
「毎日、彼の映画を3本上映しています。12歳のときに、ここで舞台挨拶をしてくれた『森の学校』と、彼が主演する『東京公園』と『天外者』ですね。コロナが落ち着いてきたこともあって、北海道や沖縄、さらにはニューヨークからも外国人のファンが足を運んでくれます。4月5日の彼の誕生日には、映画の上映前に、寄せられたメッセージをスクリーン上で紹介するイベントを開催しました。実に2000ものメッセージが集まったんですよ」
春馬さんが小さなころからロビーを駆け回っていた映画館だけあって、思い出がたくさん詰まっている。
「いつの間にかここがファンの聖地みたいになってしまったみたいで、全国から彼に関するものがたくさん送られてきます。手作りの千羽鶴やTシャツ、ビーズでできた春馬くんの絵、こけしなどさまざまです。今年の命日は、特にイベントをする予定はありませんが、全国から“春友”が集まると思います。地元として彼の足跡をずっと伝えていきたいですね」(寺内さん)
彼がこの世を去ったのは、'20年7月18日のことだった。
「仕事のためマネージャーが春馬さんの自宅に迎えに行ったところ、連絡が取れず、インターホンも無反応。管理会社を通して彼の部屋に入ると、意識のない状態でした。すぐに病院に搬送されましたが、まもなく死亡が確認されたのです」(スポーツ紙記者)
あまりに突然の死にファンは悲しみに暮れたが、コロナ禍のため葬儀やお別れの会などは開催されなかった。
「亡くなった2日後に、所属事務所が“お別れできる機会を設けたいと考えている”と発表しましたが、結局、翌'21年の命日に追悼のウェブコンテンツが公開されるだけにとどまっています」(同・スポーツ紙記者)
世界中に影響を与えた感染症だけに致し方ない部分はあるが、“お別れ”の機会を与えられなかったため、ファンは“受け入れられない”気持ちがあった。そんな彼女たちの声に耳を傾け続けたのは、春馬さんのサーフィンの師匠である卯都木睦さんだ。
春馬さんのファンの心に訪れた変化
「春馬と僕との関係を知っているファンの子たちが、行き場のない思いをぶつけたかったのでしょう。亡くなった直後はひっきりなしに電話がかかってきて、常に携帯を充電しているような状態でした。“春馬くんは、なんで死んだんですか?”って電話口で40分くらいずっと泣いている方もいました」
三回忌を前に、そんなファンたちにも変化が。
「もう一度頑張ってみようっていう電話が増えました。訪ねてきてくれたファンの子には、春馬が元気だったころの話をするんです。彼女たちもだんだんと前向きになってきているような気がしますね」(卯都木さん)
最終的な目標として、博物館のような施設をつくりたいという。
「例えばですけど、春馬はよく忘れものをしていたんで、僕の車に忘れていったものを展示するとかね(笑)。ファンが集まれる場所をつくってあげたいです」(卯都木さん)
春馬さんの死はあまりに突然だったため、心の整理がつかず口をつぐむ関係者も多かった。時間の経過とともに、心にあいた穴も埋まってきたのだろう。「今なら話せる」と、関係者たちが在りし日のエピソードを語ってくれた。
「海外ロケに行ったときのことです。移動中に立ち寄ったドライブインで売っていたニット帽が気に入ったみたいで、ずっと眺めていたんです。当時、春馬くんはお小遣いは少ししか持たされていなかったようだったので、そこまで欲しいのならばと、買ってあげたんです。そうしたら、ものすごく喜んでくれて、その後もずっとかぶってくれていました」(テレビ局関係者)
当時はデジカメが当たり前の時代だったが、彼は使い捨てのインスタントカメラを1つ持ってきただけ。その感覚は、まさに“庶民派”だった。
「移動中には、いつの間にか私の大きなキャリーバッグを運んでくれていたんです。それも無言でサッとね。自然とそんな気遣いができる子だった。うれしくて泣きそうになっちゃいましたね。“天然な人たらし”という感じでしょうか。今でも笑ったときのクシャッとした顔を思い出します」(同・テレビ局関係者)
付き合いがあった理容室の店主が今だから明かせること
中学生のころから彼を知る映画関係者は、初めて会ったときのキラキラとした目が忘れられないという。
「あのとき春馬くんは中3だったかと思いますが、この世界では珍しいくらい、心がきれいで無邪気な少年でした。彼に“悪いことなんて一度もしてなさそうだよね?”って聞いたことがあったんです。すると“そんなことないよ。夜に友達と中学校に忍び込んで、校庭に寝っ転がって、きれいな星空をずっと眺めたことはあるよ”って(笑)。本当にピュアな子でしたね」
これまで、何度も取材を依頼されながら断ってきた“深い”関係者もいる。
「ずっと家族ぐるみの付き合いで彼の両親とも親しくさせてもらってるから、お客さんも含めて誰にもお話ししていないんです」
そう話すのは、中学時代に春馬さんが通っていた理容室の店主。いまだに事実を受け入れることのできないファンが多くいることを伝えると、「これくらいなら話してもいいか……」と、初めて重い口を開いてくれた。
「土浦に住んでいるころは専属のヘアメイクがついていなかったから、撮影中に髪が伸びてくると“前の髪型に戻してほしい”とか、現場からたびたび依頼がきていたんです。
上京してからは専属のヘアメイクがついたので、仕事で切ることはなかったのですが、たまに帰ってきたときにプライベートで来てくれましたよ。義理堅い子でしたね。夏の時季は“えりあしが伸びちゃって、暑いからちょっと切ってよ”とかね。忙しいのにわざわざ立ち寄ってくれてうれしかったね」
春馬さんはもういない。彼を愛した人たちが受け入れなければならない“事実”だ。しかし、演技や仕事に対するまじめな姿勢、そして周囲に見せていた笑顔は、私たちの心の中で永遠に生き続ける。