’74年、ディランのライブを見るためにロサンゼルスのホテルに泊まる拓郎(蔭山さん提供)

 吉田拓郎が年内で歌手活動を終了する。

「単独全国ツアー、大規模屋外コンサート、アーティストによる会社設立など、今ではごく当たり前のことを、日本国内で初めて行ってきたのが拓郎さん。また、中島みゆきさんや桑田佳祐さんをはじめ、米津玄師さんやあいみょんさんなど、さまざまなアーティストに影響を与えた日本音楽界のまさに“レジェンド”です。引退は残念という言葉しかありません」(音楽誌編集者)

 今年で76歳となった拓郎だが、突然の引退宣言はなぜなのか─。

ボブディランとザ・バンドの公演をみてショック

 拓郎は'70年に『イメージの詩』でデビュー。'72年には『結婚しようよ』がヒットして人気を博す。

当時のフォークは、反戦などイデオロギー的な要素を含んだ曲が多かった。拓郎は“それがフォークだと言うなら、そのレッテルを外したい。俺は個人的な感情を、誰もが普通に思うことを歌いたいんだ”とよく言っていました

 そう話すのは、拓郎のバックバンドを務めたフォークグループ『猫』の常富喜雄氏。

 個人的な思いを歌った拓郎はマイナーだったフォークという音楽ジャンルにスポットを当てて一変させた。

 時代の寵児となった拓郎だったが、大学時代の後輩である蔭山敬吾氏は、当時の意外なエピソードを明かす。

'74年にアメリカで開催されたボブ・ディランとザ・バンドの公演を拓郎さんと見に行きました。どんなライブをするのか純粋に興味があったんでしょうが、拓郎さんはその演奏力やパフォーマンスを目の当たりにして“俺には同じことをするのは無理かもしれない……”とそうとうショックを受けていました

’74年にロスのファーマーズマーケット時計塔での記念写真(蔭山さん提供)

 圧倒的な存在に打ちのめされたが、立ち上がる。

「アレンジが気に入らない」提供楽曲がヒット

 '74年12月には楽曲提供をした森進一の『襟裳岬』がレコード大賞を受賞。プロデューサーとしての手腕も発揮していく。前出の常富氏は、

僕たち『猫』も拓郎プロデュースですが、『雪』という曲があります。これは拓郎が自分のアルバムに入れた曲なのですが、“アレンジが気にいらないから君たちでもう一度歌ってくれ”と言われてリリースしたら、ヒットしたのです。本当にセンスのある人だと思いました

 '77年にはセルフカバーアルバムを発売する。

「拓郎は自身が提供した楽曲を、自分で歌ってアルバムを作るというのです。最初は何を言っているのかと思いましたが、このカバーアルバム『ぷらいべえと』がオリコン1位を獲得し、大ヒットを記録します。これも拓郎のプロデューサーとしての資質を見事に発揮した出来事でした」(常富氏、以下同)

 拓郎は、'99年に自らが設立に携わったレコード会社を離れた。

「長く在籍して吉田拓郎というアーティストのイメージが固まってしまった。だからこそ“新鮮な人に自分を料理してもらいたい”という思いがあったのです」

 新しいものを追い求めてきた拓郎だったが、引退を決めた理由はなんだったのか。

彼の最大の魅力は言葉と声ですが、それが思うように出なくなったからではないでしょうか。4年前ぐらいから、拓郎の声質が明らかに変わっています。彼は今も、自分の声だとは思っていないんじゃないかな

 6月27日にはラストアルバムが発売されたが、

「今回のアルバムも、とても面白いし完成されている。ただ、そこに吉田拓郎というものがどれだけ出ているのかというと……。拓郎は“もっとできるはずだった”と感じていると思います。プロデューサーの資質が非常に高い男ですから、思うように歌えていない自分をこれ以上はプロデュースできなくなったということだと思います」

若きカリスマ時代から抱えていた意外な一面

 多くの人を魅了するカリスマ性は以前から持っていたようだ。フリーアナウンサーの白井京子は広島の高校に通っていた'68年、当時の拓郎をこのように振り返る。

「まだ全国デビューする前の大学4年生でしたが、そのころ人気だった雑誌『平凡パンチ』で〝和製ボブ・ディラン”と紹介されて市内でも有名人。広島にある『本通り』という繁華街を歩くだけで〝拓郎だ! 拓郎だ!”と、人だかりができるほどの人気でした」

 白井は拓郎を中心に集まった〝広島フォーク村”に所属していた。

「〝村”といっても内容は音楽サークル。会費は特にとらず、当初は決まった集合場所すらなく、あとになってたまり場ができましたが、ビル内の12畳ほどのスペースでした。みんな学校の帰りに集合して、仲間同士でわいわい話し合ったり、ギターを弾いたりしていましたね。拓郎さんはいつも話題の中心にいましたよ」

 フォーク村とは別に、拓郎は河合楽器のギター教室で学生バイトもしていた。

「教室の廊下に女生徒の行列ができていました。私も通っていましたが、コードをどのように押さえるかを優しく丁寧に教えてくれました。怒られたりはしませんでしたね。ただ、可愛い子だけ月謝をとらずに教えたりもしていたとか(笑)」(白井)

 女性には優しかった一方、さんざん怒られたというのは、前出の常富氏。

「広島から上京して間もないころは、無愛想で全然打ち解けてくれませんでした。彼は〝東京の人間にナメられたくない”という気持ちが強かったのでしょう。よく〝ヘタクソッ”とか〝そんなんじゃ俺のバックはできない”と怒鳴っていましたよ。かなり鍛えられましたね」

 こだわりが強く、自分に正直。その気質は結婚生活でも同じだった。

最初に結婚したフォークグループ『六文銭』の四角佳子さんとは価値観の不一致で〝(一緒に)暮らしていくのは耐えられない”とラジオで離婚宣言。2度目の結婚をした浅田美代子さんとも、離婚会見の席で〝曲を作るには家庭を持つとダメだと思った”と言い訳しています」(スポーツ紙記者)

1972年、吉田拓郎(当時26歳)と四角佳子の結婚式にて

 他を寄せつけない雰囲気を醸し出していた拓郎だが、広島フォーク村の後輩の1人は意外な一面があったことを打ち明ける。

拓郎さんが上京する直前に〝おまえのギターを貸してくれ”と言い出したんです。僕の家の近くまで取りに来てくれたので手渡すと、肩に担いで〝ほいじゃ、行ってくるけ”と言って、そのまま東京に旅立っていって……。あの人、普段は全然ギターにこだわりはないから不思議でした。今となれば、東京に行く前に、地元の後輩のギターを背負うことで、自分を奮い立たせたかったのかもしれません

 それから時がたって'08年。その後輩は拓郎の変化に驚いたという。

広島フォーク村の同窓会として拓郎さんを交えて食事をしたんです。そのとき 〝ファンの言葉でもけっこう傷つくんだよな”と、ぼそっと言ったんです。それを聞いていた人が 〝それだけキャリアがあるのに、今さら傷つくなんてことがあるのか”と尋ねたら〝俺は傷つくんだよ……”と寂しそうに話していて。20代のころは一升瓶のお酒を半分ぐらい飲み干してからステージに立っていましたが、あれは繊細さの裏返しだったんだと思いました

 時の流れが、かたくなだった拓郎の心を、温順にしたのかもしれない。

同世代の歌手仲間に嫉妬して、嫉妬されて…

 '75年、拓郎は音楽業界に一石を投じる。井上陽水、泉谷しげる、小室等らとレコード会社『フォーライフレコード』を立ち上げたのだ。

'75年のフォーライフレコード発足記者会見の様子。結局'01年まで存続した(左から)泉谷、陽水、小室、拓郎

当時の歌手や演奏家というのは、地位が本当に低かったのです。芸能プロダクションやレコード会社が力を持ち、逆らえば干されたり、活動ができなくなってしまうこともありました。拓郎は常々〝ミュージシャンに強い発言力がないとおかしいじゃないか”と話していました

 同社で音楽プロデューサーを務めていた前出の常富氏は、そう設立の経緯を説明する。

 ビッグネームが並ぶなか、会社内で喧嘩などはなかったのだろうか。

「温厚でちゃんと言葉を選ぶ小室さんが社長に就任しました。陽水と拓郎はリスペクトし合っているのですが、どうにも仲よくなれない (笑)。お互いに見下されているのではと思ったり、その逆だったり。いろいろ考えてしまうようなのです。喧嘩するわけでもないし、仲が悪くもないんですが、2人だけで酒は飲めない関係ですね」(常富氏)

泉谷しげるとは馬乗りになっての殴り合い

 拓郎の大学時代の後輩である前出の蔭山氏は、

拓郎さんは〝陽水は本当に頭がいい。俺は3手先まで読めるが、あいつは7手先まで読む。陽水みたいなやつは会ったことがない”と打ち明けてくれたことがありました

 腹の探り合いでもしていたのだろうか……。

 一方で泉谷と拓郎はたびたび激しくぶつかった。

ムッシュかまやつの誕生日会では床を転げまわって、泉谷が拓郎に馬乗りになって殴り合いをしていました(笑)。よく喧嘩していましたね……」(常富氏)

 しかし、泉谷のこんなエピソードも。

「2人の関係が悪いときに、泉谷さんがライブで〝大っ嫌いなヤツの曲をやります”と言って、拓郎さんのデビュー曲『イメージの詩』を歌ったんです。泉谷さんは拓郎さんを本当は大好きなんだなって思いました」(泉谷のファン)

 拓郎が嫉妬していた人物は、ほかにも。

「小田和正さんです。当時はフォークバンド『オフコース』に所属していた小田さんですが、当初は拓郎のほうが売れていたんです。小田さんが〝拓郎みたいな曲が書ければ俺も成功するんだけど”って言っていたのを聞いたことがありますよ。

『オフコース』が売れてくると、拓郎は〝俺はあんな曲できないよ。♪さよなら、さよなら なんて、あー気持ち悪い”って嫉妬して(笑)。冗談めかして言って、悪意はないんですけどね。今もお互いを尊敬し合っています」(常富氏)

 拓郎のラストアルバム『ah-面白かった』にも小田は参加している。長きにわたる交友は、続いていく─。

CMソングが巷で話題も発売しなかったワケ

「拓郎さんって本当にたくさんの曲を作っているので、アルバムを持っていない人でも、誰もが1度は彼の曲を耳にしたことがあるはずです。わかりやすいところで言えば、CMの楽曲ですね」

 そう語るのは往年の吉田拓郎ファンの男性。

 確かに拓郎の曲は多くのCMに使われた。サントリー缶コーヒーのCMに採用された『今日までそして明日から』、TOTOやリクルートの求人情報誌のCMで使われた『人間なんて』などがおなじみかもしれない。

「CMのためだけに作った曲もあるんです。それらは商品を買ったら、そのオマケで販促用レコードとしてもらえたりした。一般には販売されておらず、アルバムにも入っていないんですよ」(同・男性)

ガイド本も出すほど、ハワイ好きとして知られる吉田拓郎。'02年の正月は森下愛子と夫婦でハワイに

 例えばどういう曲があるのだろうか。

サントリーのCM曲だった『ウイスキークラッシュ』はカセットテープの音源しかありません。これ、裏面が布施明さんなのです。拓郎さんがテレビ嫌いになったのは、布施明さんともめたから……というのは有名な話です。なかなか手に入らないお宝にはこんなクスッと笑えるエピソードもあるんです」(同・男性)

 と饒舌に語りつつ、あの有名アーティストが影響を受けたという、未収録のCMソングもあると続ける。

「富士フイルムのCMに使われていた『HAVE A NICE DAY』もそうですね。サザンの桑田佳祐さんはCMでこの曲を聴いて、自分も作曲をしようと思いたったと語っています」

 前出の音楽誌編集者は、ファンの間で長らく〝名曲”だと囁かれ続けたCMソングがあると明かす。

'72年に発売された軽自動車『スバル・レックス』のCMで流れる『僕らの旅』は、その後もファンに根強い人気があった曲でした。これは'02年に発売されたアルバムにアレンジされて収録されましたが、およそ30年以上も〝放置”されたままだったのです

 CM曲の収録にも参加していた、前出の常富氏に話を聞くと、

「懐かしいですね。富士フイルムのCMに僕らはコーラスで参加したんです。拓郎が高音、中音、低音とパートを決めて指揮もやってね」

 懐かしい思い出に、笑顔がこぼれる。でも、アルバムに収録しなかった理由は?

曲を作るときのモードが違うのでしょう。オリジナリティーを持つアーティストとしての吉田拓郎と、CM曲を提供する吉田拓郎は一緒にしたくないという気持ちがあったようです。僕としては〝アルバムに入れたら売れるのにもったいない”なんて思っていましたけどね。拓郎はハッキリと線を引いていました

〝こだわり”の積み重ねが、拓郎をレジェンドにした。

吉田拓郎が駆け抜けた半生 〜現在までの年表〜

'46年

▼鹿児島で誕生

'55年 9歳

▼両親が別居し、広島に転居

'62年 16歳

▼高校の級友とバンドを結成

'65年 19歳

▼広島商科大学(現在は広島修道大学)入学

'66年 20歳

▼フォークコンテストに出場し全国3位に

'68年 22歳

▼アマチュアフォークサークル“広島フォーク村”結成

'70年 24歳

▼上京して4月にレコード会社『エレックレコード』に契約社員として就職。6月に同社で『イメージの詩/マーク2』でデビュー。11月にファーストアルバム『青春の詩』発売

'71年 25歳

▼『よしだたくろうとミニバンド』で『第3回中津川フォーク・ジャンボリー』に出演し『人間なんて』を2時間絶叫して話題に

'72年 26歳

▼1月にCBSソニーから『結婚しようよ』をリリース。6月に『六文銭』メンバーの四角佳子と結婚。7月にアルバム『元気です。』発売。小室等らと『新六文銭』を結成するも4か月で自然消滅

'73年 27歳

▼国内初となる単独全国ツアーを開催。4月に金沢公演の夜に女子大生に暴行した疑いで逮捕。後に虚偽であることが判明して不起訴に。6月にアルバム『伽草子』発売

'74年 28歳

▼森進一に提供した『襟裳岬』が第16回日本レコード大賞を受賞

'75年 29歳

▼かまやつひろしに提供した『我が良き友よ』がヒット。6月に井上陽水、泉谷しげる、小室等と『フォーライフ・レコード』設立。8月に『かぐや姫』と静岡県掛川市にあるリゾート施設『つま恋』で屋外オールナイトコンサートを開催し、7万人を動員。9月に四角と離婚

'76年 30歳

▼6月に小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任。7月に浅田美代子と結婚

'77年 31歳

▼プロデュースした原田真二がデビュー

'82年 36歳

▼映画『刑事物語』の主題歌『唇をかみしめて』発売。フォーライフの社長を辞任

'84年 38歳

▼8月に浅田と離婚

'85年 39歳

▼『つま恋』で2度目となるオールナイトコンサートを開催

'86年 40歳

▼森下愛子と3度目の結婚

'89年 43歳

▼シングル『落陽/祭りのあと』発売

'94年 48歳

▼NHK紅白歌合戦に初出場するも、その後「二度と出ない」と公言

'96年 50歳

▼10月にKinKi Kidsと司会進行を務める『LOVE LOVEあいしてる』がスタート

'99年 53歳

▼フォーライフレコードとの専属契約を解消

'00年 54歳

▼『インペリアル・レコード』に移籍

'03年 57歳

▼肺がんを患い、摘出手術。10月に復帰コンサートを開催

'06年 60歳

▼『吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋 2006』開催。サプライズゲストとして中島みゆきが登場

'07年 61歳

▼ブログで更年期障害や、うつ病を告白

'09年 64歳

▼『エイベックス』に移籍。6月に生涯最後の全国ツアーをスタートするも、7月の大阪公演の開始直前に慢性気管支炎の悪化により公演を中止

'14年 69歳

▼のどにがんを発症('19年に告白)

'22年 76歳

▼6月24日、年内で音楽活動から引退する意向を明らかに