具志堅隆松さん 撮影/渡瀬夏彦

 家族のもとへ帰してあげたい―、その一心で遺骨を地中から捜し出し、歴史までも掘り起こす。具志堅隆松さんはボランティアとして40年近い歳月を捧げ、戦没者の声なき声に耳を傾けてきた。戦争につながる基地をつくるために、遺骨のまじった土砂を使わせるわけにはいかない。そう決意して開始したハンスト抗議には、世代を超えて、全国に支持や共感の声が広がっている。今も戦争の爪痕が色濃く残る沖縄で、東日本大震災の被災地・福島で、具志堅さんの活動を追った。

約40年、無数の戦没者遺骨を発掘

 沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表・具志堅隆松さんの話を初めて間近で聴いた場所は、米軍の新基地建設工事が強行される沖縄県名護市辺野古だった。もう7~8年も前の話である。

 第2次安倍政権が新基地の「本体工事」着工を宣言したのが2014年7月1日で、それから間もないころ、筆者は頻繁に現地に通っていた。そんなある日の米海兵隊基地・キャンプシュワブのゲート前、具志堅さんは、新基地建設に反対する座り込み集会の場で、こう語り始めた。

「ここ(キャンプシュワブ)には、かつて(1945年当時)米軍の大浦崎収容所がつくられ、本部町、今帰仁村、伊江村の人たちが集められて生活していました。しかし環境が劣悪でマラリアなどもまん延し、300名以上の人が亡くなっています。遺骨はまだ、フェンスの向こうのアスファルトで固められた地面の下に眠っています。

 私はその骨を掘り出してあげたいと思っています。遺族のもとへ帰してあげたいと願っています。ところが今、日米政府がやろうとしていることは、どうでしょうか。ここに新たな滑走路までつくって、そのコンクリートの下に遺骨を永久に閉じ込めようとしているんです。これは死者に対する冒涜です」

「ガマフヤー」を名乗る具志堅さんの存在は以前から知っていた。ガマフヤーとは、沖縄の言葉で“ガマを掘る人”の意味。沖縄戦では、ガマと呼ばれる自然洞窟に住民や兵士が逃げ込み、多くの人が命を落とした。28歳のころから遺骨収集のボランティアを始めた具志堅さんは、約40年も沖縄戦激戦地の南部地区を中心に、無数の戦没者遺骨を発掘してきたのだ。

沖縄県

 例えば'09年、那覇新都心おもろまちに近い、かつて米軍が“ハーフムーン”と呼んだ激戦地の丘(那覇市真嘉比)で大規模な遺骨収集作業が行われたとき、その先頭に立っていたのも具志堅さんだ。日本兵を中心に100体以上もの遺骨が発掘・収集された。だが筆者は当時、その事実を報道によって知るのみだった。

 そんな筆者も具志堅さんの存在を強く意識するようになったのは、実は、この辺野古ゲート前でのスピーチを聞いた日からだった。説得力に満ちた具志堅さんのその声は、耳の奥に残った。

「死者に対する冒涜です」

 それから何年もの時が流れ、辺野古の新基地建設計画があらゆる観点から見て完全に間違いであるという確信は、さらに深まっている。

 その理由は、県民投票や知事選などで、新基地建設への反対が再三示された「沖縄の民意」を政府が踏みにじり続けていること。軟弱地盤が発覚し、地盤改良のめども立たず完成するかもわからない杜撰な建設計画に、兆単位の税金が無駄遣いされようとしていること。そもそも希少生物が棲む世界に誇るべき宝の海を破壊しようとしていること等々、枚挙にいとまがない。

 けれども、その新基地建設を絶対に許してはならない、との確信の「原点」はといえば、今思えば、「人道上の大問題」を具志堅さんが明確に教えてくれたことにあった。

「死者に対する冒涜」にハンストで抗議

 '21年3月1日から6日まで、沖縄県庁前の「県民広場」で、具志堅さんはハンガーストライキの座り込み抗議を決行した。

 自らを励ましに訪れる多くの県民やマスメディアの記者、筆者のようなフリーランスの取材者に対して、具志堅さんは口を酸っぱくして、こう語り続けた。

「世の中には“間違っている”と言い切れることは、そう多くありません。しかし今、国がやろうとしていることに対しては、“間違っている”と断言できます。これは死者に対する冒涜です」

 '20年4月、政府(防衛相沖縄防衛局)が辺野古の新基地建設に使う埋め立て用土砂を、県内南部(主に糸満市・八重瀬町)から大量に調達する計画があると知り、具志堅さんは怒りを禁じえなかった。

 その年の9月には、ついに糸満市米須のかつての激戦地の丘陵の森が切り崩され始めたことに気づき、遺骨発掘に入り、11月初旬には「熊野鉱山」と名づけられた採石場で遺骨を発見・収容し、もはや居ても立ってもいられぬ心境に至った。そうして具志堅さんは、ハンストでわが身を削ってでも、この理不尽な現実を世間に訴える、その覚悟を決めたのだ。

 具志堅さんがハンストを決行しつつ行政側に求めたことには、明確な2つの柱があった。

 1つは、沖縄防衛局による南部の土砂採取の断念。もう1つは、沖縄県知事は自然公園法33条2項による採石事業中止命令を発令すること。

 ハンスト中、連日マイクを握って県庁舎のビルを見上げ、「(沖縄県知事の)デニーさん、助きてくみそーれ!(助けてください!)」と呼びかける具志堅さんの姿は鮮烈な印象を残した。

今年6月22日、23日と2日間のハンストを決行。具志堅さんのもとへ玉城デニー知事が激励に 撮影/渡瀬夏彦

 そんな具志堅さんの思いに、ハンスト以前の早い段階から応答していた人たちがいた。『平和をつくり出す宗教者ネット』だ。キリスト教徒、仏教徒らが中心となり、沖縄の神人も加わり、宗派を超えて、具志堅さんに寄り添う行動を昨秋の時点で開始している。以来、糸満市の現地視察、慰霊祭、あるいは永田町の国会議員会館での記者会見、報告会、学習会などを何度も重ねてきている。

 事務局を仕切る日本山妙法寺僧侶の武田隆雄さんは、あるとき筆者にこう語った。

「仏教徒が御骨を大切に考えることは当然ですが、私たちは、この問題を通じて知った具志堅さんの考え方に感銘を受け、その声をぜひとも広めなければならないと思いました。具志堅さんの言葉には、あの阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さん(※)に通じる、思想信条を超えた非暴力の平和運動の尊さを見る思いがします」(※伊江島で非暴力抵抗の反米軍基地闘争を展開するなど、戦後沖縄の平和運動の象徴的存在)

 宗教者が広めたいのは、具志堅さんの次のような声であろう。それは筆者自身もハンストの現場で、あるいは学習会などで、直接何度も聴いてきた話だ。

「戦争の犠牲者の遺骨のまじった土砂を海に投げ入れて、新たな軍事基地をつくるなんて、これはもう死者への冒涜です。遺族にしてみれば、まだ自分たちのもとへ帰ることができないでいる身内を、2度殺されるようなものです」

 具志堅さんは昨年、防衛局に沖縄南部の土砂の採取計画を中止するよう要請を行ったとき、職員らにこう言った。

「“あなたたちは、あの場所に遺骨があるとわかっていてこういう計画を立てたのですか。そうだとすれば、完全に人の道に外れたことをしていますよ。今、私はかなり厳しい言葉を突きつけているわけだけれども、反論があるならどうぞ言ってください”と。しかし、防衛局のお役人からは、悲しい反応しか返ってきませんでした」

 彼らは「辺野古埋め立て用土砂として今後の採取地や業者はまだ決まったわけではない。業者が適切な方法で土砂を採取するものと思う」と、菅前首相の国会答弁と同じ話を繰り返す以外には、何も言わず黙ったままだった。つまり、わかって計画していると認めているに等しい態度。具志堅さんはこう続けた。

「これは基地に賛成とか反対とか以前の、人道上の大きな問題です。保守とか革新とか党派とか、政治的な立場も関係ありません。国は、死者への冒涜をやめるべきです。遺骨のまじった土地の土砂を採取すべきではありません」

 ハンスト初日、具志堅さんは報道陣を含む多くの来訪者への対応に追われていたが、筆者はわずかな時間、テント小屋に座り込んだ具志堅さんの眼前の地べたにあぐらをかく格好で正対し、会話を交わすことができた。そのときの言葉も、感慨深いものがあった。

ハンストの場には前参院議員の糸数慶子さんの姿も。さまざまな人が表敬訪問した 撮影/渡瀬夏彦

 まず具志堅さんがこう語った。

「激戦地だった場所に眠っているのは住民の遺骨だけではありません。日本兵も米兵も、台湾や朝鮮から連れてこられた人たちも、そこに眠っています。みんな家族のもとへ帰りたいはずです。住民も兵士も、遺骨となって眠っている人たちは、みんな戦争で殺された犠牲者なんです。人種で差別などしてはいけません」

 筆者は、少し時間をおいてから(単に訪問者が多すぎて対話を中断したのだが)、こう問うた。

「具志堅さんはウチナーンチュ(沖縄の人)として、理不尽かつ悲惨極まりない戦争に巻き込まれたウチナーンチュの尊厳を守りたいという思いも当然お持ちのはずですが、長きにわたって遺骨収集をされている中で、日本兵にも米兵にも守られるべき尊厳がある、という考えに至ったのは、いつごろからですか」

 具志堅さんの返答は早かった。

「それはやはり、初年度からですよ。ガマで遺骨と向き合って、戦争で殺された人はみんな犠牲者なんだとつくづく思いましたよ」

 具志堅さんの想像力、もっと簡単に言えば、人を思いやる力は、すごい。

 骨が横たわっている形や場所から、その人の最期の状況を想う。その人は、どんな思いで、何を叫びたくて、このガマで死んでいったのだろうか。臨終の姿をリアルに思い描きつつ、具志堅さんは祈り、そして遺骨を収容する。

 以上のことは、念願かなって具志堅さんの遺骨発掘の現場に同行させていただいたことで、痛いほど実感できた。

ハンスト現場に多様な立場の老若男女

 具志堅さんの「心ある言葉」に感銘を受けたり、励まされたり、感謝したり、勇気づけられ、何か行動しなければいけないと発奮するに至ったりした人は、たくさんいる。

 例えば県庁前のハンスト現場にはまさに、多様な立場の老若男女が訪れた。

 92歳の島袋文子さんは、住まいのある辺野古から那覇に駆けつけた。

 沖縄戦時16歳の文子さんは、目の見えない母と10歳の弟の手を引いて、必死で戦場を逃げ延びた体験を語り、そして具志堅さんへの感謝の念を惜しみなく表現し、熱いエールを送った。

「2度と戦争を起こしてはいけないんです。具志堅さん頑張ってください。私も応援しています」

 悲惨な戦争の体験者はみな、戦争の犠牲者を冒涜する者ならば、平気で次の戦争も起こしかねない、との危機感にかられるのだ。

沖縄戦を経験した島袋文子さん(左)も具志堅さんにエールを送る 撮影/渡瀬夏彦

 ハンスト初日の集会で司会役を務めたのは、早くから具志堅さんに寄り添ってきたひとり、沖縄平和市民連絡会の北上田毅さんだ。しかし、島袋文子さんからマイクを受け取ってしばらく、北上田さんは絶句していた。これまで情報開示請求を繰り返し、その公的文書を精緻に分析し、沖縄防衛局の数々のデタラメを暴いてきた人である。冷静沈着な姿勢で知られている北上田さんがこみ上げるものをこらえ切れず、しばし沈黙した。非常に珍しい姿だった。

 文子さんの1歳年上、93歳の横田チヨ子さんは宜野湾市在住。辺野古や本部塩川港や琉球セメント安和桟橋など、新基地建設強行に対する抗議の現場で、筆者も幾度となくお会いしている人だ。具志堅さんの県庁前ハンストの激励にも、路線バスを乗り継いで駆けつけた。横田さんの口ぐせは、「私は戦争の悲惨さを伝える役目があるから、長生きしないといけないし、ボケてる暇はないのよ」である。

 横田さんはマイクを握ると“サイパン戦の生き残り”としての体験を語り、身内の遺骨を拾うこともできない遺族としての苦しい思いを切々と語った。

 若者たちが具志堅さんのもとへ歩み寄る姿もたくさん目撃した。

ハンスト中、取材を受ける具志堅さん。6月23日の「沖縄慰霊の日」は平和祈念公園で実施 撮影/渡瀬夏彦

 ハンスト3日目に、現場で歌を披露し、年長者たちと語らう姿が印象的だったのは、その春、大学4年生になる糸満市民の友人同士2人。琉球大学生の島袋愛野さんと、春休みで帰省中の鳥取環境大学生・杉本糸音さんだった。

「遺骨のまじった土砂を基地建設に使うと聞いて、それは駄目でしょうと思いました。私たちは子どものころから平和学習などで激戦地には犠牲者の遺骨が今も眠っていることを知っていますから。地元の人間として、すごく身近な場所なので、他人事ではないと思いました」

 若者たちの中には、戦争体験や基地問題から遠ざかってしまっている人も少なくない。筆者が「同世代の人たちに関心を持ってもらうには、どうしたらいいと思いますか?」と水を向けると、杉本さんはこう答えた。

「私は大学生になって県外へ出てみて、本当に戦争のこととか基地問題とかは話題にしにくいな、みんながタブーにしてしまっているな、と感じました。そうだとすれば、沖縄の若者だけでも、タブーじゃないよ、普通に話そうよ、という感じにしていければいいなと思います」

 辺野古への埋め立ての賛否を問う県民投票を実現させた、『「辺野古」県民投票の会』元代表の元山仁士郎さんが、かつて語っていたことと重なる。元山さんは普天間基地のある宜野湾市出身だ。

「進学のために東京へ出てみて、軍用機の騒音ひとつない街を知りました。今まで当たり前のように感じていた基地の存在は、実は異常なんだ、と初めて気づきました」

 元山さんと同世代(20代後半)で、彼と行動をともにしていた時期のある女性2人とも、県庁前でバッタリ会えた。筆者とも旧知の仲だが、戦争を忌避する思いや基地問題への関心も強い彼女たちが「遺骨土砂の問題は、具志堅さんのハンストが(県内メディアで)大きく報道され、初めて知りました」と、口をそろえた。

 考えさせられる言葉だった。戦争の悲惨さを語り継ごう、風化させてはいけない、と頭ではわかっていても、戦後75年を超えてなおも政府が沖縄に対し押しつけてくる理不尽な状況(「遺骨土砂」採取計画もそうだ)については敏感に反応することさえ難しい。

 一方、非常に頼もしいと感じさせてくれる、特筆すべき動きもあった。ハンスト中に「具志堅さんのハンストに応答する若者緊急ステートメント」を発表する、元山さんをはじめとした若者たちのグループが現れたのだ。

 彼らのステートメントのポイントは、3点。

・日本政府、防衛省沖縄防衛局は、速やかに沖縄本島南部の土砂採掘計画を中止すること。

・沖縄県知事は、自然公園法33条2項をはじめとする法律を検討し、防衛局が行おうとしている沖縄本島南部の土砂採掘計画の早急な中止・制限を決定すること。

・本土のメディアが、本件について大きく報道すること。

 このうち「県知事が計画を中止・制限すること」に関しては、玉城デニー知事が'21年4月16日の記者会見で、採掘業者に対する中止・制限の一歩手前の「措置命令」を出すにとどまった。

 それでも、鉱山開発業者側は、県の決定に対して総務省の公害等調整委員会に不服申し立てをし、現時点では、調整委員会が業者と県の双方に示した和解案を、県が受け入れた形になってしまっている。具志堅さんは、県が和解案を飲むことは実質的に開発業者にお墨付きを与えることであり、許容できるものではないという認識を示している。

 筆者も、県側の認識の甘さを指摘せざるをえない。それは、具志堅さんとともに遺骨発掘現場に入って理解できたことと関係がある。

遺骨の発掘現場でわかった「骨の軽さ」

 '21年5月、念願かない、筆者は具志堅さんから遺骨の発掘現場でマンツーマンのレクチャーを受けることができた。

暗いガマの中で土を丁寧に取り除き、遺骨を掘り起こす。この作業を約40年続けてきた 撮影/渡瀬夏彦

 具志堅さんはピンセットで小さな骨片や石のかけらをつまんでは、筆者の掌に載せてくれた。こう告げながら。

「はい、これが石。これが骨……」

 私のような素人には、見た目では石か骨か、まったく判別がつかない。掌に感じる重みによって、ようやくわかった。骨は軽いのだ。

ガマでの発掘で見つかった戦没者の遺骨。小石と見分けがつかず、判別作業は素人には困難 撮影/渡瀬夏彦

 私は、思わず大きな声を上げた。

「採掘業者が適切に遺骨を処置するなんて、不可能ですね!」

 具志堅さんが主張している意味がよく理解できた。大きな骨の発見は業者でも可能かもしれない。だが、この一帯の土地には、石か骨か木片かも判別しにくい状態で、無数の遺骨が眠っている。

 遺骨には、このままこの土地に眠ってもらい、みながこの場所で弔うことが望ましい。この土地一帯を慰霊の地として環境保全を図り、子どもたちの平和学習のための土地として活かしていくべきである。具志堅さんの提言は、実に正しいと実感できた。

政府に訴える沖縄戦遺族の嘆きと叫び

 '21年4月21日、防衛省沖縄防衛局の「設計変更申請」からちょうど1年後。永田町の衆議院第一議員会館で行われた、具志堅さんらによる防衛省・厚労省交渉と院内集会は、コロナ禍で入室制限もある中、静かにして熱い空気に包まれていた。

 官僚たちは「辺野古への埋め立て用の土砂が南部の鉱山から調達されると決まったわけではない」、「遺骨は業者の配慮を経て適切に収集されると認識している」などと話し、用意した文言を読み上げるだけ。彼らが誠意や真摯さの感じられない態度に終始する一方、交渉に臨んだ具志堅さん、北上田さんたちの言葉は対照的だった。

 とりわけ、沖縄戦で若き陸軍大尉だった祖父を亡くしている遺族・米本わか子さんの訴えは非常に中身が濃く、説得力に満ちていた。

 祖父がまだ沖縄南部の土地に眠っていると確信する米本さんは、官僚の答弁に怒りを隠さず、涙ながらに訴えた。

「戦争で殺され、採掘業者に殺され、辺野古の海に埋められ、どうして私の祖父は、3度も殺されなくてはならないんですか!」

沖縄戦遺族の米本さんは、基地建設に遺骨まじりの土砂を使わないよう遺影を手に訴えた 撮影/渡瀬夏彦

 それを補完するように、この政府交渉に立ち会った政治家のひとり、川内博史衆議院議員(当時)がこう述べたとき、筆者も目からウロコの落ちる思いがした。

「ご遺骨が、そこにあるということがわかっていて、それを埋め立てに使うというのであれば、それは死体損壊罪に当たりますよ。その法解釈が防衛省と厚労省できちんとできているのか、という話ですよ」

 まったくそのとおりだと思った。

 具志堅さんは、さまざまな場で何度も強調してきていることを、その日の院内集会でも語っていた。

「業者に遺骨収集を任せるなんて無理です。小さな骨や薄い骨は、土砂に溶け込んでいます。骨だけでなく、血も肉も染み込んだ土地です。そういう場所は手をつけずに、慰霊の場所、平和のための学習の場所として環境保全を強化すべきだと思います」

 具志堅さんが一石を投じた波紋は大海へと広がり続けるはずだ。そうしみじみ思えた瞬間だった。なぜなら、具志堅さんの発する言葉には、いつでも普遍的な力が備わっている。

津波で亡くなった娘の遺骨が見つかる奇跡

 具志堅さんが遺骨を捜す場所は沖縄だけに限らない。'22年1月、具志堅さんは正月休みを利用して、単身福島県の大熊町の帰還困難区域へと向かった。

 その地域では、東日本大震災の津波によって、父・妻・次女の家族3人の命を奪われた木村紀夫さんが、唯一遺体の見つかっていない次女の汐凪(ゆうな)さん(当時7歳)の遺骨捜索を続けている。

 '21年にフォトジャーナリストの安田菜津紀さん・佐藤慧さん夫妻によって、木村さんと引き合わされた具志堅さんは、迷わず協力を申し出て、福島へ駆けつけたのだ。

 元日に現地に到着、打ち合わせを終えた翌日の1月2日、具志堅さんが加わって本格捜索を開始した。すると、わずか20分後に、なんと汐凪さんの右大腿骨の大きな遺骨が見つかったのである。

 木村さんにとっては久々の愛娘の遺骨との対面だった。その瞬間、2人の顔には満面の笑みが浮かんだ。

具志堅さんとともに津波で亡くなった次女の遺骨を捜す木村さん

 具志堅さんは「よかったぁ」としみじみとした声を上げ、木村さんは手にした愛娘の大腿骨を愛おしそうにしばらく見つめ、「もっとここを重点的に捜さなくちゃいけないということだね」とつぶやいていた。

 具志堅さんに言わせると「これは父と娘が呼び合った結果だね。奇跡的ですよ」ということになる。だが、筆者から言わせると、具志堅さんが参加しなければありえなかった「奇跡」であり、具志堅さんの持っている「計り知れない力」に驚嘆する。

 この出来事の一部始終は、安田菜津紀さん・佐藤慧さんがYouTubeの動画レポートで配信している。それを見て筆者は、感涙にむせんでしまった。

 木村さんは東日本大震災で家族を失ったばかりか、福島第一原発事故により、その捜索も打ち切られてしまった。以後、避難先から自宅のあった大熊町に通い続けてきた。

 3・11から5年9か月後、汐凪さんの遺骨の一部が見つかったが、その場所は原発事故で汚染された土壌を一時的に保管する『中間貯蔵施設』のあるエリア。周囲のほとんどの家庭が中間貯蔵施設の建設のため自らの土地を売却する中、地元で遺骨捜索を続けている遺族は、今では木村さんだけ。自分だけがわがままな行動を続けているのかもしれない……、そう思い、引け目を感じてきたという。

 そうした事実と心境を'21年の夏、沖縄で具志堅さんに会ったときに伝えた木村さん。

 すると具志堅さんは、即答した。

「引け目を感じる必要なんかありません。1人を大事にしない社会が、どうしてたくさんの人を助けることができますか。私はいつでも協力しますよ」

 そこから始まった2人の付き合いだが、その後、一層の信頼関係を築きつつある。

 木村さんは沖縄へ通って沖縄戦や基地問題について深く学ぶようになり、具志堅さんは今年5月のゴールデンウイークも丸々、大熊町での汐凪さんの遺骨捜索に費やした。

 筆者も5月の連休は、具志堅さんに密着取材をした。取材ではあるが、ささやかながら作業の助っ人役も務めさせていただいた。筆者だけではない。取材に来た新聞記者、フリーランスのライター、写真家らのほとんどが、自然と作業を手伝う格好になっていた。そうさせる力が、その場には満ちていた。

 5月の連休の実質丸4日間、みなが全力で遺骨捜索に取り組んだのではあるけれど、残念ながら、小さな骨のひとかけらも見つけることはできなかった。今回は、沖縄から「ガマフヤー」のボランティア仲間2人も具志堅さんに同行した。遺骨発掘の経験豊富な2人は、まさに本気で作業に取り組み、本当に残念がっていた。

 筆者ももちろん残念に思ったが、具志堅さんの次の言葉は、見事にわが胸にストンと落ちてくるものだった。

「汐凪さんの遺骨が見つからなくて、確かに残念ではあるんだけど、でも、これでいいんですよ。みんなが汐凪さんに近づこうと一生懸命に動きましたね。それが慰霊なんです。弔うって、そういうことだと思うんですよ」

 被災から11年、木村さんは真剣に思い詰めてきた。

「汐凪がいつもこう言っている気がするんです。“お父さん、私を捜して。ここで何が起きたのか、みんなに伝えて”と。だから、頑張らなくちゃと思ってきました」

 その木村さんが、遺骨捜索のために集った筆者たちを前に、笑顔で語った言葉も忘れられない。

笑顔を浮かべる具志堅さんと木村さん。お互い、交流と信頼を深めてきた 撮影/渡瀬夏彦

「こうやって、この場所で(捜索作業の参加者)みんなで笑顔で話もできるって、すごくいいな、と思えます」

 具志堅さんは言う。

「汐凪ちゃんだけではなく、津波で亡くなって、まだご遺体も遺骨も発見されていない方は多いですよね。

 それなのに、遺骨捜索もきちんとしないまま、東北地方のあちこちで巨大な防潮堤をつくってしまったり、嵩上げ工事で土砂を積んでしまったりしていますね。これはやはりおかしいと思います。個人の尊厳をないがしろにしたまま、それがはたして復興と言えるのか。

 ましてや、木村さんが暮らしてきた大熊町は、原発という国策による被害を受けた土地でもあります。その土地に放射能汚染物質の中間貯蔵施設が置かれ、そのために遺骨捜索ができなくなるというのは、やはり間違っていないでしょうか」

戦没者のため、平和のために続く闘い

 具志堅さんの認識における沖縄と福島の共通点はずばり、「国策による被害」だ。そのことを具志堅さんは、7月に入ってスイスはジュネーブに飛んで、さらに再確認できたようである。

6月30日に一部で避難解除されたものの、大熊町では今も除染土などの廃棄物が並ぶ 撮影/渡瀬夏彦

 7月4日、具志堅さんは、国連における先住民の会議に沖縄代表の1人として参加し、意見を述べる機会を得た。

 会議進行の都合上、予定していたとおりのスピーチがかなわず残念な部分もあったようだが、会場を移してのサイドイベントでは、たっぷり1時間以上にわたって話をすることができたという。

 具志堅さんが振り返る。

「2つのことを話しました。1つは、遺骨まじりの土砂が、米軍基地を建設する埋め立て材料に使われるおそれがあるということ。これは沖縄だけの問題ではなく、日本兵、米兵の骨も海へ投げ捨てられるおそれがあるということをわかってください、という話。

 もう1つは、ウクライナ危機に乗じる形で『台湾有事』への備えが必要だと叫ばれるようになっていて、沖縄の島々が再び戦場になり、私たちが殺される危険があります。助けてください、という話」

 そして具志堅さんは、笑顔でつぶやくのだった。

「とにかく国連という場所へ行かせてもらってよかったです。世界にはたくさんの先住民が、同じような悩みを抱えているということがわかったし、みんなで連帯して頑張っていこうという意思確認もできました。これからの可能性に、希望を抱くことができました」

計4度のハンストを行ってきた具志堅さん。さらには遺族公聴会を開き、そこでの声を政府に届ける予定だ 撮影/渡瀬夏彦

 そして、沖縄に帰ってきた具志堅さんが今まさに力を入れようとしていることがある。

 それは「遺族公聴会」だ。

 そもそも具志堅さんたちは、国や県に対して、当事者である戦没者遺族の声を聴きもしないで、遺骨まじりの土砂を採掘する計画を立てること自体がおかしい、ぜひとも遺族の声を聴いてほしい、と提言してきた。ハンストもそのための行動だ。だが、行政が重い腰を上げる気配はまったくない。ならば、自分たちで始めよう、と決断した取り組みが「遺族公聴会」である。

 その第1回が7月24日、沖縄県南風原町の南風原文化センターで開催された。その成果をもって、具志堅さんと仲間や協力者たちは、8月5日、衆議院第二議員会館で、政府(外務省・防衛省・厚労省)との意見交換会に臨む。

 死者の尊厳を守らない国が、沖縄の人々をさらに苦しめ、世界の平和さえ保てない状況をもたらす─。

 重く深いテーマを抱えつつ、世界中の人々が共感しうる普遍的な哲学に裏打ちされた具志堅さんの闘いは、あえて言えば、これからも希望に満ちて、続いていく。

〈取材・文・撮影/渡瀬夏彦〉

 わたせ・なつひこ ●沖縄移住17年目のノンフィクションライター。基地問題からスポーツ、芸能まで幅広く取材。講談社ノンフィクション賞受賞の『銀の夢』(講談社文庫)、『沖縄が日本を倒す日』(かもがわ出版)ほか著書多数