シロアムキリスト教会の牧師・鈴木啓之さん

 千葉県・柏駅から、バスに揺られること20分。のどかな街並みの一角に、目的の建物はあった。

 一見するとモダンな公民館のようだが、三角屋根のてっぺんに、青空を背景に真っ白な十字架が掲げられている。

「どうぞ、どうぞ。さあ、中へお入りください」

 穏やかな口調で招き入れてくれたのは、シロアムキリスト教会の牧師・鈴木啓之さん(66)。チェック柄のジャケットが、ダンディな印象だ。

教会の“もうひとつの顔”

 12年前にこの場所に移転した教会は、広々とした礼拝堂を持つ。壁に掲げられた十字架が神聖な空気を放っている。

「毎週日曜日は礼拝を行います。会員制ではないので、どなたでも自由に入れます。もちろん、クリスチャンでなくてもいいんですよ」

 すこぶる敷居が低いのは、この教会が“もうひとつの顔”を持っているからだ。

「ここには薬物やアルコール依存症、刑務所で罪を償って出所された人、さまざまな事情を抱えた人が相談に来ます。最近は社会からこぼれ落ち、ネットカフェ難民っていうのかな、いよいよ生活に行き詰まって助けを求めてくる人も多いですね。今朝もそういう電話があったばかりです」

 府中刑務所では教誨師として受刑者と向き合い、出所後の支援にも力を尽くしている。

 この教会ではNPO法人『人生やり直し道場』の理事長を務め、札幌にある関連の教会では、『平成駆け込み寺』を主宰。教会の一角で合宿生活をしながら、社会復帰を目指す人々と、家族のようにかかわっているのだ。

 池田進さん(仮名・50)も鈴木さんのもとに住み込んで更生を目指したひとり。

「鈴木先生との出会いは、僕が覚せい剤で服役中に教誨師として面談してくれたのが最初でした。そのときは“出所したら訪ねます”なんて調子よく言ったけど、本気じゃなかった。

 でも出所後にまた捕まって、さすがにクスリをやめたいと先生に手紙を出したら、すぐに会いに来てくれたんです。“いつまでも待ってる”と言ってくれたことが、どれだけ励みになったか」

 大学の医学部を卒業したものの、覚せい剤で逮捕と服役を繰り返したため、出所したときは、40歳になっていた。

当時、52歳。神学校に在学した当時から、身体の入れ墨も「隠すことはない」と受け入れられたのがうれしかったという

「クスリで人生を棒に振り、医者になる道を諦めていた僕に、“医師国家試験を受けなさい”と背中を押してくれたのが先生です。

 それからは1年間、教会に住み込み、聖書を学びながら予備校に通いました。二度と薬物に手を出すことなく、勉強に打ち込めたのは、自分はひとりじゃない、神様と先生がいてくださると思えたからです」

 医師国家試験に見事1回で合格した池田さんは、現在、精神科医として薬物などの依存症患者の診療に力を注ぐ。

「僕自身の過去を患者さんやご家族の前でお話しすることもあります。立ち直った張本人なので説得力があるんです。先生と出会えてなかったら、今の僕はいなかったと断言できますね」

 池田さんに限らず、受刑者と面会や文通を重ね、出所後は共に身の振り方を考える。

 そこまで支えきれる理由は、鈴木さんの過去にあった。

元ヤクザの牧師・鈴木啓之さん

 鈴木さんには両手の小指がない。肩から肘にかけては鯉と金太郎を描いた入れ墨が彫られている。

「元ヤクザですからね。それはもう罪深い生き方をしてきました。ふつうにあるはずの感情や常識なんて何ひとつ持ち合わせていない。かわりに、あってはならない前科や入れ墨を刻んでしまった」

 強い口調でそう話すと、「だけどね」と静かに言葉を足す。

「そんな私でも、人生をやり直せた。だから伝えたいんです。過去に何があっても、必ず生き直せるってことを」

 1955年、大阪市生野区で生まれた。父親は実兄とともに小さな製薬工場を営み、母親は専業主婦。2人兄弟の長男として育った。

「ヤクザもんを育てた家庭なんて、ろくなもんじゃないと思われそうですが、父親は英字新聞を読むようなインテリで、温厚な性格でした。家計が苦しい時期は、母がパートに出てね。大みそかには必ず、洋服から下着まで、新品一式をそろえて枕元に準備してくれたものです」

 小学校時代は、やんちゃなムードメーカーだった。地元の公立中学に入学後は、水泳部に所属。大阪市の大会で3位になるほどの活躍を見せた。

 少しずつ道を外れていったのは高校に入ったころ。

「中学の途中で身長が止まって、水泳で勝てなくなって挫折したのが始まりかな。高校では心機一転、サッカー部に入ったけど、どんなに練習しても経験者にはかなわないから、また挫折。ラクなほうに流れて、はみ出しもん同士でツルむようになってた」

 高校1年生の夏休みには、不良仲間と喫茶店に入り浸り、カツアゲにも手を染めた。

「ちょっと脅すと面白いように金が手に入るから、もうゲーム感覚でしたね。夏休みの間に、仲間と100件くらいやって警察に捕まりました」

 高校生ということもあり不処分になったが、すぐに学校に知られ、自主退学としてバッサリ切り捨てられた。

 それからは、仕事を転々とし、食事と住まいつきの条件に飛びついて、あいりん地区の喫茶店で働き始めた。

 店が入ったビルの裏には、ヤクザの組事務所とバクチをする賭場があった。鈴木さんが組員と親しくなるのに時間はかからなかった。

「組事務所に出前を届けると、兄さんがカレー1杯に1万円札をポンと出して、『釣りはいらねえ!』ってね。飲みに連れて行ってもらえば、きれいなお姉さんたちに大歓迎され、黒服がずらっと直立不動で最敬礼してる。カッコいいなって憧れましたね」

 やがて、小さな事件をきっかけに、ヤクザの世界へと足を踏み入れていく。

「人間の心をなくしてた」

「こら、カス。ワレどこに目ぇつけて歩いとんじゃ!」

 大みそかの夜のディスコでのこと。肩がぶつかった相手に、啖呵を切ったのが、すべての始まりだった。

「過去に何があっても、必ずやり直せる」という信念を持ち、元受刑者や薬物依存症などの人々の生き直しに全力を注ぐ(撮影/渡邉智裕)

「彼女連れだったから、イキがってたんです。相手は大人数でかかってきて、逆にボコボコにされて。あげく、その中の1人がヤクザで、慰謝料を出せって脅してきたんです」

 鈴木さんは、ビルの裏のヤクザに相談し、あろうことか組に入れてほしいと頼んだという。

「解決策はいくらでもあったのに、若かったから対抗するには、自分もヤクザになるしかないと思ってしまったんです。人生を左右する重大な決断だなんて想像もしないで」

 組から手を回し、脅してきた相手とはすぐに和解した。

 恩恵を受けた鈴木さんは、18歳のときに組の一員となる。

 半年ほどして、ヤクザの“証”も身体に刻んだ。

「事務所の電話の取り次ぎで親分に迷惑をかけたんです。兄貴分に“指つめて詫びんか!”と怒鳴られて、小指を落としました。入れ墨を彫ったのも同じころ。後悔はなかった。いっぱしのヤクザになったと満足していたほどです」

 組のためなら命知らず。そんな資質が買われ、早くも20歳で若頭補佐に昇格した。

 数年後、組同士の抗争が激しくなったときは、矢面に立って大暴れ。暴力行為と器物破損に、ひき逃げの罪も加わり、懲役2年の実刑を受けた。

「カーッと血が上ると容赦なく抗争相手を刺してました。幸い致命傷にはならなかったけど、人間の心なんかなくしてた。覚せい剤の売人をやりながら自分でも打ってね。体質に合わなくてすぐやめたけど、そうじゃなかったら、もっと人間じゃなくなってたでしょうね」

 初めて刑務所に入ったことで、ようやく頭を冷やして身の振り方を考えられた。

「当時の女房が、何度も面会に来てくれてね。苦労して女手ひとつで子どもを育てる姿に、一度は反省しましたよ。このままじゃダメだって」

 しかし、シャバに戻れば、元の木阿弥だった。

 家庭を顧みず、結局、26歳で離婚した。

 手に負えない放蕩息子に、父親は、「俺より早く死ぬような生き方はするな」と言葉少なに戒めた。かわいい孫と引き離された母親は、「バカだね」と涙をこぼした。

 身近にいる大切な人を、ことごとく不幸にした。それでも、生き直せなかった。

「今思うと、私がヤクザになったのは自分の弱さをごまかすためだったんです。本当は情けないほど弱い人間だから、ヤクザの仮面をつけることで虚勢を張っていた。もうね、ヤクザじゃなくて、“役者”。カメレオンみたいに、無理して色を変えて、強い自分を演じてたんです」

妻子を捨て、命がけの逃亡

 意外だが、鈴木さんはヤクザ時代にキリスト教の洗礼を受けている。

「今の家内がクリスチャンだったからです」

 出会いは30歳で2度目の刑期を終えた直後。景気づけに入ったコリアンクラブで働いていたのが韓国人の妻だった。

「恥ずかしながら私のひと目ぼれです。毎日店に通いつめ、口説き落として彼女の家に転がり込みました。彼女はジャパンドリームを求めて、自分と家族のために働きに来ていたので、ヤクザにくっつかれて迷惑だったでしょうね」

 2人が結婚したのは、出会って3年後。神のお告げがあったからだ。

「当時、彼女にくっついて教会に通っていました。もっとも、“バクチで勝てますように”と祈るくらいで、信心には程遠かったんですが。ある日、牧師さんが“あなたたち結婚しなさい”と、日取りまで決めてしまったんです」

苦労をかけた妻・まり子さん、娘と

 急転直下のお告げに、驚いたのは彼女である。妻・まり子さん(69)が話す。

「私は教会で、“この人と別れさせてください”と祈っていたほどです。だから、先生(牧師)にも、この人はヤクザで借金もたくさんある。結婚する相手じゃないと訴えました。でも先生は“借金は神様が返してくださいます”と聞き入れてくれません」

 まり子さんは仕方なく牧師に従った。牧師を神様のように信じていたからだ。

「嘘みたいな話だけど、私がひざを骨折したとき、先生のお祈りでその日のうちに歩けるようになったんです。だから私にとって先生の言葉は神様の言葉そのものでした。

 それに、この人、いいところもありました。お酒を飲んで変わらないところもそのひとつ。父親の酒癖が悪くて苦労したので、よけいに良く見えたのかもしれません」

 こうして、鈴木さんは洗礼を受け、神様の前で永遠の愛を誓った。33歳のときだ。

 翌年にはひとり娘を授り、驚くことに、2億円近い借金もきれいに返済できた。

「バブルの時代で、バクチで羽振りよく大金が動いたせいもあります。だけど、やっぱり思いましたよ。本当に神様はいるんじゃないかって」

 とはいえ、金の苦労は尽きなかった。

 鈴木さんは所属していた組と距離をおき、『本筋モン』と一目置かれる、ばくち打ちになっていた。それも、フリーの立場で賭場を開帳するため、資金を自分で調達しなければならなかった。

「週刊誌のグラビアで、“若手ナンバーワンのばくち打ち”と紹介されるほどの人気で、ほうぼうの組から“もうけさせてや”って資金が集まりました。それでも負けた客が逃げたり、不渡りをつかまされたり……資金繰りはラクじゃなかった」

 そんな矢先、借りた資金が火種となり、命を取られかねない騒動が起きた。

「若頭に内緒で5千万円もの大金を親分から直接調達したのがバレたんです。明らかに掟破りでした。俺なら許されると調子に乗ってたんです」

 事務所に呼び出され、2時間にわたり殴る蹴るのリンチを受けた。「今晩中の返済」を条件に解放されたものの、借金のあてなどなかった。

 向かった先は、これまで出資してくれた、ほかの組の親分衆のもとだった。

「もう借金は頼めませんから、詫びを入れに行ったんです。信用を失った自分は、この世界では生きていけない。借りた資金も返せませんと」

 3軒回って、すべての挨拶を終えた。表には見張り役が待ちかまえている。

「手ぶらで戻れば、よくて半殺し。コンクリート詰めで海に放り込まれるかもしれない。万事休す、でした」

 そのとき目に入ったのが、駐車場に続く裏口だった。

 逃げろ! とっさに思い立ち、自分の背丈より高い塀を乗り越えて逃走した。

「鈴木が逃げた!」、瞬く間に組は手を回し、関西の主要駅に包囲網を敷いた。

 鈴木さんは、かいくぐるように東京へ逃げた。

「自分が助かりたい一心で、残された家内や小さな娘がどうなるかなんて考えもしなかった。女性まで連れて逃げたんですから、どこまで人でなしかってことですよ」

無事を祈り続けた妻の姿

 東京に流れ着いた後も、命を狙われる日々は、じわじわと鈴木さんをしめ上げた。

「ひげを生やして変装して、偽名を使って競馬のノミ屋なんかしてたけど、関西弁が聞こえてきただけでビクビクしてた。じきに酒の量が増え、覚せい剤にも手を出してました」

 連れて逃げた女性は、早々に去った。孤独と恐怖が日増しに募り、逃亡生活は8か月で限界を迎えた。

「一歩も部屋から出られなくなり、靴音がしただけでガタガタ震えてた。あげく、見捨てた家内が神様に頼んで俺を呪い殺そうとしてるって思い込んで、のたうち回ってた」

 幻聴、幻覚、猜疑心が、容赦なく襲いかかってきた。

「殺される!」、耐え切れなくなって、着の身着のまま飛び出し、気づけば教会に駆け込んでいた。

「当時、新宿の歌舞伎町に韓国人の牧師さんがいる教会があったんです。24時間出入り自由で、宿泊もできるような。そこで丸2日、祈り続けました。神様、どうか家内の呪いを解いてくださいって」

 3日目には礼拝が行われた。登壇した牧師の、「神様はあなたを許します」、「あなたは尊い存在です」、その言葉に聞き入りつつも、一方で自虐的になる自分がいた。

「尊い存在? 冗談だろう。人殺し以外なんでもやった俺が、妻子を平気で捨てるような俺が、どうして許されるんだ。生きる価値すらないよって。だけど悪態をつきながらも、立ち上がって叫んでた。『助けてください!』って」

 礼拝のあと、鈴木さんは自分の罪深さを切々と訴えた。

 すべてを聞き終えた牧師は、静かに言った。

「本当に悪い人間は、あなたのように苦しんだりしません」と。

 気づくと、牧師の足元にすがりつき、子どものように泣きじゃくっていた。

「虫のいい話だけど、こんな罪深い俺でも、もしチャンスをもらえるなら、もう一度、人生をやり直したいって。やっと心を開いて、神様を信じることができたんです」

 その日、教会の長いすで久しぶりにぐっすり眠った鈴木さんは、翌日、新幹線に飛び乗った。

「家内に詫びなければ──」

 その思いが自然と込み上げてきたからだ。

 大阪に戻れば、追っ手に捕まる危険があった。それでも迷いはなかった。

「家内は引っ越しもせずに待っていてくれました。逃亡したころ別居状態だったことが幸いし、追っ手にひどい目にあわされなかったことがせめてもの救いです。でも、見る影もなく痩せていました。私を呪うどころか、断食までして無事を祈っていたんです」

 まり子さんが振り返る。

「どうしようもない人でも、神様の前で誓ったから簡単に離婚できません。だから神様と約束しました。来年、桜が咲くまで1年待ちます。それでも帰ってこなかったら、娘と韓国に戻りますと」

妻子を捨てて逃げたのに、妻が断食してまで無事を祈り続けてくれたと話す場面では、「こんな私のために」と思わず目頭を押さえる(撮影/渡邉智裕)

 自分の無事を祈って痩せこけた妻の姿は、どんな言葉より鈴木さんの心を動かした。

「やり直したい」、夫の願いを妻は聞き入れ、鈴木さんは妻子を東京に呼び寄せた。

 翌1991年には、神学校に入学。昼は建築現場で働き、夜は学校に通う日々を卒業まで3年間続けた。

「神学校は、人としてまともに生きなさいと家内のすすめで入学しました。これを機に、酒もタバコもスパッとやめて。勉強なんて縁がなかったけど、聖書を学び出したら新しい発見の連続でね。知りたいことを学ぶのは、こんなに楽しいものかと、もう夢中でした」

 在学中はキリスト教の伝道師として大きな十字架を担ぎ、歩いて日本全国を縦断。

 水を得た魚のように布教活動に熱中した。

 そんな矢先だった。

「おい鈴木、出てこんか!」

 大阪時代のヤクザに自宅を突き止められた。

生き直しを諦めない牧師

 発端は、宗教活動の一環でテレビ出演したこと。放映後すぐ、借金の連帯保証人だったヤクザが乗り込んできた。

1993年、神学校の卒業式にて。当時38歳。学長夫妻、妻・まり子さんと

 ドアの外で怒号が飛び交い、鈴木さんはとっさに包丁をつかんだが、すぐわれに返った。

「神の“恐れるな!”という声が聞こえたからです。家族が怖がるので静かにしてほしいとお願いし、正直に状況を話しました。今の私に何千万円もの借金は返せない。本当に申し訳ないと。そして、一生あなたのために祈らせてほしいと頼みました」

 古びた部屋の玄関には、仕事用の地下足袋が置かれ、つましい暮らしが見て取れた。

 やがてヤクザは、娘のポケットに2万円をねじ込んで、「おいしいもん食べさせてもらえ」と帰っていったという。この話には後日談がある。

 そのヤクザが刑務所に入ったと風の便りで聞いた鈴木さんは、少ない収入からヤクザの妻子に毎月3万円ずつ、出所まで3年間、送金を続けた。

「出所した彼は電話をくれ、“一生の借りができた”と涙ながらに言ってくれました」

 別のヤクザにもできる範囲で返済すると、それ以上は追ってこなかった。

「“鈴木のヤツ、神さん、神さんて違う世界に行ってもうた”と呆れられたのかもしれませんが、生き直そうとする私を、彼らなりにわかってくれたように感じます」

 神学校を卒業した翌年の1995年、節目の40歳で千葉県船橋市に『シロアムキリスト教会』を開拓。按手礼を受け、牧師となった。

 5年後には東船橋に移転。『人生やり直し道場』の前身となる『やり直しハウス』を敷地内に建てた。

「人は立ち直るために他力が必要なこともあります。それが私にとっては信仰心でした。こんな私でも神様の愛に背中を押され、生き直すことができた。同じように生き直したい人たちの背中を押すのが、私の役割だと考えました」

 鈴木さんのもとには、元ヤクザや薬物依存症の元受刑者が訪れ、生き直しを目指した。

「4畳半に元ヤクザ3人が寝起きして、刑務所よりせまかった(笑)。でも最高に充実してましたね」

 そう話すのは、元暴力団員で、現在は「罪人の友」主イエス・キリスト教会の牧師・進藤龍也さん(51)。

「鈴木先生の自伝本は受刑者のバイブルになっていて、僕も読んだけど最初は少し嫉んでた。組を抜け、入れ墨牧師としてうまくやったなって。でも、その考えはすぐに消えました。覚せい剤で3度目に捕まったとき、減刑の嘆願書を先生に頼んだら、見ず知らずの僕のためにすぐ書いてくれて。本気で救いたい気持ちが伝わってきたからです」

 出所後は鈴木さんの教会で寝起きし、更生を目指した。

 とはいえ、人間はすぐには変われないと本音を話す。

「一緒に寝起きしてる元ヤクザと、こっそり飲みに行くわけです。息抜きしようって。じきにバレたんだけど、そのときの先生の顔は今も忘れられない。怒るどころか、“たっちゃん、何してるの?”ってすごく悲しい顔してね。それ見たとき、ああ、この人を裏切っちゃいけないと。それが僕の回心の始まり。神学校に通い、先生と同じ牧師の道に進みました」

 元ヤクザから足を洗った人、覚せい剤を断ち切れた人、自殺を踏みとどまった人──。さまざまな事情を抱えた人が、鈴木さんのもとで新しい人生を手に入れてきた。

「私ひとりの力では及びません。人はそれぞれ抱える問題が違うので、法律の問題は法律家、依存症などはメンタルの専門家といった具合に多くの人に協力してもらっています。

 漢方の薬局って、いろんな引き出しから薬を出して調合していくでしょ。それと同じ。その人に合った支え方ができればと考えています」

 各専門家に力を借りつつ、鈴木さんの深い愛が届いたとき、人は生き直したいというスイッチが入るのだろう。

誰ひとり見捨てない覚悟

 毎週日曜日は、主日礼拝と呼ばれる礼拝を、柏と札幌、両方の教会で行う。午前中は柏、そのあと飛行機で札幌に移動する生活を、かれこれ8年も続けている。

教会の名前は、聖書にあるシロアムの池が由来。イエス・キリストがこの池で盲人の目を洗って開眼させたように、大切なことが見えなくなっている人々が目を洗いに来る場所でもある(撮影/渡邉智裕)

「礼拝には悲しみや悩みを抱える方も多くみえられます。聖書の教えをわかりやすく説き、ともに祈ることで気持ちが整理され、進むべき方向が見えてくるんですね」

 元東洋バンタム級チャンピオンで、現在インスパイヤードモーション・キックボクシングスタジオ会長の山本アキラさん(52)も、かつて深い悩みを抱えていたと振り返る。

「30歳で現役を引退し、希望を胸に第二の人生を踏み出したものの、元格闘家では就活もうまくいかなくて。アルバイトで食いつなぎながら、人生の目標を見失っていました。過去の栄光があるから、よけいにつらかったですね」

 その状態から抜け出せたのは、知人の紹介で礼拝に通い始めてしばらくしてのこと。

「礼拝で先生のお話を聞くと、自然に涙があふれました。地位や名誉がなくても、神様に愛され、守られているというメッセージが伝わってきて。

 社会から落ちこぼれたって、俺は俺。そう自分を認められてからやっと前を向けた。後進を育てたいという夢もできました。不思議なもので自分が変わると、出会いにも恵まれて。ジムを立ち上げ、15年間で8人の日本チャンピオンを育てることができました」

 多くの人が自由に出入りできる場所ゆえ、ひと筋縄でいかない人も来る。時に命の危険を感じることもあるという。

「こないだなんて札幌の教会で、悩みを話し終えた男性が刃物を出して、私を道連れに死のうと思ってたって言うんです。説得して事なきを得ましたが、驚きました」

 それでも扉を閉ざすことなく、人々を受け入れ続ける。

 男性限定だった『人生やり直し道場』の活動では、女性を救うための新しいプロジェクトも進行中だ。

「殺人や傷害などで、15年、20年と長期で服役した女性受刑者が、仮釈放後に社会復帰の準備をする施設を作ります。中心になるスタッフは元受刑者で更生した女性です。経験者だからこそわかる意見を取り入れて、お節介なくらいかかわっていくつもりです」

 見返りなんて何ひとつない。

 懸命に支えても、再犯で捕まったり、行方知れずになる人も少なくない。

 それでも、誰ひとり見捨てることなく、迎え入れる。

 その原動力を問うと──。

「それはね、元ヤクザ風に言うなら、私の親分がイエス様だからですよ」

 神に愛され、許された男は、人々を愛し、許し続ける。

「大丈夫。何があっても必ずやり直せる」、神様と二人三脚で支えながら──。

広々とした礼拝堂には、コロナ禍ということもありいすが間隔をあけて並ぶ。主日礼拝の日は多くの人が集まる(撮影/渡邉智裕)
取材・文/中山み登り(なかやま・みどり)ルポライター。東京都生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP研究所)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など。大学生の娘を育てるシングルマザー。