「ローカル番組なんて、どうせ面白くない」そんな“レッテル”を次々と剥がすような内容で、全国に放送網を広げた『水曜どうでしょう』。レギュラー放送が終了し、20年たった今でも新作を熱望する声は絶えることがない。今や“伝説”となった番組の作り手2人は、何を思い、何を目指しているのか。
DVD売り上げが累計500万枚を超えるロングセラー
「大泉洋はね、世界に通用する天才ですよ。あれだけ笑わせてくれる俳優はいないです」
大河ドラマに、NHK朝ドラに、映画に、紅白歌合戦の司会にと八面六臂の活躍をする名コメディー俳優、大泉洋を輩出した伝説のローカル番組がある。1996年10月から2002年9月まで北海道テレビ放送(HTB)で毎週水曜深夜にレギュラー放送されていた『水曜どうでしょう』。23時台にもかかわらず北海道で最高視聴率18・6%を叩き出す超人気番組に。
話題が話題を呼び、その名はじわじわと全国に伝播。それを知った地方放送局が番組を購入して放送を始め、2007年までに全国47都道府県すべてで放送されることとなる。ディレクター自ら映像を再編集して2003年から販売を開始したDVDは2022年7月現在第32弾までが販売され、累計500万枚を超えるロングセラーとなっている。
男4人の過酷かつ愉快な旅に魅了されたコアなファンは、お布施とばかりにDVDやグッズを買い集め、ロケ地を巡る旅に出たのである。
『水曜どうでしょう』の出演者は、タレントの鈴井貴之さんと大泉洋さん、スタッフはチーフディレクターである藤村忠寿さん(57)、カメラ担当ディレクターの嬉野雅道さん(63)の4名。
大泉さんが所属する演劇ユニット、TEAM NACSの安田顕さんなどのメンバーがゲスト出演することもあるが、基本は総勢4名で旅をする。「どうでしょう班」といわれる彼らは、ファン憧れのチーム。冒頭の言葉を発したのは嬉野さんだ。『水曜どうでしょう』の26年を作ってきた藤村さん、嬉野さんに話を聞いた。インタビューは藤村さんの意外なひと言から始まった。
「たぶん、最初に予算が十分にあったら大泉さんは出ていないですね。最初に僕が出した新番組の企画書には出演者はロンドンブーツ1号2号って書いていたんですよ。お金がかかるから諦めたけど。ただ正直、タレントに頼る番組を作るつもりもなかったから、現戦力しか使えないから、今いるこのメンツでやろうと」
藤村さんは愛知県出身。北海道大学在学中にHTBの報道部でカメラマン助手のアルバイトをした経験から、テレビ番組制作の仕事を志望して卒業後にHTBに入社。しかし番組制作とは無縁な東京支社の編成業務部に配属され5年間勤務ののち、1995年に本社制作部に異動。30歳でようやく未経験の番組ディレクターとなった。そして1年半後の'96年に、チーフディレクターとして『水曜どうでしょう』を立ち上げることになる。
当時、HTBでは月曜日から木曜日まで放送していた深夜バラエティー番組『モザイクな夜V3』が打ち切りとなり、水曜夜のみバラエティー枠が残ることに。藤村さんがチーフディレクターとして制作を担当することになった。そこでキャストに抜擢したのが、『モザイクな夜V3』のMCを務めていた鈴井さんと、同番組に出演していた当時大学生の大泉さん。
「鈴井さんの出演がまず決まって、もう1人を誰にしようかというときに、大泉くんがいいだろうと。彼は途中から誰かの代役で入って、すすきのの夜の街を紹介するレポーターなんかをしていたんだけど、僕は面白かったんです、あいつを見ていて。自分の頭で考えてその場その場を面白くできるやつで、テレビ局とかディレクターなんかは相手にしていない感じだったからね」(藤村さん)
「大泉くんはローカル局に対する諦めがあったんじゃないですか。言われたとおりに作っても面白くないという」(嬉野さん)
「それはこっちも同じだったからね。ローカル番組なんてどうせ面白くないと思われているって気持ちがあったから。でも数字を取らないといけない。そこで、ハプニングを笑いにできる旅をやろうと。だったら大泉洋だって、すっと決まった」(藤村さん)
嬉野さんは佐賀県出身。東京の大学を中退し、映画を製作する映像プロダクションに勤務したのち、フリーランスで企業のプロモーションビデオの監督や映画の助監督などをして糊口を凌いでいた1996年、鍼灸師の妻が札幌で開業すると同時に北海道に移住。知人の紹介でHTBの関連会社に36歳で入社し、『モザイクな夜V3』の制作ディレクターに加わった。しかしわずか半年で番組は打ち切りになり、嬉野さんはまた彷徨うことに。
「『モザイクな夜V3』が終わって席替えがあって、僕はこの人(藤村さん)の隣の席になったの。それで僕は“藤村さんと一緒に新番組やるのかな”って思ったんだけど、この人は“あのさ、新番組ってあなたと一緒じゃないよね”って不安そうに聞いてくるわけ。申し訳ないと思ってさ。“俺じゃないよ。バラエティーのこと何もわかってないし、40も近い新人を新番組に起用するわけないじゃない”って慰めたんですよ。
そうしたら1週間ぐらいしてこの人から電話があって、“あなたとだから”って。“嫌なの?”。“いや、嫌じゃないよ”なんてやりとりがあってね」(嬉野さん)
“ゴールデンコンビ”が結成され、伝説が始まる
ただ、嬉野さんは凹むことはなかった。何か確信めいたものがあったという。
「HTBに来て半年くらい見てて、藤村さんの作るものが飛び抜けて面白かったんですよ。『モザイクな夜V3』の中で雅楽戦隊ホワイトストーンズという戦隊モノのコメディードラマをそのへんの公園で撮ってて、ヒーローが気合の入った決めゼリフを言った後ろを買い物帰りの奥さんが歩いてたりするわけです。
そんな緊張感のない状況をあえて背景に捉え、緊張感のある言い回しでギリギリのバランスを取っていることに感動したんですよ。僕はあまりやりたいことがない人間なので、これだけやりたいことがはっきりした人間と一緒にやるのが、僕はうってつけだと思ったわけです」(嬉野さん)
伝説の始まりは“ついで”だった。番組当初、アン・ルイスさんの事務所からインタビューを撮りに来てほしいというオファーがあり、鈴井さん、大泉さん、藤村さんが東京に行くことになった。せっかく東京に行ってすぐ帰るのはもったいないから、ついでに帰りの行程を旅番組にしてしまおうという鈴井さんの発案で、『サイコロの旅』の企画が立った。
「僕だけ置いていかれるのは嫌で、藤村くんに“俺は?”って聞いたら、“あなた来るんだったらカメラぐらい回してくれないと困るよ”って言われて。家庭用のビデオカメラなら撮れる自信はあったので、“じゃあ撮るよ”と。それで僕はカメラ担当になったわけです」
と嬉野さんは言う。聞き慣れない「カメラ担当ディレクター」という肩書はこうしてついたのである。
『サイコロの旅1』は、サイコロの出た目で行き先と移動手段を決め、目的地に到着した途端に次のサイコロを振って即移動というルールのため、深夜バスやフェリー、電車で4日間ひたすら移動し続ける過酷なものだった。
初日に新宿を出発した深夜バスは愛媛県松山市の道後温泉へ。そこから特急電車とフェリーを乗り継ぎ大分県臼杵港から臼杵駅、特急で小倉、新幹線で新大阪、寝台特急で新潟(寝台チケットが3枚しか取れず大泉さんは自由席に座り移動)、そこからフェリーで小樽へ戻るという地獄のルート。
この4日間回し続けた映像を本編わずか22分45秒の番組2本に収めてしまうという無慈悲な編集により、目的地の風景や食事のシーンは一瞬しか映らず、道後温泉での入浴シーンは2秒。
とにかく気持ちを切り替えて、サイコロを振り、落胆し、互いを責め、次の場所に移動し、急速に疲労困憊していく姿を見て視聴者は笑いながらも同情し、深く感情移入していくという現象が起きていく。
番組制作のセオリーを次々と壊していくと……
「旅番組って、何々駅に着きましたね、ここは何が美味しいんでしょうね。どんなお店があるんでしょうね、ってみんなやるけど、これの何が面白いんだろうと。観光地に行って長々と説明してもね、それは視聴者が自分で行って知ればいいことだから。
旅って観光地が面白いんじゃなくて、そこに行く道中のトークだったり、誰かが電車に乗り遅れたり、ハプニングが面白いんだと。そういう確信が僕らにはあったんですよ」(藤村さん)
それ以降シリーズ化したサイコロの旅、オーストラリアやヨーロッパをレンタカーで巡る旅、日本列島やベトナムを原付で走破する旅、四国八十八カ所巡りの旅などなど、4人は日本と世界を股にかけた過酷でコミカルでドラマチックな旅を続けていく。
ちなみに『水曜どうでしょう』の企画会議は鈴井さん、藤村さん、嬉野さんの3人で行い、大泉さんだけがどこに行って何をするかを撮影当日まで知らされておらず、彼が集合場所で企画発表を聞いて視聴者と一緒に驚くところから旅がスタートするのである。不意打ちで海外に行くこともあるため、一時は大泉さんのパスポートをHTBが預かっていたという。
それまでローカル局の番組は放送圏内の情報を取材して紹介するというのがセオリーだったが、それを壊したのも『水曜どうでしょう』だった。
「僕らはそんなセオリーには乗らない。でも金がないからキー局と同じこともできないという中で、独自のものをやっていったというところですかね。
当時、ローカル深夜番組で海外ロケなんて、誰も考えてもいなかった。でも地方の予算でも行けるんですよ。格安航空券で4人でオーストラリア行って向こうでレンタカーを借りて縦断するって、2か月分くらいの予算さえあれば行けるんだもん。
海外で飛び込みで宿を探すなんて、テレビだと常識から外れてるっていうけど、みんな当たり前にやってることじゃないですか。それでまんまとね、地図も買ってないしガイドもいないから、思いどおりハプニングだらけなんですよ。しめしめという感じでしたね」(藤村さん)
HTBでは藤村さんの1年先輩で、後に『水曜どうでしょう』のプロデューサーとなった福屋渉さんは言う。
「あれは発明に近い番組でした。大泉さんとの出会いは奇跡的でしたけど、予算とテレビの慣習にとらわれないで、面白いことだけを集中して行ったらどうなるのかを突き詰めた結果、誰も見たことがないテレビ番組ができたんだと思います」
福屋さんは、彼らがテレビ業界の暗黙のルールを破る違反を3つ、確信犯的にやっていたと振り返る。
「1つ目は家庭用ビデオカメラの映像を放送に乗せるということ。2つ目は当時のタブーだった同ポジ(同じ構図で時間の違う絵をつなぐこと)を平気でやったこと。3つ目はディレクターが自分でナレーションを入れ、そしてついにはロケ中に平気でしゃべり出したこと。
1回のロケに行き何週放送するか出来高制で決めるというのも当時はありえなかった。今のYouTuberがやっているのと同じようなことを26年前に彼らは始めたんですよ」(福屋さん)
藤村さんと大泉さんの笑いながら激しく罵り合うトークはもはや『水曜どうでしょう』の日常風景。普段、「藤村くん」「大泉さん」と呼び合っているが、エスカレートすると「あんたさぁ、いいかげんにしろよ」「おまえがバカだからいけねぇんだろ」などと罵り合いに発展していく。
「ハプニングが撮りたい」とカメラを回し続ける
「僕がしゃべり出したのは理由があるんです。作る側にしてみればハプニングを撮りたいから、スタートもストップもなくずっとカメラを回していたんです。そんなんだから、カンペ書いて見せるなんていちいち面倒くさくてできないんで、次どこに行くとか何をするとか、口で伝えていたんですよ」(藤村さん)
すると、それに対する大泉洋の返しがいちいち面白かったという。
「それでどんどんひどいことを言うようになった。最初のころのサイコロの旅でね、寝台列車の中で、彼の靴下が擦れてガーゼみたいになっているのに気づいておかしくなって、僕はわざわざそれを言ってしまうんですよ。“テレビ出るっていうのにさぁ、靴下破れているってどうなのよ”って。人間性なんでしょうね」(藤村さん)
そんなとき、そのやりとりを独特なカメラワークで必ず撮っているのが嬉野さんだ。
「そのやりとりは誰が見ても面白いわけですよ。でもそのときにね、鈴井さんはそのことにまったく興味がなくて、1人で寝ているわけです。こっちではこんだけ盛り上がっているのに、こんなに飽きてるやつがいるっていうのも込みで撮ったらもっと面白いと思って、僕は引きで撮るわけです」(嬉野さん)
偶然の産物を吸収しながら、独特のカメラワーク、独特の編集で、名場面が生まれていく。ある旅では嬉野さんが車の中で風景を撮りながら寝てしまい、延々と車窓からの美しい景色が流れていく中で、3人のトークが展開。
それが思いのほかいい出来だったことから、そのカメラワークが定番となっていったというエピソードもある。
『水曜どうでしょう』は人気絶頂のまま2002年9月に6年続いたレギュラー放送を終了。両ディレクターから「一生どうでしょう宣言」がなされ、不定期の特番となった。以降は年に1回程度のペースで新しいシリーズが放送されている。
テレビのセオリーをことごとく覆してきた「どうでしょう班」だが、中でも衝撃的だったのは2005年に収録された『激闘!西表島』編で行われた夜釣り対決。ほぼほぼ真っ暗闇の中でただ会話が聞こえ、テロップだけが流れるという状態が2話分も続いたのだ。一般のテレビで放送したら、放送事故の騒ぎだ。
「あれはわれわれが別に真っ暗にしようと思ったわけじゃない。明かりをつけて回していたときに(ガイドの)ロビンソンが来たんですよ。“明かりなんてつけてたら魚釣れないよ”なんて怒るもんだから、消してみたら真っ暗になって、“おっ、これは”って。われわれはあざとい演出は嫌なんですよ。自分たちで狙って消すのはあざといでしょう。でもガイドさんが言うんだから、あんな自然な話はないわけです」(嬉野さん)
「“さあ、どう対処しよう”って。全員しめしめと思ったでしょう。口には出さないけどね」(藤村さん)
そうして、魚がかかったときにだけライトがオンになり、釣り上げるとまたライトがオフになるというルールがその場でできあがった。すると真っ暗なのをいいことに出演陣は寝っ転がって“寝釣り”をし始め、ゲスト参加の安田顕さんは“マジ寝”して釣りざおと間違えて懐中電灯を握り、大泉さんと藤村さんによる実況トークが始まっていく。ファンからは神回のひとつに数えられる名作となった。前出の福屋さんは続ける。
「僕もそのとき現場にいたんですが、僕がディレクターだったら、電気を消せと言われた時点で切り上げていた気がします。あの真っ暗な撮影を朝までやり続けるというのは藤村・嬉野じゃないとできなかったんじゃないかな」
レギュラー番組終了の向こう側に見ていたもの
2002年のレギュラー番組終了と「一生どうでしょう宣言」とは何だったのか。大泉洋さんが大物になってスケジュールやギャラが合わなくなったのではないかという臆測も飛んだが……。
「僕が単純にほかのことがやりたくなったんです。ドラマも作ってみたいし、欲が出たんでしょうね。
もうひとつの理由は、このまま続けて変な息切れが出るのが嫌だなと思ったんです。ロケは毎回全力なので、妥協しないで頑張らなきゃいけないなという雰囲気が出るのが嫌だなって。『水曜どうでしょう』は一生続けるつもりだから、一生続けられるペースでやろうと。大泉くんと鈴井さんは継続を望んでいたんですが、了承してもらいました」(藤村さん)
しかし『水曜どうでしょう』人気が本当に爆発するのはレギュラー番組が終了した後だった。藤村さん、嬉野さん自らがこれまでの映像を再編集し、2003年より半年に1本のペースで発売される『水曜どうでしょうDVD』は売れ、また各都道府県のローカル局での放送がファンの心を捉え、まさに日本列島を完全制覇していく。
その後、ヨーロッパ完全制覇の旅シリーズ続編、マレーシアジャングル・リベンジ、アフリカの旅、北海道の山中にツリーハウスを建てる(後に水曜どうでしょうハウスとして一般公開)などの新作公開にファンが歓喜し、次の作品をまだかまだかと待ち望む展開が20年続いているのだ。
『水曜どうでしょう』のファン層は老若男女。親子2代、3代で見ている家族ファン、DVD・グッズをすべてそろえてイベント参加やロケ地巡りに熱心なファンも多く、女性ファンの心理は「教室の後ろのほうでキャアキャアと面白そうに遊んでいる男子を見ている女子の気持ち」といわれる。この“水曜どうでしょう現象”をどう感じていたのだろうか。
「そりゃあ全国の人も見るだろうという思いはありました。そもそも北海道の人に向けて作っていないわけだから。もちろんうれしいですよ。セオリーを全部外して、自分たちが面白いと思うものだけを作って、熱狂的に受け入れてくれる人がいるというのはね。自分の感覚が間違ってないなというのと、センスのある視聴者っているんだなって感じましたね」(藤村さん)
「それからDVDが売れて、今まで見たことがないお金が入ってきてね。さすがにこれだけ会社に貢献すれば、自分たち好きなことができるだろうとね。26年現金を入れ続けているわけですからね(笑)」(嬉野さん)
嬉野さんが趣味的に撮影していた写真を集めた『水曜どうでしょう写真集』や、2人の対談本の出版、トラックで『水曜どうでしょうキャラバン』を行って全国行脚したり、『水曜どうでしょう祭』と題したフェスを開催するなど、さまざまな活動を行ってきた2人。
2019年には監督としてNetflixとHTBで放送されたHTB開局50周年記念ドラマ『チャンネルはそのまま!』(主演・芳根京子さん、総監督・本広克行さん)の制作を行い、藤村さん自身も出演。ドラマ後半には大泉洋さんがキーパーソン役を好演している。
「大泉さんの演技はさすがでしたね。始発便で来て、いきなり重要なシーンの撮影から入ったのに、見事に演じてくれて。さすが名優ですよ」(嬉野さん)
YouTubeを始めたきっかけは「億単位のカネ」
2019年2月には、「YouTubeでは億単位で儲けているやつがいる」という話を聞き、HTB非公認のYouTubeチャンネル『藤やんうれしーの水曜どうでそうTV』を開設。登録者数42万人の人気チャンネルで、ゲストとして堀江貴文さんや西村博之さんも出演した。『水曜どうでしょう』の本編では言葉少なな嬉野さんのトークも軽快で、新たな「うれしー」ファンも増えたという。
「ネットに視聴者を取られるってYouTubeを敵対視するテレビマンもいるって聞くけど、僕らは単純にやってみたいっていう興味があったからやっただけの話でね。億単位の金が僕らには入ってこないということもわかったんですけどね(笑)」(嬉野さん)
周囲はこの2人をどう見ているのだろうか。10数年前からのどうでしょうファンで、2人にYouTubeチャンネルの開設を持ちかけ、現在はチャンネル運営メンバーである玉木青さんは、
「あれだけ性格が違う2人が、ずっと一緒にいること自体がすごいと思います。というより、あれだけ一緒にいて、あれだけ性格が違ったままでいるということが逆にすごいのかな……。ただ、どこに行って、どういう景色を見たいのかという最後のところが、とても合うんだと思います」
と話す。嬉野さんが2019年に開設したオリジナルコーヒー通販&コミュニティーサイト『嬉野珈琲店』の運営を行うスタッフは、嬉野さんのこんなエピソードを語ってくれた。
「私たちが大阪にいたときに、東京から会いに来てくれる方がその日に帰らなくちゃいけなくて。嬉野さん、お店までの行きしなに最寄り駅からの時間をストップウオッチで計っていたんです。もちろん優しさなんでしょうけど、気になってそうせずにはいられないんだと思うんです」
「藤村さんって自分のことしか考えていないように見えて、ずっと人のことだけ考えているような人なんですけど、嬉野さんは自分以外の全員のことをずっと考えているように見えて、実は自分のことしか考えていない人なんです。
それが周囲から見て、とっても好ましいんですよ」(玉木青さん)
そんな2人に、最後にこれからについての思いを語ってもらった。
「嬉野さんも鈴井さんも還暦超えたし、俺だってもうすぐ還暦を超えてね。それで自分たちでカメラを持って30年を超えていくとなると、これはもう未知の領域なんですよ。だらーっとするのかなぁとも思うし、年をとると短気になる人もわりといるからね。どうなるんだろうね。“いつまでも大泉さんはお若いですなぁ” “相変わらず面白いですねぇ”なんて言い出すのか。楽しみだし、興味深いんですよ」(藤村さん)
「僕らが高齢化してね、どうやって爆笑できるものを作れるのか。僕らは互いに信頼はあると思うけど、緊張感もあるんですよ。予定調和にしたくないというのはみんなの矜持でしょうからね。大泉くんも本気でやろうと思えなかったら乗れないと思うし。だから楽しみなんです。
この人(藤村さん)はね、これから映画を撮ってカンヌかアカデミー賞を取ろうと本気で言っているんですよ。この肩書があれば、サラリーマンについてまわる、経費精算だの申請だのっていろいろある面倒な手続きがさすがに減って、仕事がしやすくなるだろっていうわけですよ。
今や人気の役者となった大泉さんとのパワーバランスも取れるしね。僕はこの人の隣にずっといてここまで来ましたからね。じゃあ一緒に撮ろうというだけのことですよ」(嬉野さん)
〈取材・文/嶺 竜一〉