いまや大阪名物、通販やデパートの催事でも大人気なのが、「マダムブリュレ」。洋菓子の常識外から考え出されたこのヒット商品は、甘くてほろ苦く、まるで人生のような味わい。開発者であるマダム信子さんの人生そのものでもある。大阪のカリスマ経営者の、怒濤の生きざまを今、振り返って―。
年商50億円の大阪きってのカリスマ会長
ヒョウ柄にピンクを掛け合わせたパッケージ。フランス産の赤砂糖をまぶし表面をカラメリゼした、メープルシロップとバターがしみ込むバウムクーヘン。常温、加熱、冷凍状態と3種類の“口福”がある─。
『マダムブリュレ』は、スイーツ界の常識を覆した逸品だ。
「最初にパティシエに提案したとき『なくような商品はダメだ』と言われました。“なく”というのは、ジャリジャリするような食感のことで、そんなスイーツは常識としてありえないと。邪道で結構。誰もやってないのやったら勝ち目がある。素人だからこそ作れる新しいもんがあるんです」
自らもヒョウ柄に身を包む、生みの親である川村信子会長、通称“マダム信子”は、そう笑いながら吠える。
「貧乏だった子どものころ、誕生日に母が焼いてくれるホットケーキが年に一度の贅沢やった。そんな懐かしい母の味をベースにして作ったのがマダムブリュレなんです」(信子会長、以下同)
マダムブリュレは瞬く間に話題となり、大阪を代表するスイーツとして躍進。製造・販売元の株式会社カウカウフードシステムは、年商50億円の企業へと成長し、マダムシンコは大阪きってのカリスマ会長と呼ばれるまでになる。
昨年11月、広告を出す京セラドーム大阪で、「マダムシンコデー」と題されたホームのオリックス・バファローズとロッテのファイナルステージ2戦目が行われた。始球式を務めたのは、ユニフォームの下にヒョウ柄を着込んだ会長・マダム信子その人だった。
その魅力を、親交のある、沢村賞にも輝く日本球界を代表するオリックス・バファローズ投手・山本由伸選手は、「人に対しての愛をとても感じます」と語る。同じくチームに欠かせない投手である山岡泰輔選手も、「若い人に合わせることができますし、表裏がない方なんだと感じます。選手が喜ぶ応援の仕方を考えて応援してくれます。とても励みになります」と話す。
それを示すように、試合前、ナインが集合し、自然に信子会長を囲むように円陣を組む──というシーンがあった。おりしもコロナ禍。それにもかかわらず、である。
マダム信子の周りには、おのずと人が集まってくる。人を愛し、人に愛される。それは、もがき苦しんだ道を歩んだからでもある。
「逃げない、捨てない、諦めない。この言葉に感謝やと思う。何度、逃げよう、捨てよう、諦めようと思ったか」
マダムブリュレを口に運ぶと、カラメルのほろ苦さとバウムクーヘンのやさしい味わい、メープルシロップの甘さが口の中に広がる。人生の悲喜こもごもが詰まっているかのような味。それは信子会長の人生、そのものでもある。
生きていくために残飯も食べた子ども時代
川村信子は、在日韓国人2世として島根県に生まれた。5人きょうだいの長女。小さいころはリヤカーで残飯を集め、家畜の餌として売ることで生計を立てている、裕福とは程遠い家庭だった。
「残飯の中から食べることができそうなものを、母が選んで洗ってくれて。生きていくのに精いっぱいやった」
10歳のとき、一家は大阪へと引っ越す。生活は変わらず貧しいものだったが、「それより差別がひどかった」と苦笑しながら当時を振り返る。
「韓国人というだけで、学校の先生からも同級生からも、たくさん差別を受けました。好きだった男の子も、私が韓国人だとわかると態度が豹変して……それで失恋したときはさすがにへこみました」
今でこそ明るく話す信子会長だが、思春期の女の子の心中は穏やかではなかっただろう。「何でもはっきり言う子やったからね」。そう回想するように、時には悪目立ちすることもあったというが、持ち前の負けん気で、いじめを働く男子学生を“成敗”していたというから、マダムの片鱗、恐るべしである。
後日談となるが、マダムブリュレがヒットした後、信子会長は仕事関係者や取引先が大勢集まる場で、自身が韓国人であることを公表した。
「父や母からは言う必要なんてないのにと言われたけど、私は自分の生まれに誇りを持っていた。公表後、あるデパートからは取引の打ち切りを告げられたけど、それがなんやねんですよ」
日本国籍を取得する前の韓国名は、「許信子」。著書『やまない雨はない』には、こんな一節が書かれている。
─人を許して信じられる人間になるために、さまざまな困難や試練と戦い続けてきたような気がします─
「貧乏で差別も受ける。でも『なにくそー負けるか!』という気持ちだけは強く持っていました」
父の指示で、18歳にして見合い結婚をさせられたが、杓子(しゃくし)定規な道ではなく、自分で人生を切り拓くことを渇望していた信子会長は、厳格な父に逆らう形で離婚する。
「父からすれば恥以外の何物でもない。結局自分ひとりで生きていくしかなかった」
たどり着いた先が、自ら「天職やと思う」と語るサービス業、水商売だった。
その言葉どおり、破竹の勢いで水商売の手腕を発揮していく。20歳で経営した喫茶店兼スナックを皮切りに、北新地の高級クラブでナンバーワンになると、自ら店を経営するまでに。不動産事業や貴金属販売なども手がけ、実業家として頭角を現すと、ついには上京。38歳のときには銀座のクラブのオーナーママに上り詰めた。
銀座進出後、信子会長の人生を左右する出会いが訪れる。
「バイト希望で男の子が面接に来たんやけど、顔を見るとずいぶんくたびれていたから話を聞くと、俳優やモデルを目指して大阪から上京したけどうまくいっていないと。夜の仕事にも向いてなさそうだったから『ご飯代とタクシー代や』と言うて、1万円を渡して帰したんです」
翌日、彼は律義にレシートとおつりを返しに再び来訪した。
「こんな優しい子が、競争社会のモデルやタレント業界で生きていけるとは思えへん」。半ば呆れたが、信子会長はそのきまじめさを買い、「金庫番にはちょうどいいかも」と雇用する。現・カウカウフードシステム社長であり、伴侶となる夫・幸治さんとの出会いだった。
「自分がこうと決めたら、そこに向かって突っ走る人。そして本当に面倒見がいい」
照れくさそうに幸治さんが、信子会長の印象を話す。その姿は、今も昔も変わらないと言う。
「会長は華やかに見えると思うのですが、その陰ではものすごく努力をされている。白鳥のように、水面の下では必死に水をかいている。そして、お客様に対しても、社員に対しても愛が深い。そういう姿に惹かれていったんだと思います」(幸治さん)
2人の年の差は、実に19歳。だが、「交通事故に遭ったと思ってください……」。出会いから数年後、幸治さんからこうプロポーズを切り出された。そして、共に人生を歩むことを決意した。
「色ボケだの財産目当てだのいろいろ言われましたよ。でも、私は幸治くんの控えめやけど、日々努力を怠らない性格が大好きで。この人とならプライベートも仕事も何があっても乗り越えられると思ったんです」
このときはまだ、その言葉を確かめるかのような受難が降りかかるとは、当然、2人は知らなかった─。
銀座の成功から一転した大阪での開業
まさしく激動というにふさわしい信子会長の半生。その中で、「もっとも感慨深い時代を挙げるならいつですか?」と質すと、「焼き肉店時代かな」とポツリとこぼす。
「努力ではなんともならないことが多くて、人生でいちばんつらかったときやったから」
'90年代後半、バブル崩壊の影響が色濃く反映し始めたことで、銀座の景気は誰の目から見ても下り坂だった。店を構えてから約10年。潮時を感じていた信子会長は、夫を交通事故で亡くした妹や老いていく両親との時間を有効に使うために、大阪に戻ることを考えた。
「大阪で違うことにチャレンジするんやったら、夜の商売以外と決めていました。幸治くんもいるし、普通の飲食店がしたいと考えていたんです」
くしくも、友人から居抜きの焼き肉店の話が舞い込んだ。資金を出し、自分たちで運営することを決める。
「1999年8月に『焼肉かうかう倶楽部』をオープンしました。私たちの社名、カウカウフードシステムはここからきてるんです」
リーズナブルな価格での食べ放題などで、お客さんを呼び込んだ。その結果、店は軌道に乗り始め、6店舗を有するまでに発展する。ところが──、ここ日本でも狂牛病問題が取り沙汰されるようになる。あの吉野家が、牛丼の販売を'04年2月から'08年9月まで販売中止にしたほどの騒動であった。
当然、その影響は2人の店にも飛び火した。
「お客さんが来ないから売り上げはほぼなし。スタッフは雇えない。情けなくて、悔しくて……」
膨れ上がる借金。店舗は本店のみにし、身体的にも経済的にも極限状態で働き続けた。成功したはずなのに、再び人生がひっくり返った。
「幸治くんは、仕入れの途中に高速道路で、車をぶつけられたこともあった。でも、店があるからって病院に行かへんのですよ。
店に出すキムチを自分で漬けながら、私みたいなおばさんを捨てて、幸治くんはどこかに行ってくれてもいいのにと何回思ったか。彼はまだ30歳くらいですよ。不憫でね」
声を震わせながら、ひとつひとつ噛みしめながら、あのころを思い出す。
「一度だけ、母のところにお金を借りに行ったことがあったんです。持ってきた母は、私に投げつけ、『拾え』言うんです。泣きながら、『私も悔しい。その金のありがたみと重みを覚えとけ』って。帰るとき、バックミラーに映る杖をついた母の姿を見て、自分はなんて情けない女なんだと涙が止まらなかった」
試練は、まだ終わらない。唯一稼働していた本店が、不審火によって全焼してしまったのだ。建物のオーナーは、居抜き物件の持ち主だったため、信子会長たちが火災保険による見舞金を受け取ることはなかった。残ったのは、莫大な借金のみ。
「もう終わりや思いました」
1人では立ち直れなかった。でも、傍らには幸治さんが居続けた。そして、諦めていなかった。幸治さんが振り返る。
「一体いつまで狂牛病に翻弄されるかわからない。だったら、もう焼き肉店はなくなったのだから、違うことをすればいいと思いました。運よく銀行からの融資があったので、その資金をもとにできる範囲で新しいことをしようと伝えました」(幸治さん)
このとき、時代は飲酒運転に対する罰則が強化され、段階的に施行されていた。2人は、ロードサイドに酒を提供するような店舗をつくることは厳しいと考え、喫茶店に活路を見いだす。フランチャイズ契約ではあるものの、200万円から始められる和風喫茶の募集を見つけるや、即断即決した。
「そうと決めたら会長の“なんとかしてしまう力”はすごい」と幸治さんが笑うように、新事業『甘味茶寮川村』はオープンする。全焼から5か月後のことである。当然、多額の借金を抱えたまま。だが、信子会長はこう笑い飛ばす。
「やるいうたらやるしかないんですよ。絶対に這い上がってやる言うてね」
頬を伝っていた涙は、すっかり乾いていた。
アイデアマンの夫とともに乗り越えた
大阪府箕面市に、マダムシンコ本店はある。
甘味茶寮川村オープン後、幸治さんは知人を介してパティシエと知り合う。そして、新たにケーキ店を出店することを決めるのだが、そのお店こそ、箕面市にあるマダムシンコ本店だ。
店内の内装から始まり、食器、従業員のユニフォームまで、ぬかりなくヒョウ柄で彩られている。
毎週日曜日になると、信子会長自ら店頭に立ち接客を行う。会長に会いたいと、数多くのお客さんが足を運ぶ。
「先日、団体のお客様がいらっしゃるということで信子会長が接客したのですが、やっぱり信子会長がいるのといないのとでは熱気が違うんです」
スタッフの話を横で聞いていた信子会長は、「ミッキーマウスやないんやからな。あ、ミッキーは会計はせえへんから私のほうが働くか」と笑う。
ゆっくりと店内を見渡すと、「自分たちで内装やったりね。ここはホンマに今につながる場所」と、わが子を見つめるように本店への愛情を語る。
店内でも販売されている『マダムのわらびもち』は、マダムブリュレ誕生前の主力商品であり、甘味茶寮川村時代から提供する、いわばマダムシンコの象徴といえる看板メニュー。その横に、マダムブリュレや新作バウムクーヘンが鮮やかに並ぶ。本店は、マダムシンコの過去と現在が重なり合う、人生を再逆転させたホームグラウンド。
ケーキに夢を託した理由を、幸治さんはこう語る。
「当時のケーキ業界は、サービス業のエッセンスが圧倒的にありませんでした。パティシエ自らが『いらっしゃいませ』と出迎えるようなことはしません。お客様も購入したらすぐ退店する。サービスの塊のような会長のキャラクターや手腕を融合させることができたら……面白くなる予感がしたんです」(幸治さん)
マダムシンコ誕生前夜。仕掛け人である幸治さんは、なけなしのお金50万円を使って、信子会長の宣材写真を撮影し、“元銀座のママが手がけた洋菓子店”というキャッチを打ち出していく。
「幸治くんはアイデアマンなんですよ。彼がいなかったら、今の私はないんです」
常識にとらわれないパッケージと味
甘味茶寮川村オープンから数か月後の'06年11月、本格洋菓子と喫茶『マダムシンコ』はオープンした。雨が降る中でも行列が途切れることはなく、その姿を見た信子会長は、感謝の気持ちから、急きょ、手作りの「サービス券」を配り出したほどだった。
だが、こうしたケーキ業界の慣例にない接客態度に反発したのが、ほかならぬ自社のパティシエたちだった。
「そんな品のない売り方をするな」
ところが、 元銀座のママが手がけた洋菓子店に大行列──という話題を嗅ぎつけたテレビ番組が取材に来た。近い将来、パティシエたちとは袂を分かつだろう。そんな予感からか、信子会長と幸治さんは、彼らが作った洋菓子ではなく、焼きたてのバウムクーヘンを紹介する。放送後、それを目当てに再び行列ができたことは言うまでもないだろう。
「そしたら阪急百貨店のバイヤーさんから、催事に参加しないかと誘われたんです。でも、焼きたては1日に700個しか作れない。バイヤーさんと相談して、あえて新しいバウムクーヘンを作って出しましょうとなったんです」
パッケージは、業界で通例となっているオレンジを採用するべきだと言われたが、
「右も左もオレンジばかりで見分けがつかへんやんって。私はピンクで勝負したかった」。
方向性の違いから、やはりパティシエたちは辞めていき文字どおり二人三脚で開発と製造を手がけた。冷凍状態でも美味しく食べられるバウムクーヘンなら1日700個の壁を越えることができる。いや、信子会長の言葉を借りれば、「壁は乗り越えるものではなく、ぶち破らなあかん」。人生だけでなく、常識もひっくり返したバウムクーヘン『マダムブリュレ』が誕生した瞬間だった。
「とにかくたくましい方」
そう信子会長を評するのは、アパホテル・元谷芙美子社長。プライベートで食事をするなど、親交を持つ仲でもある。
「私も実業家だと言われるけど、私は主人である会長のおかげで今があるわけで、私でなくてもよかったかもしれない。でも信子さんは、たたき上げで実業家になられた。本当にすごいことだと思います」(芙美子社長)
運命のいたずらに翻弄されながらたどり着いたマダムブリュレは、信子会長と幸治さんの結晶体。わが子同然の商品が、飛ぶように売れていく姿を見て、「我慢はやっぱり大事やねん。諦めたらあかんね」と、自らに言い聞かせたという。
常識にとらわれないパッケージと味は、多くのファンを生み出し、信子会長の竹を割ったようなキャラクターもあいまって快進撃を続けた。全国の催事ではスピード完売、楽天スイーツランキングでは1位を独走。あの日、途方に暮れている中で膨らみ続けた、莫大な借金も返した。
幸治さんに、なぜ逃げ出さずに苦難に立ち向かえたのか、聞いてみた。
「僕を会社の社長にして対外的に信用力をつけてくれた以上、投げ出してしまうと、僕の人生も終わってしまう」
そう正直な気持ちを吐露するが、こうも続ける。
「会長は、焼き肉店時代をつらい思い出としてとらえていると思うのですが、僕は……むしろ楽しかったんです。僕は、それまで夜の世界で仕事をさせていただいて、その間も俳優の夢を諦めることができず、いろいろなオーディションを受けていました。でも、うまくいかなかった」(幸治さん)
飲食業は、正直な世界だと思った──。
「オーディションは、理由もよくわからずに落とされる。でも、飲食業は自分が頑張った結果が見えやすい。自立して商売をしているんだという感覚が新鮮でしたし、お客様の喜ぶ顔を見るとやりがいを感じました。投げ出してしまったら、いろいろなものを失ってしまう。会長がいれば、きっといい方向に行くと思っていました。大変な時期でしたが、二人三脚のパートナーがママで本当によかったです」(幸治さん)
幸治さんが、信子会長に対して親しみを込めて話すとき、銀座時代の名残から「ママ」と呼ぶ。焼き肉店時代の話をすると、幸治さんの口からはママという言葉が自然とこぼれる。
10年後を思えば、今が大切なことがわかる
「いちばんの信子さんの傑作は、マダムブリュレじゃなくて幸治社長よね」とは、前出・芙美子社長の弁だ。右腕を指さしながら続ける。
「この時計は、たしか幸治さんが社長になったときだったと思うんだけど、そのお祝いにって、私にプレゼントしてくれたもの。普通、お祝いっていったらもらう側なのに、プレゼントするあたりが気風がよくてカッコいい信子さんっぽいよね」(芙美子社長)
先に登場した山本由伸選手も、「心から人が幸せになってほしいと思っている方だと思います。人の幸せを本当に祈って応援してくれているんだなと感じます」と話す。
人を愛し、愛される。ほろ苦い思い出も、人生の味つけだと思える日がやってくる。
会社の屋台骨として仕事をサポートし続けてくれた兄や弟の逝去、約3億円に上る空き巣被害など、信子会長の人生は借金完済後も七転び八起き。だけど、必ず起き上がる。
コロナ禍で窮地に立たされる同業者も多かったが、バウムクーヘンを切る際に生じる端の部分をまとめた新商品『訳ありバウム』が新大阪駅の売り上げランキングと楽天の総合ランキングで1位を記録するなど、カウカウフードシステムは今なお年商20億円をキープする。
「狂牛病のときも出口が見えなかった」と信子会長は振り返るが、「今はわらびもちが好調だから、今度『焼きわらびもち』という新製品を出す予定。これで楽天の総合1位を目指す!」と意気込む。あのころを乗り越えて今がある。だからこそ、やりようだってある。そのチャーミングなたくましさに圧倒される。
「鏡を見てスマイル。ほんまにそれだけで変わると思う。笑わへんかったら、元気になれへん。顔が笑っていれば、心もついてくるんよ!」
信子会長と話していると、こちらまで元気が湧いてくる。
取材の途中、「信子さん!」と笑顔で手を振るお客さんを見たのは、一度や二度ではない。会長がいるだけで、咲き誇る季節の花を見たように心も雰囲気も華やぐのだ。
訪れた自宅は、ふだん人目に触れないキッチン部分、防火シャッター、果ては畳のへりまでもがヒョウ柄だった。その徹底してブレない姿勢に驚愕するとともに、シンプルにカッコいい人だと感嘆した。
この人は、付け焼き刃な取り繕いではなく、アティチュード(姿勢)で勝負をしている。だからマダムシンコに魅せられる人は多いんだ。
「人生は1回しかないねん。10年前の私はまだ60歳でしょ、めっちゃくちゃ若い。でも、60歳のときの私は、50歳を同じようにめっちゃ若いと思っていた。
今がどうであれ、後になったら、あのころは『若かった』ってわかること。おそらく80歳になった私は、70歳を『まだ若いやん!』と言うと思うんです。だったら、今どう生きるかがいちばん大事やと思う」
「やる言うたらやるしかない」。人を信じ、自分の芯を持つマダム“シン”コ。その姿に魅せられる人は、こんな時代だからこそきっとたくさんいるのではないだろうか。
〈取材・文/我妻弘崇〉