「サッカーでいちばん大事なのはハートだよ!」
「もっと怒れよ、もっと褒めろよ!」
熱い言葉でチームメートを鼓舞する姿が、今も記憶に残っている。ブラジル・リオデジャネイロの出身者を指す“カリオカ”の愛称で知られるラモス瑠偉は、日本代表の中で誰よりも強い愛国心を持ってプレーする選手だった――。
'57年、ラモスはリオ近郊の村で生まれ、少年時代からサッカーに明け暮れる。
「毎日、仲間とボールを蹴ってましたね。学校の勉強以外は、全部サッカーでした。父はサッカー選手で税理士。両親はめちゃくちゃ優しかったけど、まじめで曲がったことが大嫌い。自分の子どもでも他人の子どもでも、間違ったことは許さなかったです」
大好きな家族と幸福な幼少期を過ごしたが、9歳のときに父が亡くなり、11歳でリオからサンパウロに引っ越した。
「13歳のころから、“父がいたときのような生活を母にさせてあげるために、サッカー選手になりたい”というのがずっと夢でした」
ブラジルのクラブよりも好条件の日本へ
中学生のころからアルバイトを始め、高校生のときには朝から夜まで複数のアルバイトを掛け持ち。そんな中、草サッカーの大会に出ているときにスカウトされ、18歳でプロサッカー選手になる。
「うれしかったですよ。当時はプロといっても今みたいに何百万円、何千万円ともらえる時代じゃないけど、夢が叶(かな)った瞬間でした。でも、そこからが大変。自分のポジションを獲得するために認められなきゃいけないから、毎日が戦いでした」
懸命にプレーする姿が、日本から来ていた日系2世選手の目に留まり、“日本でプレーしないか”と誘いを受けた。
「ブラジルのクラブよりも条件がちょっとよかったから、OKしました。もう1年ブラジルで頑張ってポジションを取ってたら、もっといい給料をもらえていたかもしれないけど、家族の生活のために1年は待てなかった。お母さんはすごく反対したけど、兄は“いいじゃない、あなたの人生だから。2年行ってダメだったら帰ってくれば”と、快く送り出してくれました」
'77年に来日し、現・東京ヴェルディの前身にあたる読売サッカークラブに加入。言葉の壁はあっても、サッカーのスキルでは負けない。しかし、早く認められようと必死になったことが裏目に出てしまう。出場6試合目、相手チームの選手との接触を巡ってトラブルとなり、退場。さらに、信じられないほど厳しい処分を受けたのだ。
上手いからじゃない、誰よりも努力したんだ
「試合の翌日かな、ブラジル大使館の人から電話があって、いきなり“新聞読んでないのか”って。もちろん、読めるわけない(笑)。“どうしたんですか?”って聞いたら“あなた、1年間出場停止になったよ”と。すぐに着替えて、クラブハウスに向かいました。社長に“クビにしないでください。頑張っていつか恩返ししますから”って泣きながらお願いしたのを覚えています」
どん底のラモスを救ったのは、チームメートの松木安太郎だった。
「私がホームシックにならないように、日体大の仲間を呼んで海に連れていってくれて、スイカ割りを教えてくれたり、野球を教えてくれたり、ディスコやいろんな人の誕生日会に連れていってくれたり……。ブラジルでは家族が困っていて、出場停止なんて理由で帰るわけにもいかなかった。松木が支えてくれたし、社長には“ラモスをブラジルに帰さなくてよかったな”といつか絶対言わせようと、自分の中で誓ったんです」
試合に出られない間に、香港のクラブから3倍の報酬でオファーが来たこともあったが、松木やチームの社長を裏切れないという気持ちから拒否。出場停止が解けると、ラモスの快進撃が始まった。14得点、7アシストを記録し、得点王とアシスト王をはじめ4冠に輝いたのだ。
「出場停止中は、“こいつは1年間、給料をもらいながら六本木で遊ぶんじゃないのか”とか冷たい目で見られることもありましたね。でも、私は“そのうち見てろよ”と必死で練習しました。今でも子どもたちには“上手いからタイトルが獲れたんじゃない。誰よりも努力したんだ”と話しています」
来日から7年目の'83年、ついにチームは優勝。歓喜に沸いたが、ラモスはその2年前に選手生命の危機に陥っていた。バイク事故で、左足を複雑骨折したのだ。
「10メートルくらい飛ばされたのかな。病院の先生に仕事を聞かれて、サッカーをやってるって答えたら、“二度とできないよ”と言うんです。 私は“じゃあ触らないでくれ、ここには入院しない”と。それから夜中にいくつか病院を回ったけど同じようなことを言われ、最終的に当時、別チームの選手の紹介でお世話になっていた先生のもとに連れていってもらい、しっかり治してもらえました」
「ラモス、日本に帰化しなさい」代表選手へ
つらいリハビリを支えたのは、当時の交際相手であり、後に結婚することとなる初音さんだった。
「4か月間、私のわがままで来させなかった1日を除いて、毎日来てくれました。その1日は、今振り返っても人生で一番長く感じました」
そんな初音さんと順調に愛を育み、'84年にサンパウロで婚約式を挙げ、ふたりはともに人生を歩んでいく。
その後も日本でのプレーを続けたラモスだが、実は当時、別の夢を抱いていた。
「'86年に、コーチとして来ていたジノ・サニさんに“おまえの夢は何?”と聞かれ、“ブラジルに帰って、自分の力がどこまで通用するのか試したい”と伝えたら、“来年ブラジルに帰るから、一緒に来いよ”って。うれしくて初音ちゃんに話したら“いいじゃない”って言ってくれたんですけど、 “ちょっと待てよ”と。初音ちゃんは、ひとり娘。私がブラジルに連れていったら、誰が両親の面倒を見るのかなって思った。面倒を見る人がいなくなるのは絶対に嫌だったから、ジノさんに事情を説明して、お断りしました」
すると、コーチから思わぬ反応が。ラモスの人生は、ここで大きなターニングポイントを迎える。
「ジノさんから“おまえ、すごいな。じゃあ、読売クラブはおまえにとって何?”と聞かれ、“家族です”と伝えたら、“ラモス、日本に帰化しなさい”って言われました。えっ? て思ったけど、“おまえが帰化したら外国人枠が空いて、優秀なブラジル人を1人連れてくることができるから”と言われて。当時、読売クラブはアジアクラブ選手権で優勝を狙えるレベルになっていて、世界で勝てるチームにするために帰化を勧められたんです。恩返しできるのであればと思い、“わかりました、絶対します”と。だから、初音ちゃんの両親への思いと読売クラブへの恩返しが、私の帰化の理由です」
'89年に日本に帰化し、'90年には日本代表に選出された。しかし、代表に選ばれるとは思っていなかったという。
「日系人ならわかるけど、こんな髭も髪も長い人間じゃ、あり得ないなって。呼ばれたときは、めちゃくちゃうれしかったですよ。代表入りしたからには、まずはアジアでナンバーワンになりたいなと思いました。'92年のAFCアジアカップでそれを叶えて、翌年にはW杯予選に出て」
ラモスは当時の日本代表最年長得点を記録するなど、大活躍。先頭に立ってチームを牽引(けんいん)したが、最終イラク戦で試合終了直前に同点に追いつかれ、本大会出場を逃した。俗に言う“ドーハの悲劇”だ。
「神様が、“プロになったばかりでまだまだ早い。これからの日本のサッカーは、おまえら次第だぞ”って言ってくれたのかも。ただ、私は予選を突破しても、本大会に出場する気はありませんでした。すでに36歳。日本がW杯に出場するために、多くの犠牲を覚悟してプレーしていたので、身体はボロボロでしたから」
それでも、日本代表として戦ったことは、かけがえのない体験だった。
「日の丸を背負って世界と戦うなんて、これ以上名誉なことないんだよ。今、若い人たちはわかってるかどうか……。国を背負って戦うってことは、やっぱりすごいこと。自分のチームでは80%、90%でプレーしててもいいけど、代表では120%を出さなきゃいけない」
熱い気持ちを胸に長く第一線で活躍したラモスは、41歳で引退を決断。引退後は指導者に転身する。'06年に古巣・東京ヴェルディの監督に就任すると翌年、J2に落ちていたチームをJ1昇格に導く。
「最高ですよ。ヴェルディは、J2にいるチームではないと思っていましたから。愛してるクラブだから、最後になんとか恩返しがしたかった。メンバーもすごくよかった。まあ、メンバーがそろったのは私の力だけどね(笑)」
最愛の母、そして初音さんの死──
一方そのころ、プライベートでは悲しい出来事も。ブラジルに住む最愛の母が亡くなったのだ。
「お医者さんに“必ずヴェルディを昇格させるから、昇格パーティーに母を呼びたい”と相談していて、ドクターは“全然、可能ですよ”と言ってくれていました。でも、急にブラジルにいる姉から電話がかかってきて、“ママが亡くなったよ”って……。すぐに立って神様にお祈りして……でも、練習に行くしかない。チームには関係ないんだもん。“お母さんはいいところに行ってる”ってわかってるから」
迷惑をかけまいと気丈に振る舞ったラモスだったが、その5年後、またも不幸に苛まれる。初音さんが、52歳の若さでこの世を去った。
「母には申し訳ないけど、いちばん辛かったですね。自分もあの世に行くんじゃないかと思ったくらい。母も大好きだったし、愛していたから辛かった。ただ、自分の中では初音ちゃんがまた別格だった。母は、多分それをわかってる。“お前らしいな”って、今天国で笑ってくれてると思う」
初音さんの死後、悲しみから自暴自棄になり、ラモスの生活は荒れた。彼を立ち直らせたのは、当時大阪に住む友人の1人で後に再婚する現在の妻、俊子さんだった。
「初音ちゃんが亡くなってから1、2年くらいかな。大阪に行ったときに“あなた、ばかなことやってるの聞いてるよ。それ、初音さん喜んでないよ”って言われて、ドキッとした。それから食事に行くようになって“あなたの面倒見るの、私しかいないよ”って言われて、この人しかいないなと思いました」
'15年に、俊子さんと再婚。ふたたび前を向き始めようという矢先で、またも試練が待ち受けていた。脳梗塞で、命の危機に陥ったのだ。
「妻がすぐに気づいて、救急車を呼んでくれて。病院で、自分が寝るベッドもないのに付きっきりで看てくれた。彼女がいなかったら、私はここにいないね。死んでたか、車イス生活で話もできず、一人ぼっちだったと思う。リハビリは、お医者さんが止めるくらいやりましたよ(笑)。世界から“ラモス、頑張れ”ってたくさんメッセージをもらって、すごい愛されてるなと思ったし、この人たちに早く元気な姿を見せなきゃいけないな、泣いてる場合じゃないなって思って頑張りました」
特にラモスを救ったのが、元日本代表監督で当時FC今治(いまばり)を経営していた岡田武史氏と、旧友のEXILE HIROだった。
「岡田さんは倒れてすぐ次の日に連絡をくれて、“FC今治のアドバイザーになってくれ”って。まともに話せない状態で役に立ちませんよと思いましたが、“おまえのことはよくわかってるから、とにかく頑張れ。安心しろ、居場所はあるから”って言ってくれて、めっちゃうれしかった。その30分後にHIROから“ラモスさん、LDHに入ってください”と連絡が。“仕事のことは気にせず、リハビリに専念して”というメッセージをくれた2人の言葉は、どんな点滴より効いたね」
ラモス瑠偉は、このままでは終わらない
心に刺さった仲間たちからの愛。脳梗塞の経験から、学ぶこともあった。
「私は倒れるまで一匹狼でやってきていたけど、一匹狼は漫画の世界だけだなって思った。人間は、支えてくれる人がいなきゃダメ。私を残そうとしてくれた神様から、何かメッセージがあるんじゃないかなと思うし、私もまだまだ世の中のために役立ちたい。岡田さんやHIRO、今まで支えてくれた人たちの役にも立ちたい。妻とデートもしたいしね(笑)」
今後の人生について尋ねると、“ラモス節”全開で力強く答えてくれた。
「若い世代に伝えていきたいのは、1日1日を大事にすること。練習すればするほどに結果は出るし、努力は裏切らない。今の私の状態で“脳梗塞からの復帰”と喜んでくださっている人もいると思うのですが、私の中では、サッカーの監督として活躍することが復帰だと思っているから、どこかでまた絶対に監督をやりたいと思ってます。ラモス瑠偉は、このままでは終わらない。まだまだ暴れるぜ、まだまだ吠(ほ)えるで!」
11月からカタールW杯を戦う日本代表にも、激励を送る。
「グループステージ、突破するよ。ドーハのときもそうだったけど、遠く離れた場所からの応援、テレビの画面を通した応援でも、本当に選手たちに届く。嘘だと思うかもしれないけど、私はそのエネルギーをもらってプレーしてきたから、間違いなく届くんだって!」
65歳を迎えても、熱い思いで日本を鼓舞し続ける闘将。ラモスの言葉を信じて、日本代表にエールを!
取材協力/KAKU SPORTS OFFICE