「病気をきっかけに健康のためのルーティンを、毎日の生活にいくつも取り入れるようになりました。ずっと無頓着できたけれど、普通の生活ができるというのは当たり前のことではないんだと気づかされて─」
TRFのDJでリーダーのDJ KOOは、こう語り始めた。5年前に受けた脳動脈瘤の大手術。バラエティー番組の人間ドック企画で9・8ミリメートルの脳動脈瘤が見つかり、医師からは「このままでは失明のおそれがある。破裂すればくも膜下出血を起こす」と告げられた。当時56歳で、人生で初めて直面する生命の危機だった。
沢田研二に憧れて
「1週間後には自分はこの世にいないかも。これまでしてきたことがすべてなくなるかもしれない。そう思うともうどうしていいかわからず、地に足がついていないかのような感覚を味わいました。でも体調自体はいつもとまったく変わらないんです。まさにサイレント・キラーです」
家族に知らせたのは番組収録の帰り道。妻と娘は努めて冷静に事実を受け止め、できる限りの情報を集め、具体策を家族3人で話し合った。
妻子の「一緒に頑張るから」との言葉に背中を押され、手術を決意。開頭し、頭蓋骨を削り、穴を開けて頭の半分にメスを入れた。6時間半に及ぶ手術は無事成功。リハビリに励み、2か月後に仕事に復帰している。
高校時代はラグビー部でキッカーとして活躍した筋金入りの体育会系。もともと身体には自信があり、病気とは無縁の日々を過ごしてきた。音楽に目覚めたきっかけはというと、
「ジュリーです。沢田研二さん。あの色気に憧れて」
少年時代はグループ・サウンズの全盛期。ジュリーがボーカルを務めていた『ザ・タイガース』のアルバムを手に入れ、それが洋楽との出会いのきっかけになったという。
「アルバムにローリング・ストーンズのカバー曲が収録されていて、そこで今度は洋楽にハマってしまって。スーパーギタリストになりたいという夢を抱くようになりました。ボーカリストというセンターの立場より、ギタリストのちょっと斜に構えた立ち位置のほうがカッコいい、というのが僕の美学としてあったんです」
とはいえどうすればプロのミュージシャンになれるのか、情報もなければ手立てもない。一度は夢を諦めかけるが、高校を卒業しても就職する気になれず、社会に出る前の腰掛けと、語学の専門学校へ進んだ。当時はディスコ・ブームの真っただ中で、サークル仲間と遊びに行き、DJの存在を知る。
「ディスコには不良っぽい人もいればイケイケのお姉ちゃんもいたりと本当にいろいろな人が集まっていて、その誰もがDJの音楽で踊り、盛り上がってた。それを見た瞬間
“なんてカッコいいんだ!”と思い、DJの道を目指そうと決めた。19歳のときでした」
まずはDJ見習いからスタート。給料はなく、仕事は夜から朝まで続く。ディスコの華やかなイメージとは相反し、「まるで落語家の修業のようでしたね(笑)」と振り返る。
家族とのルーティンとは
「でも見習いからDJとしてレコードを回せるセカンドのポジションになったとき、初月給が12万円もらえたんです。当時の12万円はある程度の大学を出た人が初任給にもらう額。これなら両親にも認めてもらえるかもしれないと思い、そこで初めて“DJとしてやっていきたい”と伝えました」
DJという言葉はまだ世間一般には浸透しておらず、活躍の場も限られていた時代。DJだけで暮らしていくのは難しく、清掃業のアルバイトをしてしのいでいた時期もあった。そんな彼を支えたのが、妻の「あなたが好きなことをやりなさい。あなたがいいと思ってやったことに私はついていくから」という言葉。
「お金に関して何か言われることは一切なかった。食えないときはきっと不安もあっただろうし、こっそり妻の実家に用立ててもらうようなこともあったのではないかと思います。本当に感謝ですよね。もう頭が上がらないですよ」
DJ KOOといえば恐妻家として知られるが、その言動は夫婦の強い絆と揺るぎない信頼関係があってこそ。
「家に帰るとまず食卓につき、奥さんの話を聞く、というのが僕のルーティン。今日はお腹が減ったから肉を最初に食べようと思っても、奥さんが“美味しそうな湯葉があったから買ってみたの”と言ったら、まず湯葉に箸を伸ばす(笑)。気を使っているわけではなくて、やっぱり奥さんは常に正しいんですよね。
奥さんは僕の健康を考えていつも身体にいい料理を何品も作ってくれて、この食材がいいと聞けば早速食卓に並んでいたりする。僕が元気でいられるのは奥さんのおかげ。だから彼女の言うとおりにしていれば間違いがないと思っています」
DJ KOOにとって優先すべきはまず家族で、著書にも妻子とのルーティンが多く登場する。例えば“夕飯は自宅で家族と食べる”“夜は家族全員同じ部屋で寝る”など。
「夕食は基本的に家に帰って食べるようにしているので、家族もなるべく僕のタイミングに合わせてくれるし、遅くなった日は僕が食べているあいだは奥さんと娘が必ず一緒にリビングにいてくれます。
娘はもう22歳なので、同じ部屋で寝るのは珍しいかもしれないですね。娘の部屋はちゃんとあるけれど、そこは勉強部屋になっていて、寝るとき同じ部屋に集まる感じ。もし娘が結婚したら……、まだまだ考えられないです。とにかく親バカで、いまだに子離れできないんです(笑)」
自他共に認める大の子煩悩。溺愛すると同時に人として大切なことを身をもって伝えてきた。
「高齢になってからできた子どもだったので、きょうだいをつくってあげられない。奥さんと相談して、女の子がひとりで生きていくうえで困らないよう、常識と学力はきちんと身につけさせてあげようと決めました。
子どもが生まれて僕が最初にしたのは、車が通っていなくても赤信号のときは絶対に渡らないということ。ルールですから当たり前のことなんですよね。僕は子育てに関しては常識的に取り組んでいかなければと思い、実際そこは守ってきたつもりです」
バラエティーは家族で取り組む
5年前の父の大病は、当時高校生だった娘にとっても転機になった。医学の道を志し、今春大学院へ進学。「娘はわが家の誇り」と笑顔をみせる。
「もともと医療に興味はあったようですが、父親の手術に直面し、そこで病院の先生や看護師さんたちが人を救う様子を間近で見聞きしたことが、決断のきっけになったのかもしれません。小学校から持ち上がりの私立の学校に通っていたけれど、医療の道に進むとなるとまた改めてたくさん勉強しなければいけない。
娘から話を聞いたとき“大変だよ、大丈夫?”と言ったけど、揺るがなかった。実際ずっと勉強していますね。親の僕のほうが“もっと遊んでいいよ”なんて言ってるくらい(笑)」
音楽活動と並行し、53歳でバラエティーに進出。一部から“仕事を選べ”“仕事がなくなったのか”などと揶揄されたこともあったが、そこで救いになったのもやはり家族の言葉だったという。
「家族は僕が出る番組をすべて欠かさずチェックしていて、ありがたいことに“パパがすることは全部面白い!”と言ってくれています。バラエティーに出だしたころは“よくこんなことやってられるな”なんて言われもしたけれど、娘が“そういうアンチは気にしなくていいよ”と言ってくれて。
バラエティーというのは幅広い知識が必要になるけれど、ウチには若者代表と主婦代表がいるので2人にいつもすごく助けられています。今やバラエティーは家族みんなで取り組んでいる感じ。例えば娘に最新のトレンド情報を教えてもらったり、大戸屋の特集に出るから予習しようと家族で一緒に食べに行ったり。もはやひとつのチームです(笑)」
昨今は自らお笑い芸人とのコラボイベントも企画し、活躍の幅はより広がった。さらに盆踊りイベントやキッチンカーのプロデュースを手がけるなど、精力的な活動が続く。
「病気をする前は“DJなんだからそこまでしなくていいんじゃない?”という気持ちも正直どこかにありました。でも今は“何でも気兼ねせず言って。みんなで新しいことをしようよ!”という感覚になってる。
結果として新しい人や世界とつながることも増えました。やりたいことはまだまだあって、例えばパン好きなのでパンフェスも開催したい。美味しいパンを集めて、DJイベントで盛り上がって、芸人さんを呼んでお笑いをしてもらうのもいいですね。踊って、笑って、美味しいものをたくさん食べて……、絶対に元気が出るじゃないですか」
DJ KOOといえど、もちろん元気な日ばかりではない。トーンダウンもときにはするが、「今日はもう無理というときは、“無理です!”と言い切っちゃう」と潔い。
「“無理”というのは僕の中ではある意味前向きな言葉。“もう無理!”と言って、いったん肩の力を抜いて考え直せばいい。“やらなくちゃ”と自分を追い込まず、“今日はもう無理だからいいよね”とルーティンを崩すことも大切なルーティンだと思う」
「病気を経験して、思考回路が変わった」
気持ちを切り替え、前向きな妥協を自分に許す。それがDJ KOO流のルーティン。
「僕は夕食後のウォーキングを毎日のルーティンにしているけれど、“暑すぎるから今日はやめよう”なんて日もあって。そこで“じゃあそのぶん野菜を食べよう”“バテないようお肉を食べてエネルギーを蓄えよう”と前向きに考える。トライ&フォローです。トライ&エラーだとエラーの言葉がネガティブに響いてしまう。トライして、ダメでも違う形でフォローすればいい」
8月8日に誕生日を迎え、61歳になった。そんな彼は著書『あと10歳若くなる! DJ KOO流 心・体・脳(シンタイノウ)の整え方』を出版。“何歳からでも健康志向になれる”“何歳になっても知ることは幸せである”など、病気を克服したことで得た彼独自のルーティンを紹介。
「本の発売日に娘がサプライズでケーキを焼いてお祝いをしてくれました。家族はひと足先に読んでいて、“わかりやすい”“押しつけがましくなくていい”とお褒めの言葉をいただいています(笑)」
と、家族からも“物書き”としても評価をしてもらえているよう。DJ歴42年目に突入した今、改めてこの先何か挑戦してみたいことは?
「61歳は動いているDJ KOOをお見せしたいですね。来年TRFが30周年を迎えるので、それに向けてちゃんと基礎からダンスを習ってみようと思っていて。踊るDJです。メンバーには“KOOちゃんは30年間ずっと私たちのダンスを間近で見てきたわけだから、そろそろできてもいいんじゃない?”と言われていて、TRF30周年ライブではDJ KOOのソロダンスを披露したいと思います(笑)」
還暦を越え、ますますチャレンジ精神は増すばかり。自身の活動を通し、「元気を振りまいていけたら」と語る。
「僕の命は、病気から復帰したことでもらったようなものだから、これからお返ししていかなければいけない。クリエイティブな音楽活動では自分がメインという感覚が強かったけど、今はみんなが元気になってくれることが僕のライフワークとして念頭にある。
病気を経験して、思考回路が変わったのかもしれません。僕もルーティンを続けることで、元気を取り戻すことができました。大事にしたいのはやはり健康で、自分の身体を大事にするということは、家族や仲間を大事にするということにもなる。まずは毎日のルーティンを楽しく笑顔で続けること。そしてみなさんに元気になってもらえたらいいですね」
取材・文/小野寺悦子