女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。48次南極観測隊との交流を懐かしむ。
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俳優の石濱朗さんが、7月に老衰のため病院で亡くなられたという。87歳だった。
石濱さんとは、1963年に放送されたテレビドラマ『赤い鈴蘭』(NET/現・テレビ朝日系)で共演した仲。
函館湯ノ川温泉を舞台に、旅館のひとり娘である西田佐知子さん演じる北沢早苗、その婚約者(石濱朗さん)を私が演じる親友・菊地京子が奪って結婚する─という三角関係を描いたドラマで、原作は巨匠・木下惠介先生。
おとなしい性格の早苗とは対照的に、京子は情熱的な女性。当時、生意気ざかりだった私は、演じていて没頭できる役柄で、とても楽しかった。奪ったはいいものの、その後、京子は苦労した末、貧乏になるという、登場人物の描写が深くて鋭い木下先生らしい作品だったと思う。
48次南極観測隊から届いた手紙
なんでも、このドラマは遥かかなたの南極で愛されていたらしい。しかも、「早苗派」と「京子派」に分かれているとか。昭和基地では、どちらの女性がいいかで、日夜(陽が上らない時期もあるから“極夜”かも)、2派が甲論乙駁の様相を呈していたというから驚いちゃう。
なんで私がそんなことを知っているのかって? 実は、私のもとにFAXが届いたの。差出人は、第48次南極観測隊のみなさん。'07年に南極に滞在していた方々だった。
お便りの書き出しは、こう。
《突然のお手紙失礼致します。48次南極観測隊として南極昭和基地で越冬している者です。冨士眞奈美さんへお手紙を書こうと思い立ったのは、本日『赤い鈴蘭』の最終回を見終わった後のことです。夕食の後、『赤い鈴蘭』をサロンで見ながら一つ一つのシーンに、皆で一喜一憂することが最近の楽しみの一つになっていました。(中略)よろしければ、ご返事をいただけたら我々隊員の励みになると思います》
励みになる─なんておそれ多い。手紙を読むと、以前の昭和基地ではドラマや映画が最大の娯楽だったようで、『赤い鈴蘭』もそのひとつだったそう。見られない人がいると、その回の内容を無線で知らせる(!!)というほど生活の一部になっていると書かれていた。その娯楽文化が連綿と続き、'07年の48次南極観測隊のみなさんが、40年以上前のドラマを楽しんでいらっしゃる。自分の出ていたドラマが、まるでマンモスのように永久凍土で保存され、時を超えて、こんな形で発見されるとは思いもしなかった。
南極へ送った俳句の中身
南極観測隊からのお手紙にとても感動した私は、FAXで返信した。こんなに役者冥利に尽きることなんてない。
遠い遠い南極との往復書簡は、何度か続いた。
彼らとは俳句を交換したこともあった。南極には四季がなく、「あるのは、長い冬と短い夏だけ」と書いてらっしゃった。季語を考えると、冬の「極夜(上らぬ太陽)」「オーロラ」「カタバ風(大陸から吹き下ろす冷たい風)」などがあり、夏は、「白夜(沈まぬ太陽)」「迎えの船」などがある─南極にいる方にしかわからない季語を教えていただき、大いに感嘆した。
そのころは娘と住んでいた私からも南極へ俳句を送った。
《二人して食らう秋刀魚の裏表》
どうやら私が彼らに返信をしたのは秋だったみたい。手紙を読み返すと、当時ヤンキースで活躍していた松井選手の話など(今も昔も野球の話は欠かせない!)たわいない近況を伝え合っていた。
彼らが日本に戻ってきた後、石濱さんと私、観測隊員の方々と神楽坂のファミレスでお会いしたことがあった。ペンギンや南極大陸を撮影した写真をいただき、「よくこんな所で生活をされているなぁ」と畏敬の念を抱いた。隊員の方々が、『赤い鈴蘭』を見ているテレビ画面の入った写真もあった。
現在、南極観測隊は63次まで続いているという。もし、まだ『赤い鈴蘭』が見られているなら、天国の石濱さんもきっと喜んでいらっしゃるに違いない。
ふじ・まなみ 静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。