香川照之

 日本で、俳優・香川照之氏による性的加害行為が波紋を広げている。8月24日発売の週刊新潮による初報後、香川氏が出演する番組を放送する複数のテレビ局が同氏の降版や番組放送打ち切りを次々と決定。香川氏の俳優・タレントとしての活躍の場はほぼ消えつつある。

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 初報から同氏を起用していたトヨタ自動車に見切りをつけられるまでが、1週間。放送界やビジネス界の対応は必ずしも素早いとは言えないのではないか。テレビ朝日に至っては、香川氏が出演中の連続ドラマ「六本木クラス」は今後も放送を続ける予定だ。

 筆者が住むイギリスから見ると、日本のテレビ局及びトヨタのような国際企業の対応は「遅い」「生ぬるい」と言ってもよいほどだ。特に、報道の翌日に香川氏の事務所が報道内容は事実と認めているので、なおさらだ。「疑惑」でさえない。

#MeTooの発端になったワインスタイン事件

 アメリカでは、2017年10月、有力映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが長年にわたって多数の女性(イギリス人も含む)に対しセクハラや性的暴行を行っていたことが明るみに出た。被害体験を告発する運動「#MeToo」が世界中に広がり、ワインスタインが経営していた映画会社は破産。同氏は強姦罪などで有罪となり、刑務所に収監中だ。

 イギリスでも、著名芸能人・関係者による性的加害行為の発覚はめずらしくない。イギリスでワインスタイン級の大物業界人として君臨したのが、アメリカ人俳優ケビン・スペイシーだ。#MeToo運動を背景に、ある男性俳優が14歳の時の1986年に、スぺイシーに痴漢行為を受けたと告発。続々とセクハラ、性的暴行を受けたとする男性たちが声を上げだした。

 イギリスに住む多くの人にとって、これは大きな衝撃だった。スペイシーは確かにアメリカの俳優だが、2004年から15年までロンドンのオールドビック劇場で芸術監督を務めていた。

 2015年、スペイシーはイギリスの演劇界への貢献を高く評価され、大英帝国勲章2位(KBE)まで授与されている。「自分たちのスター」という思いが共有されていた。そんな「われらがスペイシー」が性的加害行為を行うとは。

 2017年11月16日、オールドビック劇場は芸術監督時代のスペイシーによる加害の調査結果を発表し、これによると少なくとも20人が「不適切な行動」の対象となっていた。

 ネットフリックスが主演ドラマ「ハウス・オブ・カード」シーズン6の配役からスぺイシーを外し、撮影が終わっていた米英合作映画「ゲティ家の身代金」はクリストファー・プラマーが代役となり、スペイシーの出演場面は撮り直しとなったことはよく知られている。スペイシーは米英のエンタテインメント界から締め出された。疑惑が出た時点で、徹底的な対処法が取られている。

非常に素早く、かつ過敏なエンタメ業界

 イギリスでは性的加害疑惑に対し、非常に素早くかつ過敏とも言えるような連鎖反応が起きる。性的加害行為を働いた「かもしれない」という疑惑が出ただけで、新聞各紙はあたかもその人物が加害者であるかのように報道する。その芸能人を使う側の企業や放送局からすれば、何もしないわけにはいかなくなる。「疑惑が出たら、即、対処」がルールである。

 とりわけ年少者に対する性犯罪は特にイギリスでは忌み嫌われている。これには相応の理由があった。過去を振り返ると、海外では高い評価を受ける寄宿制学校は、教師が男児に性的加害を行う温床となった。少年たちに人気があるサッカーやラグビークラブでも、コーチが少年たちの体を触る、レイプするなどの犯罪が発生してきた。後者についてようやく報道されるようになったのは比較的最近である。

 2012年、BBCのラジオやテレビの人気司会者ジミー・サビルの加害行為が明るみに出た。

 サビルは2011年に亡くなったが、1970年代、80年代に国民的な支持を受ける有名人として活躍した。慈善事業に熱心であったために、その貢献を評価され、1988年、エリザベス女王から「サー」の称号まで得ている。しかし、死後、障害を持つ子どもたちのほかに大量の人数の女性たちに性的加害行為を行っていたことがBBCや民放ITVの調査で発覚した。

 イギリスの司法には何世紀も前から「推定無罪」、つまり「有罪判断が下るまでは、無罪」という原則があるのだが、性的犯罪・疑惑については、この原則がなぜかどこかに"消えて"しまう。

 疑惑報道が出ると、公人や芸能人はそのキャリア、および個人生活が乱され、時によっては破壊され、職を失う場合もある。疑惑報道で打撃を受けた芸能人の1人が、往年のイギリスの歌手クリフ・リチャードだ。

エンタメ業界が性的疑惑に過敏なワケ

 2014年、BBCは警察がリチャードを性的加害行為の容疑者として捜査しているという文脈で、彼の自宅に入る捜査官らの様子を、ヘリコプターを使って上空から大規模な取材を敢行。

 彼のような超著名芸能人であっても、性的犯罪の疑惑があれば、犯人視報道になる。しかし、リチャードは逮捕も起訴もされずじまいで、BBCは「プライバシーの侵害」で訴えられた。2019年、リチャード側が勝訴した。

 性的疑惑については超過敏な雰囲気の背景には、サビルによる犯罪行為を見逃していたことへの反省、近年の#MeToo運動、女性の社会的地位の上昇、あらゆる人が犠牲者になり得る性犯罪についての認識の高まり、児童に対する性犯罪を忌み嫌うなどのいくつもの要素が絡み合う。

 日本の香川氏のように、人気俳優がテレビで企業のコマーシャルに出演するという慣習がイギリスにはないため、疑惑が出たのでコマーシャルの放送停止という事態は発生しないものの、イギリスの芸能人や芸能関係者の場合、疑惑だけで出演番組や映画などの出演、制作などがいったん停止する「疑惑が出たら、即、対処」のルールが採用される。視聴者のほうもそれを期待するのである。

疑惑だけで犯人視した報道になってしまう場合も

 直近では、元BBCのラジオのDJティム・ウェストウッドの例がある。4月26日、BBCとリベラル系新聞ガーディアン紙はウェストウッドが影響力のあるDJとしての地位を利用して性的暴行を働いたと告発した7人の女性の話を報道した。疑惑の加害行為は1992年から2017年の間に発生したという。

 報道から24時間後、ウェストウッドは番組を持っていた放送局「Capital Xtra」を降板すると発表した。ウェストウッドがDJをすることになっていた3つのイベントが開催を中止。ウェストウッド側は「すべてが作り話だ。完全否定する」と述べている。

 常識的に考えると、BBCとガーディアンの調査報道記者たちが取材した女性たちがグルになってうそをついているとは思えないものの、一歩間違えば「実は犯人ではないのに、犯人視した報道」に転ぶ可能性もないわけではない。

 疑惑が出た時点で即、出演番組の降板などの対処をしたほうがいいのか、それともじっくりと時間をかけて行動した方がいいのか。香川氏の場合、ほかの加害疑惑がどれぐらいあるのか、どのような加害なのかなどを筆者は知りたく思う。

 イギリスの場合は好むと好まざるにかかわらず、性加害行動疑惑については超過敏反応の状態が続いている。


小林 恭子(こばやし ぎんこ)Ginko Kobayashi
ジャーナリスト
成城大学文芸学部芸術学科(映画専攻)を卒業後、アメリカの投資銀行ファースト・ボストン(現クレディ・スイス)勤務を経て、読売新聞の英字日刊紙デイリー・ヨミウリ紙(現ジャパン・ニューズ紙)の記者となる。2002年、渡英。英国のメディアをジャーナリズムの観点からウォッチングするブログ「英国メディア・ウオッチ」を運営しながら、業界紙、雑誌などにメディア記事を執筆。