日本人初の3階級制覇王者でありながら、なにかとネガティブな方向で目立ってしまった亀田興毅さん(35)と、その家族。現在は、ボクサーたちに“最高”の舞台とファイトマネーを用意し、業界の“再興”と改革のために尽力している。そのモチベーションはどこからくるのか。世間で知られているイメージの斜め上を行く、本当の拳の強さとは──。
2つの願いが込められた「3150」
8月14日、エディオンアリーナ大阪第1競技場で開催されたボクシングイベント「3150(サイコー)FIGHT vol.3」。その興行終了後のバックステージで、記者たちに向かって熱弁を振るう亀田興毅の姿があった。
「ここで誰かが動かないと衰退してしまう。ボクシングに恩返しがしたい」
かつて世間を騒がせた悪童は、謙虚に、誠実に言葉を紡いでいく。現役時代と変わらない均整のとれた身体は健在だが、今はボクシングトランクスではなく、ネクタイとスーツに身を包む。元世界3階級制覇王者は、ボクシングイベントのファウンダー(設立者)となり、実業家としてセカンドキャリアを歩み出していた。
ボクシングの興行は、日本ボクシングコミッション(以下、JBC)の規定により、過去3回の興行実績を作らなければ、正式にプロモーターライセンスを取得することは叶わない。これまで興毅は、プロモーターライセンスを持つ他ジムとの共催という形式で3回の興行を開催。この日は、晴れて単独で開催する、プロモーターデビュー戦でもあった。
「まだ赤字やけど、未来への先行投資。3年を目標にボクシングを変える」
「3150FIGHT」の3150には、2つの願いが込められているという。ボクシングを“再興”し、“最高”の舞台にする──。
「ボクシングをやってなかったら、今の自分はないですからね。それだけです」。そう微笑(ほほえ)むが、彼以上に非難の的にさらされ、翻弄(ほんろう)された日本人ボクサーはいないだろう。
日本ボクシング史にその名を残す亀田興毅は、いま日本ボクシング史そのものを変えるべく、挑戦者として再びリングへ戻ってきた。
「親父は“策士”なんですよ」
現在、興毅は亀田兄弟のマネージメントなどを行う個人事務所「亀田プロモーション」代表取締役社長としても目まぐるしい日々を送る。
事務所の自席につくや、
「最近は毎日、数字とにらめっこばかりしてますよ。僕は元世界チャンピオンだけど、ビジネスの世界でいえば、プロボクサーライセンスでいちばん下の4回戦の人間。『俺は元世界チャンピオンなんや!』ってふんぞり返ってたらダメじゃないですか。何事も全部4回戦から」
そう言って、書類のチェックを始める。彼の口から、「損益計算書」、「貸借対照表」といった言葉が飛び出すと、何だかカウンターパンチを食らったような気持ちになる。
「最初は全然わかりませんでしたよ(笑)。小学校だってまともに行ってないから、幼稚園卒業の“幼卒”みたいなもんですからね。自分でもようやってるわって思う」
子どものころは、ボクシング漬けだったと振り返る。
「親父にうまく乗せられました。最初は続けたくなかった」
興毅は小学校6年生のとき、父・史郎さんにすすめられる形でボクシングを始めた。場所は、生まれ故郷の大阪市西成区天下茶屋のジム。かつて太閤秀吉が茶の湯を楽しんだ場所でありながら、現在は俳優の赤井英和が“浪速のロッキー”として活躍した、ボクシングの本場でもあった。
ある日、史郎さんから、「おまえ、ケンカ強い言うてたよな? ボクシングを見てみぃ。相手を倒したらそれでお金が稼げるんや」。そう言われ、その気になってグローブを握った。
ところが、なんてことはない普通の体形の選手とスパーリングをするや、1R(ラウンド)でスタミナが切れ、一方的に殴られた。
「12Rもやるなんて信じられないと。自分には向いてないと思って、親父に『やめたい』と言いました」
返ってきた答えは、「1回決めたら最後までやらなあかん。途中でやめるなんてそれは通用せぇへんで」。興毅は、父を「策士なんですよ。やり方がいやらしい」と、親しみを込めて評する。
そこから史郎さんの子どもたちに対する英才教育は過熱する。河川敷で走り込みと練習を繰り返し、時にはストレートパンチでろうそくの炎を消す「ろうそく消しストレート」といったオリジナルメニューまでこなした。
父とともに世界チャンピオンの夢を目指す、興毅・大毅・和毅の三兄弟。その姿は、次第にメディアでも取り上げられるようになり、興毅自身も「中学生のときには世界チャンピオンになると決めてました」と語る。
「ただ」、少し間を置いて、「親父がレールを敷いた、その上に乗っかっているだけ。今も昔も自分で何かやりたいというものがないんですよ」とも打ち明ける。
中学を卒業すると、高校には進学せず、社会人ボクシングに拠点を置いた。全日本社会人選手権フライ級で優勝するなど、十分な実績を残した17歳の“浪速乃闘拳”を、メディアは未来の世界チャンピオンなどと持ち上げた。プロデビュー戦を控えた記者会見は、異例の数のメディアが殺到したほどだった。
「後にも先にも、この時ほど緊張したことはない」。そう興毅は微苦笑する。
人見知りの“チャンピオン”
「僕は、もともとの性格はすごい人見知り。めっちゃ緊張して、前日は一睡もできひんかったくらい」
にわかには信じられないが、兄を間近で見続けてきた弟・大毅が証言する。
「僕らがまだ小学生のとき、地元の町の人が仕切る2泊3日の旅行に兄と2人で参加したことがある。隣の学校の子などもいる中で、兄はごはんも食べず、ひと言も喋(しゃべ)らず、端っこで体育座りをしていた。家に帰ってきたら、泣いて親父に飛びついていた」
大毅が続ける。
「兄は、小学校4年生のとき空手のチャンピオンになりました。それで自信がついたのか、ようやく人と喋れるようになっていった」
人前は苦手。いかに物怖(お)じせずに記者会見をするか。ここでも名伯楽・史郎さんのアイデアが冴(さ)えわたる。なんと質問を想定して、事前に記者会見をシミュレーションしたというのだ。
「親父は、『普通の言葉を並べたところで、面白い見出しはつかない』と。スポーツ新聞の格闘技欄でボクシングは埋もれがちです。まじめな人間よりも嫌われた人間のほうが、早く世の中に知られる。ヒールでいかなあかんって」
まだ17歳の少年。決断に迷いはなかったのか?
「怖いもの知らずだったんでしょうね。あのときは世間というものをわかってなかった。でも……今それをやれって言われたら、もっとうまく立ち回れたと思いますね。もっといいプロデュースができる」
時折ファウンダーの顔になって、ニヤリと笑う。
亀田旋風──と言っていいだろう。'06年8月2日に行われた、自身初の世界戦であるファン・ランダエタとの一戦は、驚愕(きょうがく)の42.4%(瞬間最高は52.9%)という視聴率をマークした。賛否が渦巻く亀田兄弟の試合は、衆目を集めるドル箱マッチとなり、ボクシングを見ない層にまで浸透していく。ビッグマウスと派手な言動に対して、『スーパーモーニング』(テレビ朝日系)でやくみつる氏が史郎さんに噛(か)みついたのもこのころだ。
だが、「家族思いの素直でまっすぐな少年。リング上やテレビでのパフォーマンスとはまったく逆のイメージで、礼儀正しい好青年というイメージでした」
と、初めて興毅と会ったときの印象を振り返るのは、T-BOLANの森友嵐士さん。ランダエタとの世界戦で国歌斉唱を務めるなど、亀田家と公私にわたって交流を持つ。
「史郎ちゃんが、僕に国歌独唱をお願いしたとき、三兄弟全員手を合わせてまぶたを閉じて、お願いのポーズで僕の返事を待ってました。20歳に満たない少年が世界チャンピオン戦のステージに上がる。引き受けたいと思ってしまいました」(森友さん)
そのころ森友さんは、'99年に心因性発声障害が判明し、思うように歌えない状態にあった。その影響もあって、T-BOLANは同年12月に一度解散した。
「歌えるかどうかもわからない俺の声をこんなにも必要としてくれている。まだ、歌声を取り戻せていない時期で、不安もありました。ですが、彼らの強い思いは、真逆なものさえ動かすチカラがあります。本気だからでしょうね」(森友さん)
一家を代表し21歳で謝罪会見
順風満帆にいくかと思えた。'07年10月に行われた内藤大助と弟・大毅の世界戦。ここに、落とし穴は潜んでいた。この試合で不適切な言動を行った亀田サイドに、世間は容赦なく猛バッシングを浴びせた。興毅は、一家を代表して謝罪会見に臨んだ。まだ、21歳だった。
「親父は、『おまえらがするべきことは謝ることじゃなくて練習して強くなることや』と言い、会見には反対でした。でも、僕はあのときは謝るしかないと思った」
今振り返ると、この判断に後悔があると告白する。
「目先の鎮火に躍起になってしまった。大毅がライセンスを停止されたのをはじめ、ボクシングに関してはリングの上で裁きを受けている。誰に謝るんやって話なんですよね」
謝罪会見を行ったことで、ヒールという商品価値にもヒビが入った。
この騒動後、亀田兄弟は協栄ジムを離れて、亀田ジムを設立する。大毅が念願の世界王者となったことで日本初の兄弟世界王者という偉業を達成し、プライベートでも中学時代の同級生と結婚、第1子誕生と明るい話題が続く。しかし、亀田ジムには暗雲が立ち込め始めていた──。
ボクシングジムは、現在、全国に270ほど存在するという。
ジムは運営するだけではなく、自らが主となって興行を打ち、スポンサー営業もしなければいけない。もちろん、興行のチケットをさばくのもジム、あるいは選手となる。
興毅が説明する。
「相撲は日本相撲協会があり、協会が年6場所を開催している。一方、ボクシングにはJBCがありますが、JBCが開催するわけじゃない。興行を開催するのは各ジム。相撲でたとえるなら、相撲部屋がおのおの興行をしているようなもの。ボクシングのジムは、練習だけしていればいいというわけじゃない」
JBCは、ライセンスの発行など、ボクシング興行を客観的にチェックする監査機関のような存在。半面、ジムは興行を成功させるためひとりで何役もこなさなければいけない側面を持つ。そのため、立場が違うJBCとジムの間で軋轢(あつれき)が生じるケースもある。
結論から言えば、亀田ジムはJBCと衝突してしまう。
'14年には、JBCの職員から恫喝疑惑で訴えられる(その後、JBCの訴えを退け、亀田ジム側の勝訴が確定)など、因縁浅からぬ仲へと発展。亀田ジムは活動停止へと追い込まれ、興行を開催することができなくなるばかりか、三兄弟が保持するボクサーライセンスも実質的に失効となった。事実上の国内からの追放処分である。
拠点を海外に移し、国外でしか試合ができないと、世間の関心も薄れていく。彼らは、ボクシングに興味があったのではなく、世間を騒がす「亀田家」に関心を抱いていたのだから。興毅は、そんな状況も変えたいと訴える。
「横綱が不在でも大相撲を見に行く人はたくさんいる。大相撲ファンがいるんです。でも、ボクシングは選手や話題ありき。ボクシングのファンを増やしたいんです」
'15年10月、興毅は引退を表明する。
このときから、興毅は「ボクシングへの恩返しを考えていた」と語る。AbemaTVの『亀田興毅に勝ったら1000万円』('17年)、『1000万円シリーズスペシャルマッチ 那須川天心vs亀田興毅』('19年)といった企画も、ボクシングへの興味・関心を増やすために望んで出演を決めたことだった。
だが、ボクシング界からの反発は強く、協会は「非ボクシングイベント等の不当性を今後も世論に訴え続ける」といった旨の声明文を発表する。
「要するに亀田と関わるなという内容です。ボクシングを盛り上げたいという思いが、一気に冷めた」
引退してもなお、業界の亀田アレルギーは根深かった。「約2年、ボクシングと距離を置きました」と乾いた声で笑う。
ルールの中で業界を変えていく
大阪市西成区に、興毅が会長を務めるボクシングジム「KWORLD3」はある。'21年3月、もともとは「3150ファイトクラブ」という名で開設したジムである。
空白の2年間、興毅は現役時代からつながりのあるさまざまな業種の人間と、異種格闘技戦さながらに交流を重ねた。
「ボクシング業界では年間約200回の興行があります。その売り上げと、月謝などのジム事業を合わせても年間100億に届かない市場です。交流を重ねていくと、目からウロコの話ばかりで、ボクシング市場はなんて停滞している業界なんだろうと感じた」
徐々に実業家・亀田興毅へと変身していく中で、再びボクシングの火を灯(とも)す決定打となったのは、「コロナ禍でした」。そう興毅は振り返る。
「資金力に乏しいジムは、コロナの影響が直撃し試合ができず、その結果、引退を選ぶボクサーの数が増えていた。ボクサーが活躍できる場を作らなあかんと思いました。
正式にクラブオーナーライセンスを取得し、JBCの一員としてスタートすればいい」
煮え湯を飲まされたであろう因縁の相手の懐に飛び込む。「ルールの中でどうやったらボクシング業界を変えることができるか」。駆け引きをしつつ、防御を固め、興毅は「改革」の一撃を放つために、動き出した。弟の大毅も、兄を手伝うことを申し出た。これに興毅は驚いたと明かす。
「自分から何かをしたいと言い出すタイプではなかったし、大毅はボクシングも2階級制覇をしたくらいからやっと好きになっていったから」
ようやく好きになれたボクシング。だが、国内追放となり、追い打ちをかけるように、大毅は左目に網膜剥離が見つかる。思うような動きはできず、大毅も興毅を追うように引退を宣言した。もっともボクサーとして脂が乗っていただろう時期に、突然、ボクシングから別れを告げられた。未練がない──わけがない。
「すごいボクサーたちがいることを全国の人に知ってもらうための舞台を作りたい。それを支援してくれる方を見つけて、説明して、スポンサー営業をする」(大毅)
その姿に、興毅は「地方のジムや企業さんに、僕らが目指すものを、直接コツコツと説明してますね。大毅はスーパー営業マンですよ」と太鼓判を押す。
専門的なプロモーターへの期待
改革は、やりたいことではなく、やらなければいけないこと──。興毅は、「やりたいじゃなくて、決めたらやらないといけない。やったらやらないといけない」と、自らに言い聞かせるように、語る。
冒頭で触れた「3150FIGHT vol.3」は、世界戦が行われないにもかかわらず32社という規格外の数のスポンサーを集め、豊富な資金力を武器に、ボクシング興行の常識を覆す大会だった。
ボクシングの興行として前例がないだけにハレーションも起きた。だが、「ボクシングを好きになるいろんな入り口があっていい。1つだけって誰が決めたんですか?」と父親譲りの正論で微動だにしない。
通常より倍のファイトマネー、巨大なLEDビジョンと花道、特殊効果による華々しい演出、ハーフタイムショー、AbemaTVでの放送と「Abemaスペシャルマッチ」の開催──。
負けはしたものの、大会に出場した経験の浅い若手選手は、大勢の記者を前に、「メリットしかない。Abemaさんで放送しているから、負けてもみんなに存在を知ってもらえる」と興奮ぎみに話していた。
「亀田興毅氏が欧米に多い専門的なプロモーターになれるのではないかという期待がある」
こう評するのは、『ボクシング・マガジン』元編集長で、現『ボクシング・ビート』編集部の前田衷(まこと)さんだ。
「ジム制度を採用する日本のプロボクシング界では、ライセンスは分かれていても、事実上ジムがプロモーターとマネージャーを兼務している状態です。
それゆえ、自分のジムの選手を勝たせるためのマッチメークが横行し、極端に弱い選手を外国から連れてきて、心ないファンを失望させてきた。その点、欧米は独立したプロモーターがいて、専門職として仕事をしている」
『3150FIGHT』では、どのジムに所属する選手でも出場できるプラットフォーム構想を打ち出している。魅力的なマッチメークを行うため、外国から強豪選手も誘致した。
一方、既存の構造は、小中規模のジムで有望選手が現れると、大手ジムに移籍金とともに移籍する。豊富な選手層を武器に、大手ジムは世界戦を含めた大きな大会を打つ、いわば中央集権型だ。前田さんが続ける。
「プラットフォーム構想に似たやり方を目指したものの、『自分で選手を育てないで、よその選手を使って金儲(もう)けをしている』などと業界関係者にやっかまれて続けられなくなった例もある。
デメリットがあるとすればまさにこのあたりだが、今の亀田プロモーターには、メディア(Abema TV)のバックアップがあるのは有利といえる」
大手ジムから弱小ジムまで、興毅が仕掛ける興行では門戸を開く。しかも、破格のファイトマネーを約束している。ファイトマネーは、ジムの大きな収益のひとつだ。
「次の興行で組まれる日本タイトルマッチ。その王者に450万円の試合報酬を支払うと発表している。これが本当なら、これこそが『改革』である」(前田さん)
改革を成し遂げたら次へ進む
日本チャンピオン、その聞こえはいいだろう。だが、日本で一番強いボクサーにもかかわらず、バイトをしなければ生計を立てられない実情が広がっている。「ありえへん」と、興毅は一刀両断する。
「稼げる環境をつくれないからボクシングの競技人口は減っていく。僕らは、小さなジムでもきちんと潤う構造をつくる。ボクシングはキングオブスポーツなんですよ。
新聞の全国紙を見てください。K―1や総合格闘技は載らないけど、ボクシングのタイトルマッチは載るんです。オリンピック競技ですよ。
ボクシングは、エンタメでもなければ格闘技イベントでもない、スポーツなんです。その格を落としてはいけない。そこだけはきちんと意識して仕掛けていく」
ボクシング改革を語り出すと、興毅は止まらない。そんな兄の背中は、弟にはどう見えているのだろうか?
「まだ背中は見えていない」、そう大毅は答える。
「僕もボクシングって面白くないと思っていた時期がある。だけど、『3150FIGHT vol.3』を見て、やっぱり面白いと思った。兄は、この大会で一発で日本一になったと思う」(大毅)
大毅は、このイベントの後、「KWORLD3」の会長を興毅から引き継いだ。興毅がジムの会長を務めながらプラットフォーム構想を掲げると、結局、「KWORLD3」に有力選手が集まりかねないからだ。
「無条件で出られると思うなよと所属選手たちを厳しく育てていくつもりです。何でもやり方次第、見せ方次第。飲食店も同じ。美味しい料理を、いかにより美味しいと思わせるか」(大毅)
それにしても誰が想像しただろう。世間を騒がせた亀田興毅が、まさかボクシング改革に着手するなんて。でも、彼のボクサー人生をたどっていくと、無数の毀誉褒貶(きよほうへん)のパンチを浴びてきた亀田興毅だからこそ期待を抱いてしまう。
3年で改革を成し遂げる──。その言葉が本当なら、興毅の“次”は何を目指すのか?
「なんだろうなぁ。ただ、ひとつ言えるのは、改革を成し遂げたら、僕はさよならしますから。ほな、さいならって」
どういうことか?
「亀田興毅がおらんと回らない業界になったらダメなんですよ。誰がやっても回るような形にしないと。自分がそこに居座って、誰かが菓子折り持って頼みごとに来るような業界になったら、結局、元に戻るだけ。人生短いですから、違うことだってやりたいじゃないですか」
現役時代、興毅はそのビッグマウスとは裏腹に、ガードを固めながら前へ前へと進む姿で、着実に勝利をものにしてきた。リーチを生かして距離を取れば、もっと手堅く勝てたかもしれない。亀ガードと揶揄(やゆ)されたが、前に進みながら虎視眈々(こしたんたん)と一撃を狙う姿勢を崩さず、3階級制覇を達成した。
その姿は、ボクシング改革に乗り出す亀田ファウンダーになっても変わらない。改革の一撃──その瞬間を見逃してはいけない。
取材・文/我妻弘崇(あづま・ひろたか)
●フリーライター。大学在学中に東京NSC5期生として芸人活動を開始。約2年間の芸人活動ののち大学を中退し、いくつかの編集プロダクションを経て独立。ジャンルを限定せず幅広い媒体で執筆中。著書に、『お金のミライは僕たちが決める』『週末バックパッカー』(ともに星海社新書)がある。
撮影/廣瀬靖士・山田智絵