日本時間の9月15日、アメリカのイリア・マリニンがフィギュアスケートの『USインターナショナルクラシック』のフリースケーティングで、4回転アクセルを成功させた。
「羽生結弦選手が今年2月の北京五輪で挑戦したことも記憶に新しい超大技です。マリニン選手は演技冒頭のジャンプで4回転アクセルを見事に成功させると、その後も難易度の高いコンビネーションジャンプばかりの構成に挑み、ショートプログラムの6位から逆転優勝となりました」(スポーツ紙記者)
結弦が土下座をして謝った
羽生なき後の競技会をけん引する存在になりそうだ。一方羽生はプロ転向後、メディアに積極的に出演している。『テレビ東京スポーツ』のYouTubeチャンネルでは、7月19日に行われたプロ転向会見の約2時間後の独占インタビューの様子が、全3回にわたって公開。そこで羽生の口から語られたのは、衝撃の内容だった。
「中学校1年生のときに、自分がやめたいとかではなく周りに“もうやらなくていいよ”と言われたことがありました。(中略)もちろんスケートが好きなことは好きだけど、好きとかそういうもの以前に自分のやってきたものがすべてなくなってしまうと思って怖くなって、“どうしたらいいんだろう”と訳がわからなくなったことが1回ありました。そのときに、土下座しながら“お願いします。やりたいです”と言ったのが、自分の中では一番大きな選択だったと思います」
小学生の羽生を指導していた都築章一郎コーチが、
「お母さんに怒られて、結弦が土下座をして謝ったという話を聞いたことがあります」
と、『週刊女性』に明かしてくれた。幼い羽生やその母にとって、“土下座”は重い出来事だっただろう。
「羽生選手は、小学校の高学年にはすでにその頭角を現していました。'04年の全日本ノービス選手権ではノービスBで優勝、'05年は2位で、区分がノービスAになった'06年は3位、土下座をしたという中学1年生で出場した'07年の全日本ノービス選手権では優勝しています」(スポーツ紙記者)
順風満帆なスケート人生に見えるが……。
「これだけの戦績を残している羽生選手ですが、当時は今以上に練習環境に悩まされ続けていたんです」(同・スポーツ紙記者)
その詳細を、スポーツライターの梅田香子さんが教えてくれた。
「羽生選手の最初のホームリンクは『コナミスポーツクラブ泉』でした。しかし、経営難のため閉鎖してしまうという話があり、そこで練習していた選手やそのご家族は、リンクを存続させるためにとにかく手を尽くし、署名活動もしていました」(梅田さん、以下同)
同期に勝てず悔しい思いも
羽生も、その活動に参加した。
「当時は、ホリエモンこと堀江貴文さんがプロ野球球団『大阪近鉄バファローズ』の買収に名乗りを上げたころでした。堀江さんが仙台に来ることを聞きつけて、リンク存続のためスポンサーになってほしいとお願いするために、新幹線の駅で堀江さんの到着を待って嘆願書を手渡したのです」
しかし、当時はまだフィギュアの注目度が高くなかったことが災いした。
「堀江さんは、嘆願書を受け取りはしたものの、返事はなくあっさり無視。結局『コナミスポーツクラブ泉』は閉鎖されました。コーチや有力な選手たちは、環境が整っている名古屋への引っ越しを決めていたので、残された選手たちの間には“もうスケートはやめよう”という空気がありました」
その後、羽生は『勝山スケーティングクラブ』に練習拠点を移すことに。
「アクセスが悪かったので、しっかり練習することができなかったようです。小学生から中学生にかけての時期は、練習量が物を言う世代。そのため、同期に勝てず悔しい思いをすることもあったでしょう」
そんなときに、かつてのホームリンクが『アイスリンク仙台』として復活。
「'07年の出来事でした。しかし、営業時間が短かったり、製氷車がなかったりと手探りで運営している状態。選手たちは大変だったようです」
練習環境が整っていない場合は、別の地域や海外に合宿に行く選手も多いという。
「リンクの氷は数年に1度、全部を溶かしてメンテナンスし直す必要があります。その間は1、2か月ほどリンクが使えないことも。羽生選手と同い年の村上佳菜子さんは、仙台より環境に恵まれている名古屋が拠点でしたが、氷のメンテナンス中は沖縄に自主合宿に行っていましたよ」
つまり、練習のために学校にまともに通うことが難しくなるのだ。
宮城の環境を整える決意
「それは地域のリンク事情や選手の数でも変わってきますが……。羽生選手の場合は、学校の先生をしていたお父さんの教育方針で、学校を休んで練習をしたり合宿に行ったりするのは反対されていたそうです。リンクの事情や家庭の意向があり、羽生選手もご家族も悩んだ時期だったと思います」
前出の都築コーチも、次のように指摘しながら、土下座の理由を推察する。
「リンクなどの環境の変化があり、精神的にいろんな影響があったでしょう。どの選手もこうした影響は受けますが、結弦は、特に感受性の強い子どもでしたから。そんなころに結弦が土下座をしたというのは、自分が一生懸命に練習をしていても、反省する部分があってのことだったのでしょう」
冒頭のテレビ番組への出演後、独占インタビューに応じた羽生は、宮城県のフィギュア競技育成環境について聞かれるとこう答えた。
「まだまだ環境的には恵まれたものではないと思います。そういう点に関しては、僕自身がお手伝いできることはお手伝いしたいなという気持ちはありますし、(自身が)ここからさらに練習していきたいなという気持ちが強くあります。うまくなるためには僕自身が動いて、僕自身のためにも環境を整えなくてはいけないという気持ちも正直あります」
リンクがなくなる事態に直面した経験があるだけに、シビアに考えているのだろう。
環境づくりのためにどのような支援をしていくのか、未来のフィギュアスケーターのためにも頑張ってほしい!
梅田香子 '09年から在米。著作に今川知子との共著『フィギュアスケートの魔力』(文春新書)など多数。長女は米国認定フィギュアスケート・インストラクターとして活動中