宮内庁から発表される上皇ご夫妻のご近況で、たびたびふれられているのが、おふたりそろっての朗読の習慣だ。ご夫妻は毎日、同じ本を交互に音読されているという。
《両陛下は、平成の早い時期から、ご朝食後お忙しいご日程が始まる前の短時間、お二人ご一緒に一冊の本を交互に音読されることを習慣とされてきましたが、今もお続けになっています》(宮内庁発表「上皇陛下のご近況について」令和元年より)
読み聞かせの効果とは
実は近年、「声を出して本を読む」「読み聞かせる」といった行動が、認知症予防に効果があるという研究結果が明らかになっている。東京都健康長寿医療センター研究所「社会参加と地域保険研究チーム」研究員の鈴木宏幸さんに話を聞いた。
「脳の神経細胞は加齢によって衰えていきますが、神経細胞をつなぐネットワークは、年をとっても知的活動や新しい経験によって新しくつくられることがわかっています。このことから、認知症予防に効果的な行動として注目したのが絵本の読み聞かせです」(鈴木さん、以下同)
読み聞かせが、ひとりで黙読する単なる読書と違うのは「声を出して読む」ことと「聞かせる相手がいる」ということ。この違いが脳の活性化に、より効果が高いと期待されているのだ。
「目で読んだり耳で聞けばわかる言葉でも、今まで一度も口にしたことがない言葉というのが結構多いんです。例えば恐竜の名前のティラノサウルス、聞けばわかるけれど、これまでにいつ口にしたか、わからない人は多いでしょう。本を音読して多くの言葉を口にすると、脳には何よりの新しい刺激になります」
さらに、音読によって滑舌がよくなり、口のまわりの筋肉が鍛えられて、嚥下機能の低下を防ぐ効果も。日本人の死因の上位である誤嚥性肺炎の予防にもつながる。
また、相手がいることによって、「自分がどのように読んでいるか」を自覚し、「どう伝えるか」を考えて読み方をセルフコントロールするといった客観性も必要になる。
「このような客観性は、人が社会生活を送るために重要な認知機能です。例えば、栄養バランスを保つには、野菜不足を自覚して、そして意識して食べるというセルフコントロールが必要です。認知機能が衰えると外見にかまわなくなったりしますが、これも鏡を見るという自覚と、髪を整えるというセルフコントロールが働かなくなるため。相手に読み聞かせるという行為は、このような客観性を保つ認知機能を、知らず知らず鍛えることになるのです」
鈴木さんの研究チームでは、これまで読み聞かせの効果を裏付ける数々のデータを発表してきた。6年間にわたる調査では、読み聞かせ活動を続けたグループは、しなかったグループに比べて、海馬という脳の部分の萎縮が抑えられていた。海馬は記憶の保持や思い出す機能に関わり、認知症の初期から萎縮しやすい部位として知られている。
「このように認知機能の衰えを防ぐ意味でも、上皇ご夫妻は素晴らしい習慣をお持ちだと思います。みなさんのご家庭でも、家族で読み合うことから始めてみるとよいのではないでしょうか」
上皇ご夫妻がお読みになっているエッセイ
また、鈴木さんは、読み聞かせはボランティアなど地域貢献や社会活動につながりやすいことも、認知症予防にすすめたい大きな理由だという。社会的なつながりが多い人ほど、認知症を発症しにくいという研究が、国内外で数多く報告されているからだ。
「実はこの読み聞かせプログラムは、もともと高齢者の社会参加のために考えられたもの。まず読み聞かせ講座を受講してもらい、受講後に保育園などで実践する場を設けたりしています。子どもたちから『また来てね』という魔法の言葉をもらうとやめられなくなるようです(笑)」
各地で活動する自主グループも増加中。読み聞かせをしてほしいという要請も多く、読み手はひっぱりだこだ。コロナ禍でも、ZOOMや動画配信などオンラインツールを活用して要請に応えてきた。
「ITが苦手な高齢者でも、環境を整えてあげれば、離れて住むお孫さんに読み聞かせすることもできます」
鈴木さんたちの活動は絵本だが、上皇ご夫妻は何をお読みになっているのか。美智子さまの側近がこう明かしている。
《ご朝食後の陛下とのご本の音読は今も毎日続けられ、山本健吉の「ことばの歳時記」に続いて、寺田寅彦の「柿の種」をご一緒にお読みになっています》(同・前、令和3年より)
今お読みになっているのは、夏目漱石の弟子ともいわれる名随筆家の寺田寅彦の本だという。『柿の種』は寺田寅彦が平易でかつ味わい深い言葉で日常の中の不思議を表現した極上のエッセイ集だ。その本の中から読むものの想像力をかきたてる1編を読者のみなさまにご紹介する。
関東大震災直前の東京・隅田川にかかる橋。そのたもとに立つ男のたわいない様子を寺田が活写している。実際に上皇ご夫妻も読まれた名文を、言葉に出して読んでみてはどうだろう。
◆上皇ご夫妻も読まれた味わい深い日本語の名文
寺田寅彦 『柿の種』 短章その一より
晩春の曇り日に、永代橋を東へ渡った。
橋のたもとに、電車の監督と思われる服装の、四十恰好の男が立っていた。
右の手には、そこらから拾って来たらしい細長い板片を持って、それを左右に打ちふりながら、橋のほうから来る電車に合図のような事をしていた。
左の手を見ると、一疋の生きた蟹の甲らの両脇を指先でつまんでいる。
その手の先を一尺()ほどもからだから離して、さもだいじそうにつまんでいる。
そうして、なんとなくにこやかにうれしそうな顔をしているのであった。
この男の家には、六つか七つぐらいの男の子がいそうな気がした。その家はここからそんなに遠くない所にありそうな気がした。
寺田寅彦 (1878〜1935)
てらだ・とらひこ。物理学者、随筆家。第五高等学校時代に夏目漱石に出会い英語と俳句を習い、その紹介で正岡子規とも交流し、俳句などを『ホトトギス』に寄せた。主な著書に『冬彦集』、『藪柑子集』、『柿の種』などがある。
◆読み聞かせの自主グループが各地で活躍中!
鈴木さんら東京都健康長寿医療センターの研究チームが立ち上げた読み聞かせ活動は、「りぷりんと」の名称で首都圏を中心に展開中だ。参加者はまず週に1回、2時間ほどの講座を12回受講。本の読み方、選び方など読み聞かせのコツを習得する。その後、多くの受講者が、読み聞かせのボランティアグループに参加している。
活動を継続する人が多い理由としては、「スキルが身に付くこと」「社会貢献につながること」が考えられている。参加者は女性が多いが、社会性を重視する男性にも好評だ。また、研究チームの予想を超えて多かったのは、「仲間ができてうれしい」との声。参加者は60代、70代が多いが、仕事や家庭を離れて人と交流できる場にもなっている。
「読み聞かせ」4つのすごい効果
(1)脳のネットワークを活性化
認知機能を担う神経細胞のネットワークは、知的活動、特に新しい経験や学習によって新しくつくられる
(2)記憶力の衰えを予防
読み聞かせ講座の前後に行った記憶テストでは、受講後のほうがテストの点数が向上していた
(3)滑舌向上で嚥下機能もアップ
声に出して読めば滑舌がよくなり、口のまわりの筋肉が鍛えられて、嚥下機能の衰えや誤嚥性肺炎の予防になる
(4)認知機能のトレーニングに
相手がいることによって、自分と相手の状況を客観的に見るという社会生活に必要な認知機能を鍛えられる
◆「読み聞かせ」で脳の萎縮が抑えられた!
読み聞かせ活動参加者について、活動開始前と6年後に脳のMRI検査を実施。すると海馬という記憶をつかさどる脳の部分の萎縮率が、一般協力者が4.1%であったのに比べ、読み聞かせ参加者は0.5%と、海馬の萎縮が抑えられていた。
教えてくれたのは鈴木宏幸さん
東京都健康長寿医療センター研究所「社会参加と地域保健研究チーム」研究員。2004年から「絵本読み聞かせプログラム」に携わり、研究のプランニングから、講座や自主グループのフォローまで精力的に行っている。
取材・文/志賀桂子 イラスト/伊藤和人 皇室写真/宮内庁提供