2019年4月、京都市在住の下坂厚さんは13年勤めていた大手鮮魚店から独立。仲間と一緒に新しい形態の鮮魚店を立ち上げ、忙しい日々を送っていた。また、長く同居していた佳子さんの子どもたちの自立を機にと、2年前に入籍したばかり。「さあ、これからだ」と意欲に燃えていた。
ただ46歳になった7月ごろ、少し気になることがあった。いつも通っている通勤の道を間違えたり、時折、注文の間違いをしたり、計算ミスが増えてきたのだ。当然、同僚からも心配される。
毎日顔を合わせている同僚の名前が出てこない……
「環境が大きく変わり、疲れているだけだと思っていました」(下坂さん、以下同)
そんなある日、いつものように同僚の名前を呼ぼうとしたら、名前がわからない。
「人の名前を“ど忘れ”することは誰にでもあると思います。でも、僕の場合は毎日顔を合わせている同僚の名前が出てこなかったのです」
これが下坂さんが近所のクリニックの「もの忘れ外来」を受診するきっかけとなる。不安はあったが「どこかで『大丈夫ですよ』という言葉を期待していた」と話す。ところが認知症の簡易検査法である「長谷川式認知症スケール」の結果、「軽度の認知症の疑い」を指摘される。
さらにクリニックでもらった紹介状を手に、専門医のいる総合病院を受診。そこでMRIを撮ったり、精密検査を受けたところ、65歳未満で発症する『若年性アルツハイマー型認知症』と診断された。
「ショックという言葉ではとても言い表せない。当時、詳しい知識はなかったけれど、足元からガラガラと音を立てて、自分のすべてが崩れ落ちていく感覚でした」
医師からは今後についての説明はなく、ハンドブックなどを渡されることもなかった。「これからは『認知症初期集中支援チーム』で支えていきますね」と言われた記憶はあるが、何のことかまったくわかっていなかった。
「ただただ現実を突きつけられて家に帰った、という感じ。『若年性アルツハイマー型認知症』を検索したら、根本的な治療がないことや、約半数が2~8年で寝たきりになることが書かれた専門医のサイトが見つかり、どんどん気持ちがふさいでいきました」
自分が自分でなくなってしまう「人生終わったな」
若年性認知症の場合、下坂さんのように「おかしいな」程度の自覚症状で受診する人はほとんどいない。
「どんな病気も早期発見が求められますが、若年性認知症に限っていえば『早期発見=早期絶望』といわれるほど、判断能力があるだけにショックとダメージが大きいんです。僕自身、当時は『もう人生終わったな』と思っていました」
厚生労働省の「令和2年度若年性認知症実態調査」によると、18〜64歳で発症した若年性認知症患者は推定で3万5700人、男性に多く、有病率は10万人当たり、50・9人。その過半数がアルツハイマー型認知症といわれている。
「父が認知症だったのでその症状は目にしていました。まず考えたのが、僕もやがて、記憶がなくなり、徘徊し、自分がなくなってしまう。そんな病気に自分はなってしまったんだ……と。仕事や、あと20年分が残っている住宅ローンをどうしたらいいのか、悶々と考えるようになりました」
もともと下坂さんは無口で人に相談せずに物事を解決しようとするタイプだった。
「僕が死んだら保険金で住宅ローンが払えるんじゃないかと、本気で自死を考えたのもこのころです」
つらかったのは、妻の佳子さんへの告白だ。
「実は受診したことも内緒にしていました。余計な心配をかけたくなかったし、何より知られたくなかった。でも、認知症の診断を受けた病院の検査依頼箋を隠していたんですが、見つかってしまい、ついに打ち明けました」
ホームヘルパーをしている佳子さんにとって認知症は身近だったが、若年性認知症に関してはドラマや映画の世界で知る程度だった。また、下坂さんは悩んだ末、始めたばかりの仕事を辞める決断をする。仲間たちと設立したばかりの会社をわずか4か月で去ることになるとは……。断腸の思いだった。
「同僚は引き留めてくれましたが、迷惑をかけるのが嫌でした。認知症になった自分の姿を見られたくないという気持ちもありました。自分のプライドが傷つくことが怖かったのだと思います」
デイサービスの仕事に出会い、前向きに活動開始
退職後、生活のために働こうと雇用保険の失業手当を受けながら仕事探しを開始。しかし、ハローワークは認知症当事者向けの仕事の斡旋経験がなく、再就職は進まない。
いわゆる「障害者手帳」は取得できたものの、認知症当事者に必要な公的サービスや経済的な支援はないことも次第にわかってきた。
先の見えない壁を前にふさぎ込む日々に光が差し込んだのは、10月の「認知症初期集中支援チーム」の訪問がきっかけだった。
認知症初期集中支援チームとは、認知症が疑われる人や認知症の人とその家族を訪問し、環境を整えて自立生活のサポートを6か月ほど行うチームのこと。市町村や大きい病院に配置されている。
「3人で家にいらしたのですが、そのうちの1人がリハビリセンターの方で『デイサービスでアルバイトをしないか』と誘ってくれたんです」
気力を失っていた下坂さんだったが、心のどこかで「このままではいけない」「何かを始めなければ」の思いがあった。そのひと言が下坂さんの背中を押してくれた。
「ほかにビル掃除の仕事も紹介してくれましたが、デイサービスはやりがいがありそうで。人と関わる仕事についたことが、その後の人生を変えたと思います。専門家のサポートやケアはとてもありがたいし、必要だと実感しました」
認知症と診断されてから3か月後、下坂さんは京都市西京区にあるデイサービスセンターで週3回働き始める。そこでは認知症の人に居場所と活動場所を提供するという取り組みをしていたため、「自分も何か役に立てるかも」と思えるようになる。
仕事は高齢の利用者の入浴、トイレ、食事の介助や身の回りのお世話、フロア業務など。目の前の仕事を無我夢中でこなすうちに、少しずつ前向きになっていく。
「ときどき目の前の人の名前が出てこなかったり、仕事の手順を間違えたりすることも。そんなときは周りの職員がカバーしてくれたり、スマホのメモやアラーム機能を使ったりして対処します」
今では正職員として欠かせない役割を担う。しかし、手取りは以前の3分の1になったため、住宅ローンを払い続けるのは難しく、2年前に賃貸マンションに転居した。
「子どもたちが自立し、お金がかかる時期でなくて幸いでした。ただ、認知症でも症状が進んでいないうちは、ある程度働けるので、働くことは諦めないでほしいですね」
加えて今の下坂さんには大きな使命がある。若年性認知症の当事者として、積極的に啓発活動に励み、サポート活動にも参加しているのだ。
「認知症当事者の会報誌にインタビューが紹介されたことがきっかけでした。自分が出ることで認知症に対する社会の偏見が変わってくれたらと思えたのです」
情報発信の先駆者、丹野智文さんの存在も大きい。丹野さんは自動車販売店のトップセールスマンだった39歳のときに若年性アルツハイマー型認知症を発症。その直後から体験談を語る啓発活動をしている有名人だ。
「僕も認知症になってもまだまだ頑張れる、と勇気をもらいました。当事者の言葉には説得力がありますよね」
若年性認知症と診断された方の相談を下坂さんら当事者が受ける「ピアサポート」という活動を積極的に行うのも、自身のたどった不安な気持ちに少しでも寄り添えたらと思うから。当事者が声を上げることで、足りない支援の顔でいられたらいいな、そんな思いでシャッターを切っているのだと思います」
写真を発表するチャンスにも恵まれ、そこで講演する機会も増えてきた。作品の向こうに人がいる。
「まずはどんな人が撮ったんだろう、と興味を持ってもらえたらうれしいですね」
認知症でもひとりの人間として接してほしい
講演の依頼を受けると「おひとりで来られますか?」「お迎えは?」と聞かれることも少なくない。
「もちろん悪気はなく、その人の持っている認知症に対するイメージから気遣っての言葉なのですが、認知症をひとくくりにしないでほしいと感じることも。人として個性もあり、症状の出方も進行のスピードもさまざまなので」
これは認知症の人だけでなく、ほかの障害者にも言えることだが、当事者がしてほしいと望むことをサポートする。これが大切だ。腫れ物に触るように接したり、先回りをしすぎた親切では、当事者を困惑させてしまうからだ。
「僕の場合、自分のいる場所がどこかわからなくなったり、バスを乗り間違えることはよくあります。そんなときはパニックを起こさないよう深呼吸で心を落ち着かせます。バスなら下車してその場所にとどまり、スマホの地図アプリで位置を確認します」
わからないときは近くの人に聞くが、みな親切にサポートしてくれると話す。
「目の前にいる人を認知症当事者という目で見ないで、ひとりの人間であるという意識で接してほしい。みんなが意識を変えれば、社会が変わる。社会的支援もその延長線上にあると思います」
休日は夫婦で静かに過ごす。「私のこと、まだわかる?」─妻の佳子さんが冗談めかして言う言葉は重く切ない。先のことはわからない。だから、いまの自分を精いっぱい生きる。笑顔でいられるように。
◆認知症当事者と暮らして思うこと
夫から病気を告げられたとき、「つらいのは私ではなく夫なのだ」と思えたので、比較的冷静に振る舞えたと思います。とはいえ心の中ではショックは大きかったですし、今後への心配事は尽きませんでした。
最初のころはどんな症状が出ているのか、本人に何度も聞いたりしていましたが、夫のやりたいようにさせてあげることが家族としていちばんのサポートになると感じています。
認知症の啓発活動のスケジュール管理もすべて本人任せ。活動が広がれば広がるほど元気になるので正直、夫の行動力には驚かされています。これからも夫と今の生活を楽しみたい。私たち夫婦なりの認知症との向き合い方をしていければと思います。
下坂 厚さん
1973年、京都生まれ。46歳で若年性認知症発症。現在は介護施設にケアワーカーとして勤務するかたわら、若年性認知症に関する情報を発信している。妻との共著に『記憶とつなぐ 若年性認知症と向き合う私たちのこと』(双葉社)。〔インスタグラム〕@atsushi_shimosaka
取材・文/栗田孝子