20歳くらいのころの冨士眞奈美さん

 女優・冨士眞奈美(84)が語る、古今東西つれづれ話。「おじさま」と親しみを込めて呼んでいた男性について述懐する。

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 昔、私たちの間で「おじさま」と呼んでいたすてきな年上の男性がいた。

顔に刀傷のあった「おじさま」

「おじさま」と知り合うきっかけは、“ペコ”こと大山のぶ代だった。ペコは、俳優座養成所の3期先輩で、一緒に住み、遊んでいた。ペコは腰まである長い髪をひとつにまとめ、いつも黒い服を着ていて、とてもスタイリッシュだった。また、スマートボールが大好き。

 彼女は後年、テレビゲーム(『アルカノイド』など)が得意だと紹介されていたけど、若いころからゲーム好きだったのよ。スタンダールが好きな私は、何が面白いのか、まったく理解できなかったけど(笑)。

 ある日、彼女と銀座に出かけると、おじさまを紹介してくれた。「おじさま、おじさま」と親しそうに呼んでいたけど、当のペコもおじさまの素性はよくわかっていなかったらしい。

 おじさまは、昼、夜と日に何度も服装を変える、おしゃれで伊達な人だった。当時、俳優座養成所の男の子たちは、おしゃれとは程遠い、私と同じように地方出身の子ばかりだったから、そのおじさまの雰囲気に、私もペコもうっとりするばかりだった。

 おじさまの実際の職業はわからなかった。ただ、ボクシングの興行に携わっていたようで、フィリピンだかインドネシアにコネクションがあると話してくれた。あるとき、寂しさを漂わせる笑顔で、ちょっと別荘に行ってくると言って、しばらく帰ってこなかったこともあった。

 おじさまの頬には、刀傷があった。でも、ヘンリー・フォンダのようにハンサムで、その傷ですら魅力を演出する付加価値に思えた。日比谷の一等地に事務所を構えていたことからも、ただ者ではないことだけはわかった。

 おじさまの話を、「元祖和製プレスリー」とも呼ばれた小坂一也さんにすると、「ああ、あの人か」なんて当然のように知っていた。小坂さんだけじゃない、芸能界ではかなり知られた存在だった。

 私は一時期ボクシング観戦にはまっていて、会場でおじさまと顔を合わせることもあった。おじさまと、ボクシングジムの会長さんと一緒に飲んだりしたことも。ナイトクラブで流れる曲に合わせて踊るおじさまは、映画の登場人物のようだった。

 父が亡くなり、私はNHKの専属を辞めてフリーに。家族を養うために仕事を増やしたこともあり、格段に忙しくなった。ボクシングを見に行く機会も減り、おじさまとの交流もなくなっていった。

 おじさまは、とても硬派だけど優しい紳士だった。2度目だという結婚をして、子どもが生まれたときはとても喜んでいた。グラマーな奥様はお忙しかったんだろう。嵐の日に、坊やの子守をなぜか私たちがしたことがあった。

 ただ者なわけがない。だけど、まったく普通に接してくれる。ハンサムなのに、顔に刀傷がある。世間一般からは推し量ることのできない雰囲気は、まるでフィルムノワールの世界から飛び出してきたかのよう。

 誰もが戦争を経験してきた時代は、死と隣り合わせの日々を送ってきた人たちも大勢いたから、今のコワモテの人たちより凄みがあったような気がする。テレビ局にシベリア帰りのディレクターがいた時代だから。

 ペコは一体、どこでおじさまと知り合ったんだろう。今の彼女にはもう確認はできない。

 思えば、NHKの専属だった私が、おじさまと親しくしていたことが世間に知られたら、当時だって大変なことになっていたのかも。でも、令和の時代にはあんなすてきな紳士はいない。

 最後に会ったのは、1970年代中ごろだったと思う。後楽園ホールでボクシングの試合を見ていたら、「相変わらずきれいだね」と声をかけてきてくれた。おじさまは、1人青年を連れていた。その青年が私たちが嵐の日に子守をした坊やだったことは、後で知った。

PROFILE●冨士眞奈美(ふじ・まなみ)静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。