ジャニーズ事務所の秘蔵っ子としてソロデビュー、1980年代にアイドルとして歌やドラマなど大活躍していた中村繁之さん。自主退所した1993年以降は、知られざる苦悩や葛藤もあった。55歳になった現在も、俳優をこなしつつ音楽活動にも精力的な中村さんを支えているのは、かつての恩師の言葉だったーー。
1980年代のアイドル全盛期、ジャニーズ期待の大型新人としてデビューし、世の女子の絶大な人気を集めた中村繁之さん。近年は芝居のほか音楽活動に力を入れ、先頃バースデーライブを開催したばかり。
「45歳ごろからバースデーライブを始めて、かれこれ10回近く開催しています。毎回楽しみにしてくれている方、毎年来てくれるファンもたくさんいますね。いつもスタッフがサプライズゲストを招待していて、ありがたいことに今年はブル中野さんとブッチー武者さんが参加してくださいました」
デビューから長い月日が流れ、往年のトップアイドルもこの秋55歳の誕生日を迎えた。
年を重ねた感慨は?
「根本的に若いころとモノの考え方は変わってなくて。子どものころに思い描いていた55歳と、55歳になった自分に差がありすぎて、数字に頭と心が追いついていかない感じかもしれません(笑)」
芸能界入りのきっかけは、姉が送った1枚の写真。オーディションに合格し、中学2年生のときジャニーズ事務所に入所している。故・ジャニー喜多川さんには当初からことのほか目をかけられた。
ジャニーさん「すごいのが入ってきた」
「あのころは丸刈りで、事務所に送った写真も自宅で姉が適当に撮ったもの。今見ると、よくこんなので合格したなと思うよね(笑)。でもジャニーさんは数十人といる候補者の中からなぜか僕を拾ってくれた。オーディションではみんな1人ずつ台本を読まされていたけれど、僕だけ読まずに“ユー、興味があるならレッスンに来なよ”と言われて。“スゴイのが入ってきた!”とジャニーさんが言っていたと、当時お世話になった方からずいぶん後になって聞きました」
もともと芸能界に興味はなかったが、レッスンで同年代の少年たちが切磋琢磨する姿を目の当たりにし、持ち前の負けん気に火がついた。
「ジャニーズJr.の活動は週1回日曜のレッスンが基本で、あとは誰かのコンサートがあればみんなと一緒にバックで踊って、普段は学校に行って……の繰り返し。ここで大勢のJr.と同じものを見ていても埋もれるだけ。テレビをつければ事務所の先輩たちがキラキラ活躍してる。あそこに行くためには自分は何を見るべきなんだろうと思っていました」
当時スーパーアイドルだった近藤真彦に「かばん持ちをさせてほしい」と直談判。そのころ、中村さんは中学3年生で、ジャニーズJr.のスター予備軍が自ら付き人を志願するなど異例のことだった。
「やはり近藤さんは出ている番組も超一流で、見ている世界が全然違った。例えば月曜はまずNHKに行って『レッツゴーヤング』の音合わせをして、次は渋谷公会堂で『NTVトップテン』の音合わせ、フジテレビの『夜のヒットスタジオ』へ行き、NHKに戻って今度はカメリハをして、一巡したらまたNHKに戻ってランスルー、一巡して本番と、1日中駆け回ってる。スケジュールが過密すぎて間に合わないこともあるから、僕が近藤さんの代わりに舞台で衣装を持って照明合わせをしたり……。トップの現場というものを学ばせてもらいました」
付き人期間は2年半あまり。そこで得た経験値は大きく、後に自身のトップアイドル時代に、後輩の国分太一を付き人として短期間ではあるが迎えている。
「まだTOKIO結成前でした。太一は僕より7歳下で、近藤さんの付き人をして僕がいろいろ学んだように、現場というものを彼に見せてあげたかった。オーストラリアのロケにも連れていって、スタッフが“太一も出ちゃえよ!”なんてけしかけるんだけど、“コイツはこれからスターになるんだからダメ!”なんて言ってましたね(笑)」
同期にミポリン、ナンノ、斉藤由貴ら
付き人時代に憧れていたNHKの歌番組『レッツゴーヤング』のオーディションを受け、17歳のとき合格。番組のオリジナルグループ『サンデーズ』の一員となり、お茶の間の認知を高めていく。そんななか転機となったのが、ハウス『バーモントカレー』のCM出演。西城秀樹さんの後任として看板キャラクターに起用され、大きな注目を集めることとなる。
「CMのオーディションは4次審査まであって、毎回ジャニーさんが付き添ってくれました。時間が空くとジャニーさんはたいていパチンコに行くと言い出して、僕は横でそれをずっと見ているんです(笑)。あるとき景品で目覚まし時計をとってくれて、長いこと大切に使っていましたね。CMが決まったときはジャニーさんもすごく喜んでくれました」
CM契約をきっかけに、ソロデビューが決定。同期には、中山美穂、斉藤由貴、南野陽子、浅香唯など錚々たる顔ぶれがそろう。“花の'85年組”と呼ばれるアイドル黄金世代だ。続いて翌1986年にフジテレビの連続ドラマ『な・ま・い・き盛り』に出演。幼なじみの高校生男女の恋の行方を軽快に描いたラブコメディーで、中山美穂の相手役を演じ、正真正銘トップアイドルの仲間入りを果たした。だがいくら注目を浴びようと、自身に売れっ子という自覚はなく、世間の感覚とのズレを常に感じていた。
「どんなにキャーキャー言われても、売れたという意識はなかったし、まったく舞い上がってはいませんでした。周りに自分より売れている先輩があまりにいすぎたから、いつも落ちこぼれの気分で。いつかブレイクできたら……、とずっと思い続けていました」
“売れない自分”がどうにも歯がゆく、父の前で弱気な姿を見せたこともある。
「20歳になって3枚目のシングルを出したけど、やっぱり1位にはなれない。悔しくて、家族の前で思わず涙をこぼしてしまったことがあって。そのとき親父に“おまえまだ20歳だろ、やめちまえよ。まだやれることはいっぱいあるぞ”と言われて、それで少し肩の力が抜けた感覚がありました」
『な・ま・い・き盛り』を機に、仕事内容も変わっていった。ドラマ出演のオファーが急増し、役者に比重が傾くと同時に、レコード会社との契約をいったん打ち切ることに。
“芝居に専念するため”という事務所の意向だが、「ショックでしたね」と振り返る。
「今と違って当時のアイドルというのは歌がメイン。アイドルの事務所なのに自分は歌はダメだと言われた気がして、ここにいてはいけないのでは、と思い悩むようになりました」
ユーはどこに行っても絶対大丈夫
ジャニーズ事務所を退所したのは26歳のとき。退所日のことは今も鮮明に覚えている。
「メリー喜多川さん、少年隊、近藤さんに挨拶をしました。けれどいちばん挨拶したかったジャニーさんがいない。どうやら逃げ回っているらしい。あちこち探し回って、最終的に麻布のスタジオで捕まえて。“今日までありがとうございました!”と挨拶したら、“ユーはどこに行っても絶対大丈夫だから頑張りなさい”と言ってくれて、もう涙がボロボロあふれて止まりませんでした。あの言葉があったから今までやってこられたと思っています」
事務所を円満退所し、新たな仕事も得た。だがテレビをつければ後輩たちの活躍が否応なく目に入り、焦燥感にかき立てられる。何を見てもプレッシャーにしかならない、そんな日々が2年近く続いた。
「このままではダメだと思ったけれど、ずっと芸能界にいて、気づけばアルバイトすらしたことがなかった。でもアイドルだった自分が普通にバイトでもしていたらファンをがっかりさせてしまう。つぶしがきかない自分を思い知らされ、ならば海外で改めて社会勉強をしようと考えて」
28歳のとき渡米。現地の語学学校に通う傍ら、アルバイトをして生活費を稼いだ。2年間のアメリカ留学を経て帰国し、心機一転、芸能活動を再開。ドラマに舞台と活躍の場を広げるも、40代に入り再び芸能界を離れることになる。
「45歳から46歳の1年間、建設の仕事をしてました。当時所属していた事務所の問題で急に仕事がなくなり、途方に暮れた時期があって。抵抗がなかったと言ったら嘘になるけど、これも社会勉強だと。この先、建設で働き続けることになったらそれは自分の運命だ、受け入れようなんて思ってたけど、やっぱり戻ってきちゃうんですよね(笑)」
現在のバンド仲間と出会い、復帰後は歌を中心に活動をスタートし忙しい日々。自ら作曲も手がけ、この夏のデビュー記念日にはライブでリクエストの多い2曲をCDリリースしている。
「“シゲちゃんは運の良い人だよね”とバンドのメンバーによく言われます。僕は僕なりに大変な思いをして生きてきたつもりだけれど、なんだかんだとこうやって芸能界に戻ってくるということは、やはり運がいいのかもしれない」
中山美穂がインスタにツーショットを
ドラマで共演した中山美穂とは今も連絡を取り合う仲。彼女が自身のインスタグラムにツーショット写真をアップし、ファンを歓喜させたことがある。コメントには“2人とも変わらない!”との投稿が相次いで寄せられた。
「彼女がフランスから戻って舞台に出たとき、楽屋に行って“お帰り! もう戻ってこないかと思ってたよ”とハグしたら、周りのスタッフが泣いてるんです。“こんな光景が見られるとは!”って(笑)」
どんなに年月がたとうとも、周囲はアイドル時代のイメージを求め続ける。自身も「期待を裏切ってはいけない。その責任感が強くある」と思いを語る。
「昔からのファンや可愛がってくれた人たちをがっかりさせたくないし、自分も自分自身に対してがっかりはしたくない。そのためにも常にできる限りの努力はしていきたい。例えば毎朝8km走るというのもそのひとつで、微々たる努力ではあるけれど……」
人気絶頂だったアイドル時代、売れたいと願った。その思いは変わらずあるという。
「これまで自分が売れたと思ったことは一度もないし、満足したことはなかった。今は歌を歌わせてもらってるけど、せっかく曲を出すのなら、大ヒットとまではいかずともより多くの人に聴いてもらいたい。これでいいやと満足したらきっと老けちゃうんでしょうね。老けるというのは、心が老けること。だからこの先もずっと、満足することはないのかなと思っています(笑)」
取材・文/小野寺悦子