「みっともなくてもいいから、死ぬまでやらしてもらう――」
今年8月、落語への熱い思いを口にしていた名噺家が息を引き取った。落語家の六代目三遊亭円楽さん。72歳だった。
「2018年に初期の肺がんで手術を受け、2019年には脳腫瘍、2022年1月には脳梗塞を発症。5月まで入院を余儀なくされました。その後、自宅療養を経て、8月11日に東京の『国立演芸場』で高座復帰を果たしましたが、8月26日に息苦しさを訴え検査を受けたところ、肺炎と診断され、再び入院。以降、症状は軽快し、肺がんの治療を再開しましたが、その矢先に容体が急変し、帰らぬ人となりました」(スポーツ紙記者)
自宅周辺の不動産を購入していた円楽さん
高座復帰の際、涙ながらに冒頭の思いを語っていた円楽さん。都内にある自宅の周辺では、晩年までその姿が目撃されていた。
「近所の焼き肉屋さん、小料理店、うなぎ屋さんでよく見かけましたよ。今年の6月くらいから車いす生活になり、自宅の一軒家の中にある螺旋階段が使えないことから、別のマンションに移ったそうです。円楽さんは、家の周囲の不動産を複数購入していました。そこに、舞台が作れるくらい大きなビルを作りたかったんですよ。となりにマンションが建つということで断念したようですが」(近隣に住む男性)
円楽さんが、25年前のオープン当初から通っていたという近所の焼き鳥店『やきとり大吉 東砂店』の店主は、こう振り返る。
「多いときは週に3回、来ていただきました。亡くなる前日も、お弟子さんが来ていたので、円楽さんの体調を聞いたら“大丈夫ですよ”と言っていたのですが……。その日、お弟子さんは夜9時半くらいまでいたから、その後に容体が急変したのかな」
ラブホテル不倫の裏話
2016年には40代女性との“ラブホテル不倫”が報じられたこともあったが、当時については、こんな裏話が。
「店で仕込み中に、テレビで会見を見ていたのですが、その夜に円楽さんがご夫婦でいつもどおり店にやって来たからビックリしましたよ。奥さんは私に“あの不倫、ホントなのよ~”と言って、夫婦で爆笑していました。奥さんは“やってしまったのなら、笑いに変えなさい”と、円楽さんの仕事をよく理解していましたね。テレビでは“鬼嫁エピソード”を語っていましたが、実際は一歩引いて、常に円楽さんを立てていました。本当に素敵な夫婦でした」(『やきとり大吉』店主、以下同)
常連だった店だけに、“師匠”としての顔もよく知っている。
「若いお弟子さんを近所に寮住まいさせて、面倒見がよかった。うちに食べに来たら、好きなものを頼んでいいよって気づかっていて」
世話焼きな性格については、こんな話も。
「相撲取りやプロレスラーを連れてくることもありました。5年ほど前、身体を壊した覆面レスラーを1年半もの間、自宅に居候させていましたよ。円楽さん、実は料理が好きで、“明日の朝ゴハンは何がいい?”なんて、そのレスラーに聞いていました。居候しているレスラーにも気をつかうなんてね(笑)」
なんとも微笑ましいエピソードだが、このところは身体の変化が隠せないようになっていた。
「いつも生レモンサワーを4杯くらい飲んでいましたが、昨年からだんだんと身体が弱ってきて、レモンを自分の手で搾れなくなっていたんです。そこで、店側で搾ってからお出ししたら、お会計の時に“迷惑かけたから釣りはいらない”って。最後に来たのは、昨年の8月ごろ。お酒の量は、半分に減っていましたね。歌丸さんが81歳で亡くなったとき、円楽さんは自分も“80歳すぎぐらいまで落語をやりたい”って言っていました。まさか72歳で亡くなるなんて、まだ早いですよね……」
常連だった円楽さんの変化に気づいた蕎麦屋店主
30年間通い続けていた蕎麦店『丸喜家』の店主も、円楽さんの変化に気づいていた。元気なころの様子について、こう語る。
「だいたい月に2回くらい通っていただきました。キープしている焼酎ボトルがあって、まずはそれを1杯飲んでから、『鶏南蛮そば』にお餅を2つトッピングして食べるのがお決まり。凝り性なんでしょうね、ほかのメニューは頼みませんでした」
そんな円楽さんに異変を感じたのは、今年に入ってからのことだった。
「最後に来たのは、今年の5月くらい。30年間ずっと残さずに食べていたのに、その日はお餅も入れず、そばを初めて残したんです。“残しちゃって悪いね、もう食べられないんだ”と言っていました。その後は車イス生活でしたが、こんなに早く亡くなるなんて思いませんでしたよ……」(蕎麦店『丸喜家』店主)
元気な笑顔を近くで見守って来た人たちも、驚きと悲しみを隠せない様子。近所にある医療クリニック『永岡医院』の永岡喜久夫院長は、持病の喘息がある円楽さんを長らく支えていた。
「地方公演に行かれるときなどに、点滴を受けに来ていただきました。かれこれ30年ほどのお付き合いでしたね。芸能人だし多忙なはずだけど、ワガママなんていっさい言わず、いつも朝6時に予約のために診察券を持って来院していました。ドテラを着て来たり、まったく気取らない様子でしたよ。読書家で、点滴中はいつも本を読んでいました」(永岡院長)
誰に対しても気さくな姿勢を崩さなかったが、落語のことになると表情が変わった。
「以前、公演に呼ばれて挨拶するために楽屋へ行こうとしたんですが、円楽さんは開演1時間前から精神統一をしているので、入れませんでした。そのときだけは、普段の気さくな円楽さんと違いましたね。最後に来院したのは、高座復帰した前日の8月10日。そのころは食事がもうほとんど喉を通らない状態で、栄養剤を飲んでいました。衰弱しているのがわかったから、私も心配で、当日はスタッフみんなで見に行きました。奥さんは、そんなときでもチケットを手配してくれて、駐車場まで予約してくれました」(同・永岡院長)
10月2日放送の『笑点』の冒頭では、司会の春風亭昇太が「円楽さんは、回答で世間を厳しく風刺したり、時には恥ずかしそうにダジャレを言ったり。歌丸師匠や私、司会者とのバトルで、大喜利を大いに盛り上げてくれました」と追悼の言葉を述べた。きっと天国でも座布団の上から、いたずらっぽい表情を浮かべながら笑っているに違いない。