デビット伊東さんが'21年から神奈川県・真鶴で営むラーメン店『伊藤商店』。コロナ禍で、しかも店舗は小さな港町にある。経営はうまくいっているのかと思いきや、行ってみるとそんな心配は無用のよう。
毎日11時にオープンし、14時半には売り切れるという人気ぶり。神奈川全域や都内からも客が訪れ、新メニューができたと聞けば、朝から並ぶ常連客もいる。すっかりラーメン店主人が板についた伊東さん。最近、あまりお見かけしない気がするが?
いかりや長介さんに背中を押されて
「今も舞台やドラマなどのお仕事をさせていただいていますよ。'00年にテレビ番組の企画でラーメン店を始めましたが、それからずっと両立しています。芸能の仕事を続けているのはTBS系ドラマ『聖者の行進』で共演した、いかりや長介さんの影響が大きいんです」
と伊東さん。いかりやさんは、伊東さんにとっていわば恩師のような存在だ。伊東さんが'00年にラーメン店を始めて1年たったころ、いかりやさんが突然訪ねてきたのだという。
「最初に出した東京・渋谷の店の裏口から、『おうっ!』と入ってきて。口数の少ないいかりやさんが『芸能界辞めたのか?』『いいから、もう真剣に役者やれ』と言うんです。その後、いかりやさんが出演するドラマに一緒に出させていただくようになりました」
付き人のようにいかりやさんの身の回りのお手伝いをし、腰の低さや、芸への厳しさなど多くを学んだという。共演当時、役作りに悩んでいた伊東さんに対して「おまえのやりたいようにやれよ」と背中を押され、それがきっかけで伊東さんの演技は高く評価されるようにもなった。いかりやさんの最期を、ドリフターズとともに看取ったというから絆の強さがうかがえる。
「いかりやさんは、決して弱音を吐かない人でした。撮影が終わると朝までスタッフや共演者との飲み会に付き合って、先に帰るとは絶対に言わない。翌日は走り込んで汗をかいてお酒を抜いて、長いセリフもこなして。すごいパワーでしたね」
そういう伊東さんもパワフルだ。いかりやさんの手伝いなどを続けている時期も、ラーメン店にも立つ生活を続けた。かれこれ20年以上、芸能界とラーメン店の仕事を両立し、平均睡眠時間は3時間。
「人の笑顔を見るのが好きなので、苦にならないです。芝居もラーメンも、お客さんに楽しんでもらう点では同じエンタメだと思うんですよ」
最初に開店した渋谷のラーメン店は、番組のスポンサードが1年で終了し、その後は自ら会社を興して独立。銀行に50回ほど頭を下げて3000万円を借り、東京・中延に店を構えた。経営は妻の能子さんもサポート。エステティシャンだった能子さんとはローカル番組の撮影で'94年に知り合い、遠距離恋愛を経て結婚している。
コロナ禍での出費は7000万円
その後、伊東さんはラーメン店のスタッフたちが活躍する場を与えたいという意図もあり、店舗を増やしていった。経営に危機を感じれば大失敗する前に店を閉め、次の店を開く堅実路線をとりながら、国内に6店舗、海外4店舗まで拡大した。
「海外はマカオ、上海、北京に出店。普通のラーメン店ならフランチャイズ化しますが、僕は直営で行い、自分で現地に乗り込んで指導しました。もともと水泳のコーチをしていたし、人に教えるのが好きなんです」
現在、ラーメン店は国内3店舗に縮小。その3店舗はスタッフに任せ、伊東さんは'21年に真鶴の『伊藤商店』をオープンし、能子さんとともに運営する。
「店舗縮小はコロナ禍の影響です。日本より先に海外はロックダウンしていたから、店舗の営業も完全ストップしていた。日本もそうなると確信し、海外を含めて50人ほどいたスタッフを守るため、海外の店舗はすぐ畳み、補償金を払った。国内に残した3店舗には銀行から3000万円を借り入れて、切り盛りしています」
海外店のスタッフに払った補償金も合わせると出費は7000万円。貯金はなくなったが、スタッフは誰も離れなかったという。伊東さんはさらに、能子さんを守るために移住も検討し始めた。
「以前は横浜に住んでいたのですが、コロナ禍の閉鎖的な空気の中で、奥さんの気持ちが不安定に。そんなとき番組の仕事でよく訪問していた真鶴に何度か遊びに行くようになり、2人とも開放的な土地の雰囲気を気に入ったんです」
と伊東さん。能子さんもこう続ける。
「ここでは『伊東さんの奥さん』ではなくて、みんなが『たかこさん』って呼んでくれます。気取らずざっくばらんに話してくれるのが気持ちよくて。私は静岡の焼津出身なのですが、真鶴も同じ漁師町。雰囲気が似ているのも安心できました」
真鶴は人口7000人弱の、神奈川県で2番目に小さな町。伊東さんにはもともと地方に移住して2人で何かしたいという夢があり、真鶴に住んでラーメン店を開くことに決めた。
店舗は海の見える高台に、元そば店の居抜き物件を見つけ、地元の大学生たちの助けも借りてリフォーム。家探しの段階で緊急事態宣言が出て身動きがとれなくなった際も、地元の人たちが物件探しや引っ越しを手伝ってくれた。
「おかげで住みたいと思う家が見つかり、近所の人たちも一緒に2回にわたって横浜と真鶴を往復し、家財道具を全部運んでくれた。本当に感謝しています」と伊東さん。
真鶴を舞台にした映画も製作中
『伊藤商店』という店の名は、夫婦でやっていく決意を込め本名の「伊藤」からとった。スープは、伊東さんが「日本一おいしい」と太鼓判を押す地元の干物店の鯖の骨をベースに、季節に応じてとんこつや鶏のスープを合わせる。メニューは四季や月ごとに変更し、気候にも配慮しながら考案しているそうだ。
「普通のラーメン店なら、店主のこだわりでスープを作ると思いますが、僕はただお客さんを楽しませたいだけなので、スープもメニューもコロコロ変えちゃう。町には飲食店が少ないので、みんなの外食をもっと楽しめるようにしたいという思いもあります」
伊東さんは早朝に起きてスープを仕込み、夜は早く寝るという健康的な生活。
「スーパーもコンビニも遠くなりましたが、昔からの物々交換が息づく地元では、野菜とチャーシュー、サワラとホタテなど、新鮮な食材が交換で手に入る。かえって食生活は豊かになりました」
こうしてラーメン店に立ちつつも、芸能の仕事も続ける伊東さん。
「1年目は真鶴の地に足をつけるため、知り合いの監督の映画に出るのみに。2年目の今年は1か月半だけ店を閉めて舞台に出演しました。役者の仕事は来年半ばまで決まっていますが、短期で撮影できる役に絞っています」と、あくまで自分でラーメンを作りながら、芸能の仕事も続けていくというスタンスだ。
「僕は役者として勉強すべきことをラーメン店で教えてもらっている。ラーメンを食べたお客さんの笑顔から喜びをもらうことで、芝居にお返しできることがあるのではないかと。今は1つの仕事にしがみつく時代ではないと思うので、多方面で仕事をしながら、それぞれエンタメとして成立させていきたいと思っています」
これからは、お世話になった真鶴に恩返ししたい、と伊東さん。
「まずは町のシャッター街の、元鮮魚店を人の集まる場所にしたい。1階は駄菓子店にし、真鶴のオリジナルグッズも作って販売します。2階は町の人が特技を教える教室に。住民が好きなことを学べて、教える人にはお金が入る。そんなしくみをつくりたい」
さらにアカデミーも構想中だ。
「地元の子どもたちが、東京や横浜に出なくても学べるよう、僕の芝居や飲食店のスキル、奥さんのエステの技術、僕の弟でキックボクサー伊藤隆のスポーツの技術などを教える施設もつくりたい。真鶴を舞台にした映画も製作中。土地の魅力を発信しながら、地元の人たちに夢を持ってもらいたい。これからもみんなで真鶴を盛り上げていきたいです」
取材・文/野中真規子