報道や情報番組、バラエティーなどフジテレビのアナウンサーとして長年活躍を続けた笠井信輔さん。しかし'19 年、フリーアナウンサーへの転身を決意し会社を退職した直後にがんが見つかる。死をも覚悟した闘病生活、家族の支え、そして大病を克服し見つけた新しい自分とは……?
何度も救われた妻の言葉
もしも、自分が「死」を覚悟するほどの苦しみを抱えたら、大切な家族とはどう向き合ったらいいのだろうか?笠井信輔さんなら“当事者”としての思いを語れる。
血液のがんである「悪性リンパ腫」の診断が下ったのは3年前。それは、人生最悪のタイミングだった。
「アナウンサーとして32年間勤めたフジテレビを退職してフリーになった矢先、がんの告知を受けたんです。その日は、どうやって家に帰ったのか覚えていなくて。仕事はどうなる? 家族には何と言おうか? 何ひとつ冷静に考えられなかった」
笠井さんは5人家族。妻の茅原ますみさん(58)はテレビ東京の元アナウンサー。3人の息子は、当時、長男が26歳の社会人、次男は大学4年生、三男は高校2年生。息子たちにはまだ話したくない。でも、妻には黙っているわけにはいかない。帰宅した笠井さんは、こう告げた。
「ごめんね、病気になっちゃった」
ただ事ではないと、すぐにますみさんは気づく。
「泣いてたんですよね、涙がポロッと、これで終わりだっていう感じで。でも、この人は死なないと、私は直感的に思ったんです。だから悲しみを打ち消すように『大丈夫!』って」(ますみさん)
妻の言葉に裏表がないことは、笠井さんが誰よりも知っている。これまでも、ますみさんの言葉に自分が何度救われてきたことか。
「全力で走っていて、つんのめりそうになると、必ず妻が手綱を引いてくれた。考えてみれば、僕の人生の肝心なところでのジャッジは、みんな妻がしているんですよ」
夫のがん告知にも、ますみさんは冷静だった。落ち込む笠井さんにセカンドオピニオンを提案。悪性リンパ腫に詳しい医師を探して精密検査を受けると、がんの素性がわかった。
病名は“びまん性大細胞型B細胞リンパ種”。ただ、病状は想像以上に深刻なものだった。
「PETというカラー画像診断の結果を見せてもらうと、全身のあちこちが黄色く光っていた。そのすべてががん細胞だと告げられたときは、オレ、死ぬのかなって……」
がんの進行度はステージIV。しかも、予後(見通し)の悪いタイプ。重篤な病状だが、考えうる抗がん剤治療も示された。選択したのは通常よりも強い治療法。壮絶な入院治療は4か月半に及んだ。
退院は'20年4月30日。その35日後に「完全寛解」の診断。がんは消えた。死も覚悟した大病を笠井さんは乗り越えた──。
病が教えてくれた新たな生き方
フリーアナウンサーとして再始動した笠井さん。コロナ禍でしばらくはリモート出演が続いていたが、8月には外出を伴う仕事にも本格復帰。
退院してから初のスタジオ収録は、20年以上続く映画情報番組『男おばさん!!』。司会でコンビを組むのは、フジテレビの軽部真一アナウンサー(60)。井戸端会議のおばさんのような2人の掛け合いで、いつものように絶妙なシネマトークが繰り広げられた。約8か月ぶりにスタジオに帰ってきた笠井さんの仕事ぶりを、軽部さんはこう述べる。
「ブランクを感じるかなと思っていたら何も感じなかった。映画を熱く語るところも、熱が入りすぎて空回りしそうになるところも、笠井らしさは何も変わっていませんでしたよ」
明るく、楽しく、時に前のめりになるキャラクターは健在。テレビの画面には、視聴者が見知っている以前と変わらぬ笠井アナの姿が映し出された。
けれども、笠井さん自身の生き方は変わった。いまの自分は、がんになる前の自分とは違う。変わることができたのは、家族のおかげ──。
ますみさんにがんを告白した数日後、笠井さんはひとり暮らしをしている長男に電話をかけた。なかなか病気のことを切り出せずにいると、長男のほうから言われた。
「がんにでもなったの?」
図星。言い当てられ、動揺しながら、息子たちの父親に対する思いに心をえぐられた。
「長男のひと言に込められていたのは、驚きや、悲しみの以前に、『だからあれほど言ったじゃないか!』という思いですよね。それまで僕は、家族のためにと思ってひたすら働いてきた。でも、結局は自己満足だった。
がんを告知される少し前に、次男に就職先の希望を尋ねたことがあったんですが、『休みをちゃんともらえるところ』と答えました。息子たちにとって、家族を顧みないで仕事に明け暮れる父親の姿は反面教師でしかなかった。『そんな生き方をしていたらダメだ』という家族の声に、僕は耳を傾けようともしていなかったんです」
家の外では人気アナウンサーでも、家の中ではダメな夫で、ダメな父親だった。が、がんになり、ダメな自分は家族の中でもっとも弱い存在となった。そして、弱い自分は温かい家族の思いに包まれた。
がんとの闘いの日々は、自分の人生を立ち止まって見つめ直す機会となった。
「がんになって失ったものもあったけれども、得たものもたくさんあるんです。僕の第二の人生は、まだ始まったばかり。新たに得たものを積み重ねて、“新しい笠井信輔”にならなければと思って、いま僕は生きているんです」
努力と運でつかんだアナウンサーの道
アナウンサーという仕事は笠井さんの天職かもしれない。
人前でしゃべることの喜びを知った原体験は、小学4年生のとき。子ども祭りでステージの進行を任され、大人顔負けの司会が評判になる。マイクの前でしゃべりたい一心で、学校では放送委員会に入り、児童会長にもなった。
「校庭に集まった全校児童の前であいさつをすると、マイクを通した自分の声が校舎にはね返って聞こえてくるんですよ。それがもう、快感で」
中学校でも放送委員会で活動し、生徒会長を務めた。高校では昼に流す番組制作に携わり、文化祭でクイズ大会の司会をやると会場は人であふれた。進路指導の担任からは、こんな言葉を掛けられた。
「信輔は大学に行くよりもテレビに出ることを考えたほうがいい」
笠井さんのアナウンサーへの憧れを、明確な“目標”へと変えたひと言だった。
「自分の夢を本気で応援してくれる大人がいるんだと思えたことが本当にうれしかった。
だから卒業アルバムの寄せ書きには、〈俺を忘れそうになったらテレビを見てくれ〉って書いたんですよ(笑)」
問題は成績。担任からは「入れる大学はない」とキッパリ言われた。だが、テレビ局は大卒者しか採用していない。ならば、勉強するしかない。
「浪人して、予備校では1人の友達もつくらず、バイトもせず、勉強だけの毎日。受験前の冬には母親から『もう勉強はしないでちょうだい』って泣きつかれたほどでした」
やるからにはとことんやる。それが笠井さんの性格。早稲田大学商学部に合格すると、放送研究会の門を叩(たた)いた。
アナウンス学校にも通った。そこがますみさんとのファーストコンタクトの場。大学4年生になり、在京キー局のアナウンス講習会でますみさんと再会した笠井さんは、「一緒に頑張ろうよ」と声を掛けた。ここから2人の交際が始まった。
しかし、在京キー局の壁は厚い。日本テレビ、テレビ朝日、共に最終面接の前で落とされると、アナウンス学校の教務主任に呼び出された。
「笠井さんのノリは現場では評価されますが、上層部は保守的です。最終的に評価されるのはマジメな人材。残ったフジテレビでは積極的な発言は控えてください」
人が変わったようにおとなしくしていたフジテレビアナウンサーの試験は順調に進み、あとは最終面接のみ。今度もおとなしくしていれば採用されるだろうか?迷っていると、教務主任から再び連絡が。アナウンス学校OBの局アナが、電話で相談に乗ってくれるという。
「迷いを打ち明けると、『自分にウソをついて落ちるのと、自分の本気を出して落ちるのと、どっちが納得できるか?落ちたことを教務主任のせいにしたくないなら自分で選びなさい』と。そのアドバイスで吹っ切れて、もう最終面接はスパークですよ(笑)」
最終面接に臨んだ学生は3名。採用枠は2つ。そこにすべり込めたのは実力ではなかったと笠井さんは言う。
「実は僕の評価は3番目だったんです。ところが、上の2人が非常にマジメで似ていたから、同じタイプは2人いらないということで僕が繰り上がった。人事担当者から、『運が良かったな』と言われましたけれども、本当にそうかもしれない。
上司からはマジメな性格の『塩原(恒夫アナ)を見習え!』って散々怒られたし、塩原からも『おまえが同期で良かった。オレは立っているだけでホメられた』って感謝されましたからね(笑)」
波瀾万丈のフジテレビ局アナ時代
笠井さんが志したのは喜怒哀楽を表現できるアナウンサーだった。入社早々、個性は発揮された。2期先輩になる前出の軽部さんは、こう話す。
「アナウンサーには、自分から前に出たがるのはカッコ悪いという美学みたいなものがあるんですが、笠井は新人のときから『1秒でも長くテレビに映りたい』と公言してはばからなかった。
これは彼の名言ですよ。それを言っても許されたところは、笠井の人徳じゃないですかね」
入社した'87年はバラエティー全盛期。不動の人気番組だった『オレたちひょうきん族』に出られて浮かれていると、テレビ東京に入社して報道記者になっていたますみさんから手綱を引っ張られた。
「番組の人気を自分の人気だと勘違いするなと。あのときの助言があったから、僕はアナウンサーとしていちばんやりたかったワイドショーに舵(かじ)を切ることができたんです」
午後の情報番組でリポーターとして笠井さんは持ち味を発揮。難しい内容もわかりやすく伝える力が評価される一方で、よく「噛む」ことでも笠井さんは有名になった。
「後輩たちからも『また噛んでましたね』ってからかわれるくらい、よく噛むんです。悔しいから、噛んでも伝わるのは『噛み技だ』って(笑)」
入社4年目の'90年6月、笠井さんはますみさんと結婚。'94年には長男を授かると、ますみさんの希望で出産にも立ち会った。これが大きなニュースに。イクメンの先駆けとなった笠井さんは『ボクの出産日記』という本を書き、マタニティー雑誌の表紙も飾った。
'98年に次男が、'03年には三男が誕生。子育てには全力で関わった。長男の小学校の保護者会には毎回のように出席。PTAの会長にも推薦された。児童の父親たちを集めて「マイダディの会」を結成し、子ども会の準備などにも積極的に参加した。
息子たちには「お父さんに用があればいつ電話してもOK」と約束をした。本番直前にしばしば携帯電話が鳴る。出ると、「牛乳買ってきて」。そんな会話も大切にした。まだ笠井さんは、ダメな夫でも、ダメな父親でもなかった。
アナウンサーとしての人生には紆余(うよ)曲折があった。ワイドショーで揉(も)まれた笠井さんは、'96年4月に情報番組キャスターに抜擢(ばってき)された。
ところが、視聴率が伸びず、半年でキャスター交代。メインを降ろされた番組に「リポーターとして残れ」と言われたことに納得できず、幹部と衝突。
「このときも妻に相談したんです。そしたら、『やりたくないなら、少し休みなさいよ』と言ってくれた。
それで番組に残ることを断固拒否したら幹部がキレちゃって、『オレの目の黒いうちは絶対におまえを使わん!』って、情報番組を全部降ろされたんです」
人生、マイナスもあればプラスもある。情報番組を干された直後、報道番組から声がかかった。現場取材の技量が見込まれ、夕方のニュース番組『FNNスーパータイム』でリポーターを任される。
12月17日、ペルーで日本大使公邸占拠事件が起こると、すかさず現地へ。約600人が人質となる緊迫した状況で犯人側と接触し、インタビューするというスクープをモノにした。
身体を張った仕事ぶりは局内でも高く評価され始め、笠井さんに帰国命令が出る。
「まだ事件は解決していません、取材を続けます」と言う笠井さんに報道番組の幹部は言った。
「スーパータイムは3月いっぱいで終わる。次の番組はおまえがメインキャスターだ」
'97年4月にフジテレビはお台場の新社屋に移転することが決まっていた。新番組の『FNNニュース555ザ・ヒューマン』は、これまでのニュース番組の手法に縛られない斬新さが目玉。新生フジテレビの象徴として総力を挙げて企画された報道番組のメインキャスターへの大抜擢。さすがに戸惑った。
「多くの先輩アナを差し置いて、報道の経験も浅い30代半ばの自分がメインなんて、普通に考えれば無理ですよ。ニュースもよく噛むし(笑)。そしたら、僕のために3年用意していると言われたんです。3年でいっぱしの報道キャスターになってくれ、と」
笠井さんは、自らも現場に飛び出す新しい報道キャスターとして全力で大役を務めた。しかし、新しさに視聴者はついてこなかった。番組への評価は低調。辛口で知られる批評家のナンシー関さんからは、連載コラム『テレビ消灯時間』にこう書かれた。
《すでに半年以上経つというのに笠井メインキャスターに安定感のかけらも見られない。不思議なくらい地に足がついていないのである》(『週刊文春』'98年2月5日号)
「大ショックでしたよ。ところが妻に言われたんです。『信ちゃんの仕事がナンシー関さんの目に留まって、コラムに取り上げられたんだから、これはスゴイことだよ』って」
『ザ・ヒューマン』は1年で終了した。だが、ますみさんが感じたように、笠井さんの存在感や発信力は大きくなっていた。その力に期待したのは一度は見限られた情報番組。
「リニューアルする『おはよう!ナイスデイ』に来てくれ。メイン司会だ」
プロデューサーに請われ、朝の情報番組に笠井さんは登板。しかし、視聴率は伸びず、またしても1年で終了した。
仕事に没頭しすぎて制服で出社!?
フジテレビの朝に必要なのはリニューアルではなく大改革だった。総合司会にフリーの小倉智昭さんを迎え、『ナイスデイ』の後番組として『情報プレゼンター とくダネ!』の準備が進められる。プレゼン形式でニュースを伝える番組に「笠井アナは不可欠」と判断された。
が、笠井さんには葛藤があった。3年前、メイン司会からリポーターになることを自分は拒否した。状況は今回も同じではないか……。
そんな笠井さんの心中を察したのは、新番組の命運を託された小倉さんだった。
「番組を引き受けるに当たって、僕がいちばん心配していたのが笠井のことだったんですよ。直前の番組で司会をしていたのに、次の番組で僕をサポートする役に回るというのは、アナウンサーとしては屈辱の部分もあるはずです。それでも頑張ろうって、彼がどこまで本気で思ってくれるのか」
小倉さんは、笠井さんと直接話をする機会を持った。そして、“決意”を聞いた。
「大丈夫です、僕は小倉さんとやりたいです」
葛藤を消したのは、飛躍するチャンスを見つけたからだった。新番組では芸能ネタだけでなく、政治・経済・社会ネタも取り上げる。30分間で世の中の“いま”を伝える『とくダネ!TIMES』のコーナーを、笠井さんは全権を持って任された。伝える情報は自分が選ぶ。ディレクターの原稿に指示を出し、自分でも原稿を書く。そして自分の声で視聴者に伝える。
「制作デスク兼任で仕事ができるんです、こんなにおもしろい仕事は、司会者にもできないと思いましたね」
『とくダネ!』は、同時間帯の視聴率で他局を圧倒。小倉さんの歯に衣(きぬ)着せぬ本音トークで始まる番組は、「朝のワイドショーを変えた」と評された。小倉さんは言う。
「僕が奔放に話せたのは、局アナの笠井や佐々木恭子がツッコミ役やブレーキ役になってくれたおかげなんですよ。オープニングで何を話すか、毎回彼らには一切伝えていなかったから、僕が考えていたオチを笠井が先に言っちゃったりすることもあったけれども(笑)、本当により良きパートナーだった」
『とくダネ!』の2時間半前に始まる『めざましテレビ』に出演している軽部さんが出社すると、アナウンス室にはすでに笠井さんがいたという。
「3時くらいには来ていて、台本を作り込んだりしていましたからね。それは彼らしい熱意ではあるんだけれども、要領は悪いんです。目の前にやるべきことがあると、そこに集中して他のことに気が回らなくなる。アナウンス室では有名なエピソードですが、笠井は息子さんの制服を着て会社に来たこともありましたよ」(軽部さん)
目が覚めれば仕事モード。服を間違えたことにも気づかない。それでも仕事では結果を出し続けた。会社からも評価され、'07年にはアナウンス室専任部長に昇格。そして、
「アナウンサーとしてもっとレベルアップしたいという思いが強くなったんです。45歳くらいから、僕は家族よりも仕事に向き合うようになってしまいました」
'11年3月11日。東日本大震災が起こると、笠井さんは取材の先発隊に名乗りを上げた。部長クラスのアナウンサーが災害直後の現場に入るのは異例のこと。『とくダネ!』では連日笠井さんの生々しいリポートが報じられた。
笠井さんが被災地から戻ってきたのは2週間後。その後も取材のために毎月東北を訪れた。そんな父親の様子を、息子たちはテレビで目にしていた。そして、ますみさんにポツリと言った。
「お父さんは僕たちよりも東北の子どもたちのほうが大事だもんね」
東日本大震災から数年が経過しても、笠井さんが息子たちと一緒に過ごす時間はほとんどない状態だった。会社の仕事だけでなく、年間130本の映画と100本の芝居を見る。それもレベルアップの糧。3時出社、23時帰宅の毎日が充実していると思えた。その自分の生き方に、笠井さんは疑問を持たなかった。
フリーになった矢先のがんとの闘い
番組にも寿命がある。『とくダネ!』も長寿番組となり、視聴率に波が出始めると、若手を前に出すという方針で、笠井さんには後進の指導が任された。
'18年に後輩の伊藤利尋アナが加入すると、笠井さんの出番は大幅に減った。
「日によっては1分しかしゃべれないときもあった。それで組織における自分の限界が見えたというのかな。フジテレビでの僕の役割は、もう終わったと感じたんです」
会社を辞めようか?ただ、何の準備もしていない。意見を求めた相手とは、フリーの大先輩でもある小倉さんだった。
「笠井には映画とか芝居とか得意な分野があるんだから、フリーでも活躍できるよって、以前にもアドバイスしたことがあったんです。そう言って賛成しておきながら、彼が会社を辞めるのを、僕が1年遅らせてしまったんだけれどもね」
半年後の秋。笠井さんは会社に辞意を伝えた。ところが、思わぬ情報を聞かされる。
「小倉さん、11月にがんの手術をするそうだ」
膀胱(ぼうこう)全摘出の大手術。復帰までには2か月かかる。そんな時期に会社を辞めるわけにはいかない。辞意は保留。
小倉さんは手術を無事に終え、元気になって番組に復帰した。が、そのころから笠井さんは日増しに体調不良に悩まされるようになっていた。
病院に通い、何度も検査を受ける。'19年9月30日、健康への不安を抱えたまま笠井さんはフジテレビを退社。一夜明けた10月1日に受けた検査でがんの徴候が見つかった。
12月19日。笠井さんは『とくダネ!』に出演し、自分ががんであることを生放送で公表した。そして、その日のうちに入院。抗がん剤治療に身体も心もくたくたに。副作用で髪は抜け、じんましんで顔はボロボロになったりした。そんな、「ぶざまでカッコ悪い笠井信輔」を、毎日のようにブログにアップした。
「これまで僕は情報番組で有名人のプライバシーを伝えてきた。その自分ががんになって、そっとしておいてくれというのは違うなと思ったんです。もうひとつの理由は、がんで死ぬところまで記録すればドキュメンタリーとしての価値が上がると思ったから。自分が死ぬ覚悟はできていた。すべてを記録して病室から情報発信すればセルフワイドショーができるじゃないですか」
明るく話す笠井さんだが、入院中は気力も体力も失せ、動くこともままならない日もあった。そんな笠井さんを、家族は笑顔で励まし続けた。
「大病するとみんなやさしくなるんだね」
笠井さんがこう言うと、ベッドサイドでますみさんは答えた。
「あなたが素直になったから家族はひとつになれたのよ」
がんになった自分を見つめながら、笠井さんは妻や息子たちの言葉に耳を傾けるようになっていた。カッコ悪いお父さんだが、家族としっかり向き合っていた。
新しい自分を“全力”で生きていく
がんになったからできることが、いまの笠井さんにはたくさんある。がん情報サイト『オンコロ』では、がんをテーマにさまざまな切り口でゲストにインタビューをする『笠井信輔のこんなの聞いてもいいですか』を配信中。
入院患者がネットにアクセスできる環境整備を推進するために立ち上げた『#病室WiFi協議会』の活動は、国を動かした。コロナ禍での短期的な措置ではあったものの、入院病棟のWi-Fi設置工事に補助金がついた。
「病室で無料Wi-Fiが使える病院はまだ3割強ですが、確実に増えています。先日も厚労省に行って、補助金の復活をお願いしてきました。日本のすべての病院で、入院患者がSNSや動画にアクセスできることを目指して、今後も積極的に活動していきますよ」
得意な映画の分野でも予告編のナレーションに初挑戦。その公開中の映画『愛する人に伝える言葉』は、くしくもがんにまつわる家族の物語。
「親子の闘病を描いた映画は山ほどあるけれども、この映画のとてつもなく深いところは、主治医を演じているのが本物のがん専門医であること。フィクションなのに、引き込まれたのは現実の世界そのものでした。人生の終点までどう生きればいいのか、見る人それぞれに“気づき”を与えてくれる映画だと思います」
母親役のカトリーヌ・ドヌーヴが、医師の言葉を理解するシーンがある。末期がんの息子のために「全力を尽くしていない」と吐露する母親に医師が告げたのは、「全力と過剰は違います」という言葉。
「まるで自分が諭されているようでした。がんになる前は、常に130%で臨むのが自分のスタイルだった。それは全力を尽くしていたわけではなかったんですよね。がんになったことで、僕もこの映画の主人公たちのように自分や家族に余計な負荷をかけない生き方を選びたい。“新しい笠井信輔”は、それができる夫であり、父親でありたいと思っています」
シネマトークは笠井さんの真骨頂。話はどんどん熱くなる。体調が良いからこそ、最近は「ついつい過剰に頑張りそうになる」と苦笑する。
でも、そんなときはますみさんがしっかり手綱を引いてくれる。「ほらほら、また元の笠井信輔に戻るの?」と。
〈取材・文/伴田 薫(はんだ・かおる)●ノンフィクションライター。人物、プロジェクトを中心に取材・執筆。『炎を見ろ 赤き城の伝説』が中3国語教科書(光村図書・平成18~23年度)に掲載。著書に『下町ボブスレー 世界へ、終わりなき挑戦』(NHK出版)。