女優・冨士眞奈美(84)が語る、古今東西つれづれ話。麻雀(マージャン)仲間との思い出を振り返る。
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俳優座養成所時代、私は麻雀に夢中になった。
「天国」と「地獄」という雀荘
深い理由はなく、ただただ面白かっただけ。「一日一雀」をスローガンに、養成所の仲間たちと卓を囲んでいた。
俳優座養成所は、今も昔も六本木4丁目にある。その近くに、「天国」と「地獄」という雀荘があった。
アマンド横の坂を下ってすぐ右側に「地獄」が。そこから、またしばらく下りていくと「天国」という雀荘が。「天国と地獄」じゃないの。「天国」と「地獄」、それぞれあるから笑っちゃう。
今日は「天国」に行こうかしら、それとも「地獄」に行こうかしら──。そんな調子で、私たちはよく麻雀に興じていた。
特に、同期の石崎二郎さん(佐分利信さんのご子息)は大の麻雀好きだった。彼は、暇を見つけては麻雀ばかりしていたから、ついたあだ名が「ロン」。私たちは親しみを込めて「ロンちゃん」と呼んでいた。
同期の柳生博は、カードゲームのラミーが好きだったから「ラミー」と呼ばれていた。今考えると、まるで『太陽にほえろ!』の登場人物みたいよね(笑)。ちなみに、私は普通に「眞奈美」と呼ばれていた。
同期には、プロレタリア文学の大家でもある中野重治さんの一人娘、卯女(うめ)ちゃんもいた。うめちゃんは、私のことをずっと本名の「岩崎さん」って呼んでいたまじめな人だった。
麻雀に明け暮れた日々
俳優座の同期ではないけれど、麻雀好きで思い出すのは、小林千登勢さん(享年66)。彼女は麻雀が好き……というか、競馬を含めたギャンブルが大好きだった。あんなに純情そうな顔をしているのに、人は見かけによらないとはこのことよ。
彼女の家に遊びに行くと、『勝馬』という競馬専門紙がよく置いてあった(笑)。彼女も、旦那さまである山本耕一さんも下戸だったから、ストレス発散の意味もあってギャンブルが好きだったんだと思う。
以前、この連載で小林千登勢さんと私とでヨーロッパを周遊したエピソードを書いた。当時、私たちは麻雀仲間でもあったので、実はその旅先で、雀卓があれば麻雀をしていたくらいだった。
イタリアを巡ったときは「若い女性2人が麻雀に理解があるなんて珍しい!」ということで、イタリアの日本人駐在員の方が、わざわざ雀卓を探しまわってくれたし、ハワイの新婚旅行ではスチュワーデスさんたちと卓を囲んだことも。これぞ麻雀放浪記よ。
いろんな人と麻雀をしたなぁ。ミニコミ誌の草分け的存在である『話の特集』という雑誌を知っているかしら?
1965年の創刊から1995年の休刊まで矢崎泰久さんが編集長を務め、黎明(れいめい)期には谷川俊太郎さん、寺山修司さん、小松左京さん、小沢昭一さんなど多数の文化人が登場する先鋭的な雑誌だった。
この『話の特集』、句会をしたり、マラソン大会をしたり、イベントを催すことが恒例だったんだけど、その中に麻雀大会があった。私も、その輪の中に入れてもらったことがある。
ずば抜けて強かったのは、色川武大さん。またの名を阿佐田哲也。プロで“雀聖”と呼ばれた、本家本元、『麻雀放浪記』の作者さんである。もう強いのなんの。手も足も出ない。
あまりに次元が違うから、素人みたいな私たちと卓を囲むことはあまりなかったけれど、私たちが打っている姿を、後ろから楽しそうにのぞき込んでいたなぁ。あるとき私が打っていると、「だめだよ。タンヤオピンフにならないよ」なんて言われてしまい、固まってしまったのはいい思い出ね(笑)。
私は大酒飲みだったから、途中からお酒のほうに走ってしまって、麻雀はたしなむ程度になった。でも、麻雀はいろいろな人と「輪」を生むすてきな娯楽だと思う。少なくとも3人は友達ができる。養成所時代に、麻雀に出会えたのは幸運だった。今でもわが家には全自動麻雀卓がある。
〈構成/我妻弘崇〉